オンライン:国際医療NGO「ジャパンハート」創設者の医師 吉岡秀人さん
西村)ミャンマーでマグニチュード7.7の大きな地震が発生してから2週間が経ちました。3000人以上が亡くなったと伝えられていますが、今も被害の全容は明らかになっていません。
きょうは、ミャンマーで医療支援に取り組んでいる国際医療NGO「ジャパンハート」の創設者で医師の吉岡秀人さんにお話を聞きます。
吉岡)よろしくお願いいたします。
西村)地震が発生したとき、吉岡さんはどこにいたのですか。
吉岡)震源の真上ぐらいにいました。マンダレーから川を挟んで対岸にあるサガインという町です。
西村)そのとき何をしていましたか。
吉岡)僕は20年以上、この地域で貧困層の人たちの治療や手術をしています。ひと月の内、1週間~10日間滞在して、約100件の手術をしています。ちょうどその日は、手術が始まる日でした。前日の3月27日はミャンマーの国軍記念日で内戦状態になっていて。サガイン地区は戦闘が激しい地域なので、僕はサガイン地区には入らずに前日はマンダレーにいました。そして、3月28日から通常通り治療を始めようとサガインに入りました。その日は約11件の手術を予定。午前中の簡単な手術から始めていたところ、昼の12時半ごろに地震がありました。ちょうど若い女性の甲状腺のがんの手術で、麻酔をかけ始めるタイミングに最初の揺れが来ました。
西村)どんな揺れでしたか。
吉岡)大きい揺れでした。僕は阪神・淡路大震災ときに大阪の病院で働いていたのですが、そのときに感じた揺れより大きかったかもしれません。現地の耐震設計がされていない病院が揺れて恐怖を感じました。いつ天井が落ちてくるかわからない。タイやミャンマー、カンボジアは地震が少ないので、耐震という発想がなく、非常に地震に弱いエリアです。東南アジアの災害はほぼ洪水で、今回は200年ぶりぐらいの大きな地震でした。しばらくしておこった2回目の揺れの方が大きくて、ものが全部落ちてきました。手術室は壁が落ちて、物が散乱。患者さんは麻酔をかけたばかりで、自発呼吸もできず、意識もない状態でした。麻酔が冷めるまで1時間ぐらいかかるので動かせない。肺の中に入れているチューブがズレると息ができなくなります。麻酔をかけたばかりの患者さんは、人工呼吸器をつけたままみておくしかありませんでした。人工呼吸器はバッテリーがあるので、停電でも動かすことができます。僕は、病棟の約50人の入院患者たちが安全に逃げられたのか見に行こうと外へ出ました。すると、患者やスタッフは近く畑に逃げていましたが、病棟はむちゃくちゃになっていました。
僕たちが運営する病院は、新しい病棟と古い病棟あります。手術室は古い病棟にありました。新しい病棟は、1階の柱が折れかけていて、1階にも患者がいるので、取り残されている人がいないか見に行こうとしたら、現地の人に「危ないから行かない方がいい」と言われて。立ち止まったときに3回目の大きな揺れが来て、新しい病棟は崩れ落ちてしまいました。
西村)新しい方の病棟が崩れてしまったのですね...。
吉岡)古い病棟の方が基礎がしっかりしていたようです。もう1度大きな揺れが来たら、手術室がある古い方の病棟も崩れ落ちる危険があるので、患者を外に出すしかないと思い、急いで手術室に戻って、患者を運び出しました。患者には、気管の中に入れたチューブに空気を送るバックを取り付けて、自分の手で空気を送りました。近くの小さな広場に炎天下の中、運び出してそこで30分ぐらいかけて麻酔を覚ましました。
西村)大変な状況の中で、大きな揺れを経験したのですね...。その患者さんは無事でしたか。
吉岡)無事でした。そこで患者を診ていると、怪我をした人たちがどんどん病院に運ばれてきました。その人たちを病院の前の階段などでストレッチャーにのせて治療しました。
西村)外での治療は大変だったのではないですか。
吉岡)建物が崩れているので埃っぽく、室内ほどの衛生環境はありませんが、糸や針、消毒薬など清潔な医療物資は使えるので、そこまでダメージはありませんでした。しかし、ひどい人をそこで治療することは難しいので、大きな病院までつれていくしかありませんでした。そこでできる限りのことをやりました。
西村)その後はどうなったのですか。
吉岡)サガイン地区は震源地の真上で、町の7~8割は全半壊。ミャンマーの北と南を結ぶ鉄橋も崩落して、車が走る橋も大きな亀裂が入り通行止めになってしまいました。ミャンマーは特殊な国で、外国人に行動の自由がありません。観光できる町も宿泊できるホテルも決まっています。僕は特別な寺に泊まっていますが、ミャンマー人の家には泊まれません。僕は病院の中では自由にできるのですが、3km離れた場所で患者が血を流していても助けに行くことはできない。事前に届け出を出さないといけないんです。いろんな事情があって自由がない。現地の医療スタッフも育っているので、ここは現地のスタッフたちに任せて、僕は後方支援に回った方が良いと考えました。現地のスタッフも僕の安全を第一に考えてくれて、一旦引き上げてほしいということで、その日の夜、暗くなる前に船に乗り川を下って、対岸まで40分ぐらい移動。さらに陸路で2日ぐらいかけてヤンゴンという一番大きな町まで移動しました。
西村)被災地の気候についても教えてください。
吉岡)東南アジアは5月ぐらいから本格的に雨季に入ります。雨季直前が一番暑く、40度を超えます。場所によって違いますが、中部地区は温度が高くてとても暑い場所です。
西村)そうすると病気も蔓延しそうで心配ですね。
吉岡)発災直後は安全な飲み水が確保できないこともありました。被災者は外で寝ていました。彼らは地震を経験したことがないので、恐怖もあり、建物の中には2~3日は戻らなかったようです。今後、雨季に入ると感染症が流行り出します。特に小さい子どもは蚊が媒介するデング熱で死ぬことがあります。雨季になると蚊が発生するので、外に寝ていると噛まれやすい。今の状態が長く続くと、安全な水の不足による下痢などの感染症もさることながら、ウイルス感染の危険性もあると思います。
西村)日本にいるわたしたちにはどのような支援ができますか。
吉岡)現地の政府と契約を結んでいる組織はほとんどありません。僕らは政府に許可を得ているので、現地で医療活動ができます。今も日本人の医師や看護師が巡回診療をしたり、崩れた病院の前で青空クリニックをしたりしています。さらに大量の物資を毎日ピストンでヤンゴンから運んでいます。蚊が媒介する感染症を防ぐための蚊帳や食料や水も配っています。支援したいときは、どのような支援をしたいかを決めて支援先を選べば良いと思います。個人的に支援をしている人もたくさんいます。大きな組織になるほど、ミャンマー政府を通しての支援に変化していくので、現場にどのぐらい届くのかわかりません。医療を支援したい場合は、僕らから確実に届けることができるのですが、それ以外のものを支援したいときは、情報を調べてみてください。
西村)きょうは、ミャンマーで医療支援に取り組んでいる国際医療NGO「ジャパンハート」の創設者で医師の吉岡秀人さんにお話を伺いました。