取材報告:新川和賀子ディレクター
西村)きょうは、新川和賀子ディレクターと一緒にお送りします。
新川)よろしくお願いします。
西村)お花が綺麗な場所に行ってきたそうですね。
新川)はい。緊急事態宣言が出され、ますます行動に気を遣いますが、身近に行けるところで災害について考えられる場所に行ってきました。私が行ったのは、阪急今津線の仁川駅から西に徒歩20分ほどのところにある兵庫県西宮市仁川百合野町です。この時期、シバザクラが鮮やかに咲き誇ることで知られる場所です。ここは阪神・淡路大震災で大きな被害があった場所なんです。関西学院大学の北側の閑静な住宅街で、仁川の穏やかな流れと六甲山系の山の緑が迫っていて、自然が感じられる地域。兵庫県立甲山森林公園の入り口に近い場所で、ハイキングに向かう人々の姿も見られました。
その住宅地の奥の斜面沿いに、シバザクラが絨毯のように咲いています。今年は例年より2週間ほど早く開花したそうで、私が訪れたときには満開を少し過ぎた頃でしたが、それでも見事に咲いていました。このシバザクラは、地元の住民グループ「ゆりの会」のみなさんが、育てて維持・管理しています。テニスコート4面分にも及ぶ庭園「ゆりのガーデン」では、15人ほどが感染対策をした上で、草抜きなどの作業をしていました。
住民グループ「ゆりの会」代表の大野七郎さんの声をお聞きください。
音声・大野さん)この近辺では、シバザクラが一番たくさん咲いています。冬は黄帝ダリアもきれいに咲きますよ。
音声・新川)季節ごとにいろんなお花が咲くんですね。
音声・大野さん)全部で76種類ぐらい咲きます。
西村)どの季節に行っても綺麗なお花を見ることができるのですね。この場所、どんな被害があったのですか。
新川)この場所は、26年前の1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で、地すべりが起きて、甚大な被害が出ました。住宅が建っていた斜面が大規模に崩れ、13棟の住宅が埋まって、34人の命が奪われました。「ゆりの会」代表の大野さんのお話です。
音声・大野さん)毎年1月17日に慰霊碑の前で慰霊祭をしています。自治会と協力してずっと続けています。
新川)仁川百合野町を襲った地すべりの土砂は約10万㎥で、甲子園球場のグラウンド26杯分にも相当する量です。土砂は仁川を超えて、対岸の住宅にまで押し寄せ、亡くなった34人の内8人は、対岸の住民でした。この地域は、地震の揺れによる家屋の倒壊はほとんどなかったそう。地すべりの被害を免れた近所の住民たちが、土砂に埋まった人の救助に向かったが、土砂の中から火の手も上がって、なすすべもなかったそうです。
当時の様子を、「ゆりの会」代表・大野七郎さんと、メンバーの岩城峯子さんが話してくれました。
音声・大野さん)土砂の下に家が埋まっていて、小さい穴から煙と火が上がっていました。そこにみんなで水をかけて。住民一体となって、並んで水を運びました。僕はあとから消火器を持っていきました。最初は「助けて!」という声も聞こえていましたが、やがて聞こえなくなって。川向いの家も潰れて、みんな土を掘ったけど、スコップが入らないくらい固かったんです。
音声・岩城さん)川向こうまで土砂で埋まって、本当にびっくりしました。山が滑り落ちて木も立っていました。家は一軒も見えませんでした。全部土砂の下に埋まってしまったんです。私も家の消火器を何本か持っていったけど、お手伝いできるような状況じゃなかった。たまに中にいる人を助けようと穴をあけると、火がわっと出てきて...。
音声・新川)ご近所のお知り合いの家も被害にあわれたのですか。
音声・岩城さん)長女と次女の同級生の方が亡くなりました。
音声・新川)みなさんが必死でバケツリレーをして、助けられた命はありましたか。
音声・岩城さん)男性が1人助かったんじゃないかな。消火の応援をしてくれた学生が、自分の革のジャンパーをずぶ濡れだったその人に着せてあげたと言っていましたね。
西村)まさか土砂の中から火が上がるなんて、想像もできないですよね。
新川)地震による地すべりで、大勢の命が奪われたということは、実はそんなに知られてないのではと思います。阪神・淡路大震災では、六甲山の周辺で約200ヶ所の宅地の崩壊が起きていて、規模と人的被害が最も大きかったのがこの西宮市の仁川百合野町なんです。
西村)先ほど、この地域は地震の揺れでの建物の被害はそれほど大きくなかったと言っていましたよね。ではなぜ、これほど規模の大きい地すべりが起きて被害が大きくなったのでしょうか。
新川)原因と考えられているのが、崩れた場所の地盤です。仁川百合野町では1950年代に、阪神水道企業団の浄水場の建設のために、幅の広い谷を埋め立てて、深さ20 m にも達する厚い盛り土が作られ、そこに住宅も建てられたのです。こういった造成は、専門的には、谷を埋めた盛土、「谷埋め盛土」とも呼ばれます。しかし、発生当初は、専門家もなぜこれほどの規模の地すべりが起きたか分からなかったそう。調べていくうちに、大規模に埋め立てられた「谷埋め盛土」が崩れたことが分かって、専門家の間にも衝撃が走りました。当時、仁川百合野町の地すべり現場を調査した、京都大学防災研究所教授で斜面災害研究センター長の釜井俊孝さんにオンライン取材しました。釜井さんに、仁川百合野町で起きた「谷埋め盛土」の地すべりについて聞きました。
音声・釜井さん)住宅地を作る時に、平坦な場所が必要ということで、本来は山がある場所を削って、その土砂を谷の中に盛って平らな場所を作って、住宅地を作るということが全国的に行われています。その一つの典型的な場所が阪神間です。これは、その「谷埋め盛土」が滑って被害が出た例です。
音声・新川)谷を埋めた盛土はどのようなメカニズムで崩れたのですか。
音声・釜井さん)谷を埋めることによって、谷底を流れていた地下水が上がってくる。そうすると谷埋め盛土自身が、地下水のタンクのようになります。そこに地震が起きると地下水圧が急激に上がり、土の構造が破壊されて滑るというメカニズムです。
新川)谷があった場所というのは、もともと水があったところ。そこに土を盛って宅地を作っているんです。もちろん、水を排出するシステムはあったのですが、宅地が造成されてから排水管が劣化して、人間の血管のように詰まりやすくなった。そうして水がたまっているところに大きな地震が起きて、一気に崩れたということなんです。
阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた阪神間は、六甲山の周辺に戦前から開発されてきた宅地が広がっています。中でも、盛土をして造成された宅地「谷埋め盛土」は著しく大きな被害を受けやすいといいます。実際に仁川百合野町では、地すべりが起きた場所から一筋離れたところでは、亀裂のひとつもなかったと「ゆりの会」の岩城さんも話していました。
このような谷や斜面を埋め立てて、大規模な盛土で造成する宅地の開発は、戦後の高度経済成長期に全国各地で進められてきました。当時の法律では、このような開発ができたのです。盛土の造成地は、都市部近郊を中心に約5万か所存在していて、地震のたびに大きな被害を受けてきました。阪神・淡路大震災のあとにも、新潟県中越地震、中越沖地震、東日本大震災、熊本地震、そして3年前の北海道胆振東部地震でも盛土の崩落が発生して、住宅地に大きな被害をもたらしています。
西村)番組でも、北海道の胆振東部地震の後に地盤沈下したお宅の取材をしましたね。地すべりで大きな被害が出た仁川百合野町では、地震のあと何か対策がされたのでしょうか。
新川)この場所で再び地すべりが起きないように、兵庫県が大規模な対策工事を行いました。盛土の内部と外部に排水システムを新たに作ったり、大きなくいを打ち込んで、地すべりが起こらないようにしたり。地すべりを防ぐためにコンクリートの法枠も設置されています。そのコンクリート法枠のところに「ゆりの会」のみなさんが県の許可を得てシバザクラを咲かせています。
ここには、地震計や地下水を図る観測装置も設置され、24時間体制で地すべり観測が行われました。観測は16年間続けられ、今は一定の役目を終えたということから通常の監視体制に切り替えられています。斜面のそばには、地すべり資料館が建てられていて、仁川百合野町の地すべりの被害や土砂災害全般について、無料で学べる場所になっています。私が取材した日は、緊急事態宣言出る前だったので、ハイキングに行く人たちが続々と訪れていました。
西村)私も行ってみたくなりました。大きな被害が出たこの場所は、きちんと対策がされているのですね。でも、全国にたくさんある盛土の住宅地の対策は、どうなっているのでしょうか
新川)国土交通省が、ここ数年、対策を加速させています。宅地の開発に関する法律は「宅地造成等規制法」といい、この法律が、2006年に一部改正されて、新たな開発への規制が厳しくなりました。同時に、大規模な盛土の造成地がある場所を自治体が調査して、公表することになりました。2006年改正当時はなかなか進まなかったのですが、大地震の度に盛土の住宅地で大きな被害が出たので、国交省が地方自治体に対して、盛土造成地がある場所をきちんと公表するように通達。去年の3月末に、全国の大規模盛土造成地の地図の作成と公表が100%達成されました。これによって全国999市区町村に、約5万1千カ所の「大規模盛土造成地」があることがわかりました。これは公表されているので、私たちも、自分が住んでいる場所が該当するのかを見ることができます。国土交通省の「重ねるハザードマップ」などで確認してみてください。
ただ、100%達成と言っても、「どこに何カ所あるか」が分かっただけ。今後、盛土がいつ造成されたかの年代、現地の視察、ボーリング調査などをして、安全性を調べていきます。この調査に着手しているのは、盛土の造成地がある全国の市区町村の内、6.3%に過ぎません。国交省は、調査への着手率を5年後には60%にするという目標を先月発表しています。その調査が終わった上で、地震で崩落の危険性があると分かった場所については、対策工事が行われるという流れになっています。
西村)大地震はいつ来るかわからないのに、時間がかかりますね...。今、盛土の住宅地に住んでいるという人は、待つしかないのでしょうか。
新川)いいえ。住民の方から声を上げていくこともできます。京都大学防災研究所教授 釜井俊孝さんの話をお聞きください。
音声・釜井さん)自分が住んでいる地域が盛土にあたる場合、近い将来、強い地震が起きたら、家が傾いたり流されたりするということを念頭に置いて、地域でどう対処していくかを話し合う必要があります。地域がまとまって対策を要望すれば、国は補助金を出すなどさまざまな対応を行っています。まずは実態を認識して、問題にひるまず立ち向かうということをみなさんで共有していただくことが大事です。
西村)みんなで協力して声を上げるということが大切なんですね。
新川)自分たちが住んでいる住宅地が盛土で危ないなと思ったら、まず地域でまとまって自治体に声を上げる。そして調査をしてもらって危険性がわかったら、地震が来る前に対策工事をしてもらえます。工事に大きな費用がかかり、住民負担がある場合もありますが、国や自治体の補助金も使えます。この事前対策は「宅地耐震化推進事業」という制度で行われるのですが、全国で既に3ヶ所、事前対策が行われた場所があります。宮城県仙台市、大阪府・岬町、兵庫県・西宮市の住宅地です。
西村)どんな事前対策が行われたのでしょうか。
新川)岬町で事前対策が行われた地区は、約70年前に造成された海に近い住宅地。盛土を覆っている法面のブロックなどに亀裂が複数あるのを住民が見つけて、対策をしてほしいと声を上げ、そこから詳しい調査で危険性がわかり、対策工事にまでつながったということです。
西村)住民の声がつながったのですね。
新川)西宮市の対策工事を行った場所は、斜面を見て危ないと感じた住民らの要望が大きな後押しとなったそうです。
西村)自分が住んでいるところがどんな場所なのか、歴史を知ることは大切ですね。ご近所さん同士で「ここ危ないんちゃう?」と気づいたら声を掛け合うのも大事なんですね。
新川)防災には、近所の普段からのコミュニケーションが大切だということを痛感しました。冒頭で紹介した仁川百合野町のグループ「ゆりの会」の活動も、みなさんでお花を育て、楽しみながら自然と近所のコミュニティを強めていて素敵だなと思いました。地すべり被害の後、更地になった場所に雑草がおいしげっていて、そこに住民がコスモスを植えて咲かせたことから活動がスタートしたそう。今では約70人のメンバーが自由に参加して庭園が保たれています。対策工事が行われて殺風景だったコンクリートの斜面も季節の花々で美しく彩られ、今では憩いの場所になっています。
「ゆりの会」代表の大野七郎さんと、メンバーの岩城峯子さんに、活動についてあらためて聞きました。
音声・大野さん)私はボランティアに参加して、代表になったのですが、私が元気なうちはやりたいと思っています。みんな災害のことを忘れてしまうから。地震の時は、住民同士が「大丈夫ですか」と声かけ合い、自然に体が動きました。井戸がある家の人は「みんな使ってください」と言っていました。うれしかったです。悲しい目に遭った方もいらっしゃいますが、みんな震災を忘れないという気持ちがある。近くの小学校の先生たちも、毎年必ず慰霊祭の日に来られます。
音声・岩城さん)先生たちは、学校で子どもにお話しているのだと思います。姪っ子さんを亡くした人や同級生を亡くした人もメンバーにいますが、花壇を担当してずっとやってもらっています。そうやってみなさん続けていきたいという思いがあると思います。
西村)子どもたちも一緒に参加して、当時の話を自然に聞くことができる。語り継ぎにもつながっていきそうですね。
新川)庭園のすぐ近くには、地元自治会が建てた石碑があります。そこに毎年1月17日には、近所の方も多く訪れて、お昼間には子どもたちや小学校の先生たちが訪れて、記憶が継承されています。1月17日だけではなく、日常的な活動の中で近所のみなさんのコミュニティが保たれているのだなと思いました。これから夏が近づいてくると、大雨の季節になります。土砂災害、豪雨災害、地震だけではなくいろいろな災害が日本にはあります。まず自分たちの住んいでる土地がどんな場所なのかを知り、危険に気がついたときには、周りの人にも声をかけて行動するということを心がけてほしいと思います。
西村)自分たちの気づきがみんなの命を守る一歩になる。大切なことですね。新川和賀子ディレクターの取材でした。