第1315回「阪神・淡路大震災27年【1】~2代目語り部」
オンライン:27歳の二代目語り部 米山未来さん

西村)今月は間もなく発生から27年を迎える阪神・淡路大震災についてシリーズでお伝えします。
1回目のテーマは「二代目語り部」です。親が語り部として話す姿を見て育った子どもが震災を伝える活動を始めています。震災を体験していない世代も増える中、記憶がなくても伝えるその役割について、
きょうは27歳の二代目語り部 米山未来さんにお話を伺います。

米山)よろしくお願いいたします。

西村)未来さんのお父さんは、淡路島にある北淡震災記念公園の総支配人で、20年以上語り部を続けている米山正幸さんです。2019年1月にこの番組にご出演いただきました。米山未来さんは、27歳のとき二代目語り部としての活動をはじめたということですが、阪神・淡路大震災が発生した当時は何歳でしたか。

米山)生後2ヶ月でした。

西村)淡路島で最も被害の大きかった北淡町で被災したということですが、家はどのような様子だったのか家族に聞いた事はありますか。

米山)電子レンジが床に突き刺さるような状態で落ちていたそうです。いつも家族全員で川の字で寝ていたのですが、父が風邪をひいていて、前日まで父だけ別の部屋で寝ていたんです。1月17日には風邪が治って部屋に戻ってきていました。震災直後に、父が前日まで寝ていた部屋を見に行ったら、ちょうど寝ていたところにテレビが飛んできていたそう。風邪が治るのが1日遅かったら、頭の上にテレビが飛んできて、被害を受けたかもしれなかったと。

西村)家族は無事だったのですね。記憶がない中で、当時の話はどこで聞いたのですか。

米山)家族や親戚など周りの大人たちから聞きました。淡路島は、防災の授業や訓練など防災教育が強かったので、毎年1回、語り部さんが学校に来てくれて、話を聞く機会がたくさんありました。周りの大人からたくさん話を聞いて、記憶がない部分の状況を知りました。
 
西村)小学校の授業で、お父さんの語り部としての話を聞いたことはありますか。
 
米山)父が私のいた小学校に派遣されてきて、語り部として話す父の姿を見たことがあります。人前で立派に話す父を見たときは感動しました。お父さんすごいなと。
 
西村)未来さんは、今はどちらにお住まいですか。
 
米山)私は関東在住で、社会人として仕事をしながら語り部活動をしています。
 
西村)どんなきっかけで、いつ頃、自分も語り部になろうと思ったのですか。
 
米山)3~4年ぐらい前に語り部になろうと決心しました。幼いときから父の姿を見てきて、幼いながらにこれは大事なことで、受け継いでいかなければと思っていたんです。語り部は、実際に被災した人が語るというイメージがあったので、記憶がない自分がまさか語り部になるとは思っていませんでした。
1月17日は自分にとっては大事な日なのですが、大学進学で上京したとき、「何の日?」という人がまわりにたくさんいて。自分にとっては身近で被害にもあった震災の日なのに、阪神・淡路地区を離れてみると、誰も震災を覚えてない、知らないとうことを目の当たりにして。風化以前に、その事実を知らない人がたくさんいて恐怖を感じました。これではだめだと思い、自分も震災のことについて改めて調べてみて、自分にできることは何なのかを考え始めて。誰かの語り部の活動をサポートしようと思っていた自分がすごく無責任に感じて、人任せではなく、自分がやろうと思いました。それで、父親に初めて「私、語り部やりたいねんけどどう思う?記憶ないけど...」と伝えたんです。そうしたら、意外とあっさり、「好きなようにやったらええやん」と後押してくれました。わたしにはすごく勇気がいったことで、半分泣きながら打ち明けたのを覚えています。

 
西村)その一歩を踏み出して、最初に語った場所はどこだったのですか。
  
米山)最初は、ライブ配信でした。
  
西村)「17LIVE」配信していますよね。
  
米山)友達が「面白そうなSNSがあるよ」と教えてくれて。私もやってみようと登録して配信をしていたら、視聴者が「語り部やってみたらいいやん」「応援するよ」といってくれたのがきっかけです。
  
西村)配信での語り部活動はどれぐらい続けているのですか。
  
米山)2年半になります。
  
西村)実際に人前で話す機会はありましたか。
 
米山)人前で話す機会はあまりなかったのですが、つい最近、初めて人前で語りました。先日「全国被災地語り部国際シンポジウム」が神戸で開催されて、二代目語り部として登壇しました。プログラムの一環で北淡震災記念公園を案内するという形で、初めて人前で語ることができました。
  
西村)北淡震災記念公園や「17LIVE」で配信しているエピソードは、どこで聞いているのですか。
 
米山)父の話のほかに、自分で被災地に足を運んで聞いています。例えば東日本で開催されるシンポジウムに参加して、語り部さんの話を聞いて勉強したり、北海道胆振東部地震の被災現場に足を運んで、山津波の痕跡を見に行ったり。そのように話す内容を増やしています。
  
西村)聞いた話の中から実際に話す内容を選ぶポイントや、話しをする中で大切にしていることはありますか。
  
米山)ポイントは、自分に落とし込めるかです。記憶がないので、しっかり自分の物にしないと自信を持って人に伝えられないと思っています。自分の言葉で話せる内容なのかということを大切にしています。
話すときに大事にしているのは、一つ一つの言葉選びです。私が語り部を行っているのはライブ配信という場所なので、聞いてくれている人の顔や声やバックグラウンドもわかりません。どういう人が聞いてくれているのかわからない中で話をするので、自分が発する言葉一つ一つに責任が伴う。普段気軽に使っている言葉でも、受け取る側の経験や状況で受け取り方が変わってくると思うんです。相手の気持ちをコメントからくみ取って自分の言葉で話すように気をつけています。

 
西村)実際に被災した人、全く関心を抱いていない人のほかに、たまたま通りすがりで聞いた人もいるかもしれないですよね。そんなみなさんの心に届くように、言葉一つで悲しい気持ちになってしまわないように、といろいろな気遣いをして発信しているのですね。
米山さん、せっかくなので、ネットワーク1・17のリスナーのみなさんにも何かお話していただけますか。
 
米山)わかりました。一つお話させていただきます。
 
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災。
当時私がいた旧北淡町、現在の淡路市・平林地区で一件の火災が発生しました。北淡町で発生した火災はこの一件だけでした。
出火した家は、おじいちゃん、お父さん、お母さん、長女、長男、次男の6人家族でした。
当時、長女は大学生で島外に住んでいたので、その日はいませんでした。朝の午前5時46分は、お母さんがお弁当を作っているときでした。そのとき、ドンという大きな音とともに地震が襲ってきました。お母さんがあわてて大声で叫びながらみんなを起こしに行こうとしたとき、家の屋根が落ちて潰れてしまいました。家はぺちゃんこにはならなかったので、お父さん、長男、次男、おじいちゃんの順で、隙間から出ることができました。でも、お母さんは、台所から抜け出すことができなかったのか、叫び声からして体を挟まれたような様子はなかったのになかなか外に出てきませんでした。
平林地区の消防団は、火が出たときはもう既に火災現場近くで生き埋めになった人の救出作業にかかっていたので、すぐに消火栓にホースを繋いでハンドルを回したんです。でも水が出ません。水道管が地震で割れてしまって水が出なかったんです。地震の半年くらい前に、防火水槽から消火栓に切り替えたばかりでした。消火栓の方がハンドルをひねるだけで水が出るため、早く消火活動ができるという理由で消火栓に切り替えたのに、このときは全然役に立たなかったそうです。あわてて以前使っていた防火水槽を使って消火したのですが、手間取ってしまって、消火作業が始まったのは出火から20~30分後。お母さんは焼死してしまいました。
当時、ホースの筒先を握っていた消防団の人がお母さんの声を聞いたそうです。初めは「助けて!」と大きな声が聞こえていたけど、それが「助けて!熱い!」に変わっていって、だんだん小さく弱くなっていって。しまいには途切れ途切れになって聞こえなくなったそうです。手の届きそうなところで声がしているのに、助けることができなかった。消防団の人は、そのときの悔しさを忘れられないし、今でも声を覚えているそうです。北淡町で火災で亡くなった人は、このお母さん1人だけでした。
 
以上です。

 
西村)ありがとうございます。自然と涙が出てきました。火が燃えさかっている様子が浮かびました。声が聞こえているのに助けることができなかったという消防団の人の悔しい思い...。私もその家族の1人のような気持ちになりました。話を聞いた人たちの気持ち、被災者の話を聞いたお父さんが感じた想いも背負って話してくれるから、実際に震災を体験してない若い世代の未来さんの話がここまでリアルに伝わってくるのですね。
 
米山)誰か1人にでも届いたらいいなという思いで活動しています。今、届いたのなら良かったです。
 
西村)実は未来さん、語り部の師匠であるお父さんの正幸さんからメッセージをお預かりしています。
 
米山)え!!
 
西村)代読しますね。
 
「21歳の頃、未来が語り部をやりたいと言ってくれて、うれしかったです。
配信なんて、自分には想像も付かない若い世代の発想で、それがまた 震災を知らない世代に届ける手段にもなると思います。
100人いて、100人全員が納得する話はありません。
自分もずっと、「体験しなくても語り部は出来る」と言い続けています。
記憶や体験が無い事は気にせず、自分が聞いた「事実」に自信を持って、未来のやりたい語り部を これからも続けてください」

 
と、お父さんの正幸さんからいただきました。
未来さん、今のメッセージを聞いてどんなふうに感じますか。
 
米山)うれしいです。涙がでそうです。私にとってネックになっていたのは、記憶がないということだったので。語り部活動をする中で、「記憶がないのに、何を話すの?」「その話に信憑性はあるの?」という厳しい意見が届いたことがあり、父に相談したことがありました。父がずっと言っているのは、「体験していなくても語り部はできる」ということ。語り部は、ただ事実を伝えるのではなく、そこにある被災者の感情や心を引き継ぐことだと私は思っているので、自分なりにこれからもたくさん取材をして、いろんな人の体験やそこにある感情をしっかりと引き継いでいきたいと思いました。
 
西村)若い世代や関心なかった人にも未来さんの想いが伝わって、みんなが地震に向けた備えをしっかりして、たくさんの人の命が助かる未来が待っていると思います!
 
米山)ありがとうございます。いざというときに一つでも多くの命が助かること、防災・減災に興味関心を持ってもらうことのふたつの目標を掲げています。いろんな語り部さんのお話を聞くたびに、災害のたびに失われてしまう命を限りなくゼロに近づけていきたいと思います。そのためにできることをやっていきたいです。
 
西村)これからも多くの人に二代目語り部としてのお話を届けてください。今年の1月17日も配信をするそうですね。
 
米山)1月17日は、北淡震災記念公園から追悼式の様子を中継します。
 
西村)未来さんが、実際に淡路島に行って配信するのですか。
 
米山)そうです。「17LIVE」で配信する予定です。
 
西村)きょうは、二代目語り部をテーマに、米山未来さんにお話を伺いました。