取材報告:亘 佐和子記者
西村)きょうは、阪神・淡路大震災27年のシリーズ3回目。学校で子どもたちに震災をどう伝えていくのか。
亘佐和子記者のリポートです。
亘)1月17日は毎年、阪神・淡路大震災の被災地の小中学校で、震災を考えるさまざまな授業が行われます。わたしは、神戸市灘区のHAT神戸にある神戸市立渚中学校に取材に行ってきました。HAT神戸は、震災のあと、復興住宅がたくさん建てられ、災害を伝える「人と防災未来センター」もあり、神戸の復興のシンボルともいえる場所。そのHAT神戸に住む子どもたちが通う渚中学校は、防災教育に熱心で、1月17日は一日中、災害と防災について考える授業が行われます。ここで話をしたご遺族が広島市に住む加藤りつこさん(73歳)です。
西村)加藤さんはこの番組にも出演していただきましたね。加藤さんは阪神・淡路大震災でひとり息子の貴光さんを亡くしました。貴光さんは、当時神戸大学の2年生で21歳でした。
亘)貴光さんは広島育ちですが、大学入学後、お父さんと2人で西宮市・夙川のマンションで生活をしていました。お父さんの職場が大阪で貴光さんの大学が神戸ということで、その間の西宮市で暮らしていました。お母さんのりつこさんは広島にいました。
1995年1月15日の成人の日、翌16日が振替休日で休みだったので、お父さんは広島に帰っていたんです。貴光さんだけが夙川のマンションに残っていて、地震が発生しました。お父さんは17日の始発の新幹線で広島から関西に戻ろうとしていたのですが、地震で新幹線がストップ。貴光さんから連絡がないので、あらゆる手を尽くして広島から伊丹空港へ行く飛行機を取り、夫婦で被災地に入りました。それが地震の翌日のこと。電車はほとんど止まっていたので、電車に乗ったり歩いたりしながら、夙川まで向いました。そのときの街の様子、貴光さんのご遺体と対面したときのこと。渚中学校の生徒たちにこんなふうに語りました。
音声・加藤さん)これは地獄だ。なんでこんなことになったの!綺麗な町が...。そう思いながらも、「絶対大丈夫!貴光は大丈夫!」と自分に言い聞かせて歩いていました。道路はでこぼこ。30cmぐらいの段差があって、あちらこちらのコンクリートが割れていました。沿道の民家が潰れて、2階建ての屋根がわたしの目線ぐらいにありました。それを見るたびに胸が張り裂けそうでした。電柱は倒れて、電線がわたしの喉辺りの高さにぶら下がっているんです。夫のあとについて一生懸命歩きました。しんどいとか荷物が重いとか、そういうことは一切覚えていません。ただただ、「貴光が元気でありますように」そればかりを祈って歩きました。歩いても歩いても瓦礫の山。戦争映画の戦場を見ているような、広島の原爆の後のような、そんな状況が広がっているんです。リュックを背負った人がたくさん歩いていたのですが、みんな黙々と下を向いて歩いていて、誰1人喋りません。人の声が聞こえないんです。聞こえてくるのは、けたたましく鳴り響く救急車のサイレンの音だけ。あの音がずっと耳にこびりついています。救急車のサイレンを聞くたびに、胸がドキドキしてあのときのことを思い出します。
夙川に近くなったとき、夫が叫びました。「ここからマンションが見えるはずなのに、ない!」と。わたしは倒れそうになったのですが、「いや、大丈夫!」と、夫の声が聞こえないふりをして歩きました。「貴光のもとへ行きたい!」そういう思いで歩きました。家が近くなったときに、向こうから男の人が2人、わたしのそばに来て、「加藤さんですか?」と聞いたんです。「はい、そうです」といったら、2人がわたしの両サイドに立って、腕を抱えてくださったんです。「何するの!この人たち」と思ったんですが、「奥さん気をお確かに」と言われて。「ああ、駄目だったんだ」とそのときわかりました。そうしたらもう全身の力が抜けて、膝がガクッと折れて歩けなくなって。男の人に支えられながら、貴光が寝かされている場所まで連れていってもらったんです。
マンションが倒れた一角がキレイになっていて、そこに貴光が敷布団の上に寝かされていて、掛け布団がかけてありました。わたしは、まだ貴光だということを信じられなくて。信じたくないから、呆然としていました。おそるおそる布団をめくってみたら、うつ伏せになっていて、横顔が見えたんです。その横顔を見て初めて貴光が亡くなったことを知りました。右手にそっと手をあてたその瞬間、のけぞりました。ものすごく冷たいんです。石より冷たい感じがしました。「どうしよう、どうしよう、何も考えられない」と取り乱してしまいました。
西村)大学で頑張っている貴光さんを応援して、一緒に明るい未来を描いていた加藤さんがまさかこんなに悲しい息子さんとの最期を迎えるなんて。21年経ってもここまで記憶が鮮明に蘇ってくるんですね。
亘)貴光さんは、お正月に広島に帰ってきていたそうで、いつも最後は握手で別れるそう。そのときの手のぬくもりを覚えているから手の冷たさにのけぞったそうです。離れて暮らしている息子を亡くすということが、どれだけつらいことかが伝わってくるお話です。加藤さんは、2日間、遺体安置所で貴光さんの遺体と一緒に過ごしました。その後、検死で貴光さんがどのような状況で亡くなったのかがわかります。これが重い現実でした。お聞きください。
音声・加藤さん)20日の午前中に警察の人が検死してくださいました。服を脱がせてみたら、胸部が真っ青になっていました。胸部が圧迫されて、息ができなくなって亡くなったんです。即死ではなかった。あの子は生きようと一生懸命だったんです。近所の人から話を聞いたんですが、トントンと床を叩く音がしたそうです。「ここにいる!助けてくれ」というSOSだったんです。呼吸ができなくなっていくって、すごくしんどいですよね。あの子はどんなに苦しんだんだろうか。あの子は何を思ったんだろうか。最後に何が言いたかったんだろうか。そういうことを27年間、毎日考えていました。命がそこで終わってしまいました。21歳と1ヶ月までしか生きられなかった。でも今、こうして震災を知らないみなさんにこのお話をさせてもらえることは、わたしにとっては救いです。あの子のことがみなさんの心の中に刻まれる。生きた証が残ることは、ものすごく心強くてありがたいことなんです。
西村)愛する息子さんがどのように亡くなったのか。その死と向き合うことは、本当につらいことだと思います。でも向き合うことで、貴光さんの生きた証が残り、自分の命や大切な人の命を守るということを考えるきっかけにつながるのですね。
亘)貴光さんは国連の職員になるという夢を持っていました。そのために神戸大学の法学部で勉強していました。神戸大学に入学するときに、貴光さんはお母さんの加藤りつこさん宛に手紙を書いています。貴光さんが亡くなった後、その手紙が新聞に掲載され、反響を呼ぶことになりました。
手紙を少し読んでみます。
親愛なる母上様
あなたがわたしに生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
わたしはあなたから多くの羽をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。この20年で、わたしの翼には立派な羽がそろってゆきました。
そして今、わたしは、この翼で大空へ翔び立とうとしています。
誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
手紙はまだ続きます。このメッセージがどんどん広がって、手紙のことを知った人が感想をくれたり、全文を読みたいという人がいたり。そこでさまざまな交流が始まり、たくさんの人に影響を与えていきました。
続いて渚中学校で加藤さんが語ったのは、ある少女との出会い。お聞きください。
音声・加藤さん)2013年に広島県の福山市の中学校で講演をしました。子どもが一生懸命生きている姿がいちばんの親孝行になるというお話をしました。集まった生徒の中に不良の3年生がいたんです。その子は、3年生の9月まで全く勉強せず、茶髪でパーマ、メイクにピアス。学校でしてはいけないことを全てやっている子でした。わたしはそんなことは知らずに一生懸命お話しました。
後から彼女に聞いたのですが、掲示板に「今度の講演会に、阪神・淡路大震災でひとり息子を亡くした加藤りつこさんが来る」と書いてあり、阪神・淡路大震災の話なら聞いてみようと思って体育館に来たそうです。
彼女は小学6年生まで兵庫県で育ち、中学1年生から家庭の事情でお母さんの故郷である福山市に住んでいました。中学校では、播州弁を笑われ、いじめられ、自分の居場所がなく友達もいませんでした。そんな中で学校が嫌になってしまった。でも彼女はパワーのある子だったので、いじめる側になってしまったんです。やってはいけないことを全てやって、大不良と呼ばれて。そんな彼女が、阪神・淡路大震災という言葉に惹かれて体育館に入ってきたんです。「見当違いだったら寝てればいいや」と思っていたそう。でも最初から涙が流れて、眠ることもできないほど感動したんですって。それで、「加藤さんと話がしたい」と思った。
でも「今のわたしの姿では加藤さんには会えない」と思い、家に帰って、お母さんに美容院へ連れていってもらって、その日のうちに髪を黒く染めました。その日から更生の道が始まったんです。
その話を聞いたのは2年後。彼女は、わたしがずっと交流している私立の中高一貫教育の学校、福山市の盈進中学高等学校に入学していたんです。当時わたしは盈進の生徒たちの素晴らしさを語っていました。盈進の生徒たちは、わたしのことをお母さんと呼ぶという話もしていました。彼女は、「わたしは盈進へいって加藤さんと話をする!」と決心。でも今の成績では無理。どうしても盈進に行きたいからと、お母さんに頼んで塾に行かせてもらって、受験して受かったんです。
2年生のとき、「わたし、あのとき体育館にいたんです。不良だったけどあの話を聞いて更生しました。ありがとうございました」と言ってくれました。貴光とわたしが彼女の人生の転機に立ち会えたことがすごく力になりました。
西村)安心できる場所がないという毎日は、本当につらく苦しいと思います。でも、加藤さんの話を聞いて人生が変わったんですね。彼女が今どうしているのか気になります。
亘)彼女は大阪教育大学の大学院で教師を目指して勉強中です。今も加藤さんと交流が続いていて、加藤さんが東遊園地の「1.17希望の灯り」の分灯に参加したときに、彼女も来ていて、久しぶりに話をしたそうです。加藤さんが震災の辛い経験を伝えていくことが若い人たちの人生を変える。何かを伝えようとする言葉の強さを感じます。加藤さんのお話を聞いて、渚中学校の生徒たちは何を感じたのか、感想を聞きました。
音声・女子生徒)わたしは、渚中学校で防災ジュニアリーダーを2年半やっていて、防災については知識があると思っていたんですが、息子さんを亡くした加藤さんの話を聞いて、経験しないとわからないことがたくさんあると感じました。加藤さんの話が全国に広まっているのは、貴光さんの人間性や、手紙に母を思う優しさが表れているからなのかなと。わたしは震災を経験していませんが、親孝行をしっかりして、今ある命を大切にしていこうと思いました。
音声・男子生徒)将来が楽しみな息子の夢が叶わず亡くなってしまった。加藤りつこさんにはすごく悲しみがあったのだなと感じました。
貴光さんがひとりで床をトントンとしていたと聞いて、苦しかっただろうなと。1.17や3.11のニュースは、いつも家族全員で見て、避難場所について相談しています。ご遺族の話を聞いて、家族で語り継がないといけないねと話をしています。
西村)27年たって風化しているという声も聞きますが、実際に被災した人が向き合って話してくれることが、こんなにも子どもたちの心を揺さぶり、考えを変える。本当に素晴らしいことだと思います。
亘)1月17日、神戸の東遊園地に行ったとき、「子どもに言われて来ました」という親御さんが多く、子どもから「防災リュック大丈夫?」と言われたという話も聞きました。学校現場で震災防災について考えることが本当に大切だと改めて実感させられました。
西村)震災で被災された人の思いを伝えることの大切さを改めて感じました。これからもこの気持ちを大切にみなさんに届けていきたいと思います。亘佐和子記者のリポートでした。