取材報告:亘 佐和子プロデューサー
西村)きょうから東日本大震災11年のシリーズを始めます。初回は、宮城県東松島市の大曲小学校で起こったこと。当時小学校5年生だった男の子が経験した震災とその後の11年についてお伝えします。亘佐和子記者のリポートです。よろしくお願いします
亘)よろしくお願いします。東日本大震災をきっかけに、宮城県の河北新報社が続けている「むすび塾」という防災ワークショップがあります。今月11日、各地で災害の経験や防災を伝えている若者たちをオンラインで結んで話し合う「オンラインむすび塾」が開催されました。きょうは、「オンラインむすび塾」に参加した大学生の語り部のお話を紹介します。その語り部は、雁部那由多(がんべ・なゆた)さん(22歳)で、現在、東北学院大学の3年生です。震災当時は、東松島市の大曲小学校の5年生でした。
西村)東松島市といえば、石巻市の西隣。仙台湾に面していて、震災で大きな被害を受けたところですね。
亘)雁部さんの住んでいた大曲地区は、海から2.3kmの距離にあり、20年ほど前に開発された新しい住宅地です。今回の「オンラインむすび塾」では、雁部さんが現場を歩きながら話してくれたので、実際に現地に行ってお話を聞いているような感覚になりました。
西村)今は、コロナの影響でなかなか現地に行くことができないですし。それはオンラインならではの魅力ですね。
亘)雁部さんは、東日本大震災が起こったときは学校にいました。歩いて2~3分のところにある自宅に一旦帰ったのですが、津波が来そうなので家族で小学校に戻ってきました。校舎の3階に上がったのですが、雁部さんだけ靴を取りに校舎の1階の出入口まで降りてきました。そこで津波に遭遇します。津波がどんなものか、5年生の雁部さんには想像もつかなかったんです。どんな体験をしたのか、話をお聞きください。
音声・雁部さん)津波を体験したときは、校舎の一番左側の昇降口にいました。最初にきた津波は勢いの弱いものでした。その津波を見たときに、避難してくる大人の人たちも見ました。その人たちも最初の津波を見て安心したのか、校舎の入口あたりで歩き始めました。僕も恐怖を感じることなく、校舎の入口の扉を開けて待っていました。児童だけが使う昇降口は、鍵が内側からかかっていました。僕が鍵を開けてあげないとその人たちは入れなかったので待っていたんです。そのときに川からの津波がやってきました。鉄砲水のように勢いのある水が噴出しました。それを見てまずいと思ったときには、足首が水に浸かっていました。僕がいた昇降口には階段と壁があって、僕は壁につかまることができて、水を何とか受け止めることができました。壁につかまって足が引っ張られそうになりながらも、何とか耐えられたんです。でも避難してくる大人の人たちは、壁も何もないのでつかまるものが何もない。大人たちは、小学校5年生の僕の膝丈ぐらいの水の壁に飲み込まれたんです。僕の約1m前、手を伸ばせば届く距離のところで大人たちは流されました。その人たちは、昇降口で僕に手を伸ばしてきました。僕は階段の3段目ぐらいのところにいたので、足首の辺りまで津波につかりながら耐えていたのですが、後ろを振り向いたときに、その人たちがちょうど飲み込まれていくところが見えました。飲み込まれていく最中に、5人の大人のうち、一番前にいた50歳ぐらいの男の人が私に手を伸ばしてきました。手を伸ばし返せば届く距離でしたが、僕は手を伸ばし返しませんでした。捕まるだけで精いっぱいだったというのもありますが、一番の大きな理由は「ここで手を伸ばしたら死ぬんだな」と直感的に感じたからです。大人たちがみんな流されていった直後、その場所には車が折り重なっていきました。僕自身ももう耐えられなくなって、壁をつかんでいた手を離しました。そのとき、開けていた玄関に吸い込まれる水の流れにつかまって、校舎の中に押し戻されました。だから僕は今こうして生きているわけです。
西村)目の前に手を伸ばしてきた人がいたけど、自分が死んでしまうと直感的に感じたから手を伸ばさなかった...。このことを小学校5年生の男の子がずっと心に秘めて、11年を過ごしてきたと思うと言葉が出ないですね。足首ぐらいの水の量だったら大丈夫と思ってしまいそうですが、そうではなかったのですね。
亘)大曲小学校には2種類の津波が来ました。海から2.3kmの距離を来た最初の低い津波と、川をさかのぼってきた鉄砲水のような津波です。津波の高さは最高で2m程度でしたが、子どもの膝ぐらいの高さの水で大人たちが流されてしまいました。その後、雁部さんがどのような学校生活を送ったのか。大曲地区はどのような状況になったのか。続けてお聞きください。
音声・雁部さん)僕は目の前で流されていく人を見ましたが、同じような体験をしていなくても、ほとんどの人が、人が亡くなる瞬間に立会いました。僕はその後、何食わぬ顔で校舎の上に戻りました。膝が濡れていましたがジャージに着替えて、そのまま避難生活に入りました。「人が自分の目の前で流されて、助けることができなかった、助けなかった」ということは、とても他の人には言えませんでした。でも、多くの人が僕の光景を見ていて、僕の目の前で人が流されたことを知っていたわけです。でもそれは震災の話としてはタブーになりました。震災後、大曲小学校は4月に学校が再開しましたが、誰ひとりとして震災の話はしませんでした。正確な言い方をすれば、震災の話はしてはいけなかったんです。誰かが震災の話をすることで誰かが傷つく。だから伝承どころの話ではない。僕らは震災の真っ只中で震災を必死に忘れよう、隠そうと自分たちを取り繕ってきました。「震災のときは大変だったよね」で話が止まるんです。卒業するまで震災の話をしたことがないし、震災の話をすると学校中がパニックになったこともありました。誰かが泣き出して、それが連鎖して1日中、道徳の授業になったこともあります。一番ひどかったのは、被災した人とそうでない人の間に壁ができたことです。みんなが被災者であれば、そんなことは起きなかったかもしれません。でもこの学校では、内陸に住んでいる人たちは津波を見ていない。その人たちは学校が再開したとき、嬉々として登校してきました。僕らは避難所から来ました。震災直後で給食が出なかったので、お弁当を持ち込みました。でも僕らは、お弁当が持ち込めないんです。昼休みは黙って座っているグループと、お弁当を食べるグループで分かれるんです。同じように接することはできませんでした。その結果、小学校6年生の1年間は、被災した人は被災した人同士で話をして、そうでない人はそうでない人同士で話をしていました。その状況でも学校で震災の話はしてはいけなかったんです。
西村)被災した人と被災していない人の間に大きな心の壁ができてしまったのですね。
亘)大曲小学校は児童11人が亡くなっています。ただ、東松島市は、大きな被害があったので、大曲小学校だけが特に大きな被害を受けたという印象はなかったそうです。被災した人と被災しなかった人が分断され、何かを話すと誰かが傷つくという状態で、みんなが話せないまま6年生を過ごしたということでした。
西村)みなさんがそれぞれの心の中に受けとめて、それを閉じ込めていたんですね。
亘)抑え込んでいたという状態だと思います。ではなぜ雁部さんは語り部になったのかというお話を聞いてください。
音声・雁部さん)人が亡くなるという体験談を僕は心に秘めて、忘れようとしていました。でも、それを話してみないかと言われました。語り部は「未来の人たちに同じ体験をして欲しくない」と言いますが、僕の当時の思いは違いました。僕が語り部を始めた理由は、「社会のため」とか「地域のため」という立派な理由ではなく、「自分のため」だったんです。自分自身の体験を語ってみることで、気持ちがちょっと楽になりました。自分がしたことは、人を殺してしまったことだとずっと思っていましたが、「そうではないよ」と声をかけてくれる人もいました。それが少し救いになったんです。なので、最初は自分のために語り部の活動を始めました。誰かのためといえる状態ではなかったです。そうして語り始めたときに、ある高校生がこんなことを言っていました。「震災の体験は持っているだけなら、ただの嫌な思い出になる。でも誰かのために話してみることで、価値ある情報になる」と。当時の私は、正直、震災の話が価値のあるものだとは思いませんでした。人を苦しめてきた情報だし、僕自身も苦しめられた。でもそれを被災地の外に向けて話したときに、誰かの命を救う情報になるということに着目しました。そうすれば、自分が話して楽になるということにつなげられると思ったからです。都合のいい解釈ですが、僕は誰かのためではなく、自分のために語り部を始めました。それがいつしか誰かのためという思いも伴うようになっていきました。だから震災から10年たっても語り部の活動を続けています。
今でも同級生の中には、「被災当時の話はしてはいけない」という人がたくさんいます。でもそれは当時の自分の状況に照らし合わせてみれば正解。話をしないことで、誰も傷つけないし、自分自身を守ることにもなるんです。語り部の活動をしているとこの壁にぶち当たります。語るということは誰かのためにというけれど、一方で語らないという選択をした人たちを傷つけることにもなります。僕は10年間、この問題を自分自身に置き換えて考えてきました。自分自身を傷つけながら、誰かの命を救うということのは果たして正解なのだろうか。ずっと語り部活動に感じてきた疑問です。僕が活動している地域では、誰がどんな被災をしたかお互いわからないんです。みんながみんな家を失ったわけではない。生活面では震災前と変わった様子はないけれど、勤め先がなくなったり、家族が亡くなっていたり。そんな状況に配慮しながら、10年後の今を生きている人たちがほとんどなのです。
震災後、僕らがショックだったのは、一番は友達が亡くなったことです。何物にも代えられない大切な命を失った。もうひとつ辛かったことは、僕らの生活のレベルや家庭の事情があからさまになったことです。ご飯を持ってこられる人とそうでない人。教科書を持ってこられる人とそうでない人。毎日服を着替えられる人とそうでない人。お風呂に入れる人とそうでない人。震災は僕らに格差を見せたんです。それは震災によって起こった変化だけではなく、震災前からあった格差、僕らが見えなかった、周りの大人が必死に隠していた家庭の事情や格差をまざまざと見せつけられました。小学校の同じクラスの子たちはみんな同じと思っていたけど「それは違う」と言われたような気がします。
西村)わたしは、語り部のみなさんのお話を感謝の思いはもちつつも、当たり前のように今まで聞いてきました。でもそこに至るまでには大きな葛藤があって、周りの人のことを考えると話せないという人がたくさんいるのですね。
亘)雁部さんは、被災地の外に向けて語り部をしていますが、地元では「あんまり言うなよ」という冷ややかな声もあるそうです。大曲小学校の子どもたちは、あと1年で全員が3.11の後に生まれた子どもたちになります。
西村)ということは、東日本大震災を経験してない子どもたちばかりになると。
亘)ここで起こったことは、小学校の中では語り継がれていません。地元にいる人は今もつらくて、なかなか語れない。雁部さんのような世代は、進学や就職、結婚で地元を離れてしまった人も多い。雁部さんは、外に向けて語っている一方で、地元では何も語られないまま11年が過ぎて、地域の記憶が失われてしまうのではないかという危機感も語っていました。
西村)また大きな津波が来たときを考えると、地域で語ってほしいと思いますが。
亘)このむすび塾には、各地の防災に取り組む若者たちが参加していましたが、神奈川県の高校生から雁部さんに質問がありました。その質問と雁部さんの答えを聞いてください。
音声・男子高校生)地元の鎌倉で防災の普及活動をしています。鎌倉の沿岸部は高い建物が建てられないので、高齢者の中には、逃げることを諦めている人もいるんです。鎌倉は、8分で14.5mの津波が来るという想定があります。逃げる人、逃げない人、逃げられる人、逃げられない人、と分かれてしまうことについて、何か考えがあったら教えてください。
音声・雁部さん)逃げない人は、僕の周りにもたくさんいます。「次、津波が来たら、俺は逃げないわ」と家にとどまる宣言をしている人もたくさんいます。その人たちを動かすきっかけを僕もいろいろと考えていました。震災のときに逃げた高齢者には、「一緒に逃げよう」とか普段付き合いのある人から「今から逃げるけど一緒に行こう」と言われたから動いた人が多かったとよく聞きました。この地域で亡くなった人たちは、逃げられなかった人たちが多かったそうです。逃げなかった人たちは逃げる人に引っ張り出されました。庭をほうきで掃きながら「俺はいいんだ」と言っている人に、周りの人たちが「津波が来てるから、すぐ逃げよう!」と言って、引っ張り出したそうです。大学の調査で、被災者に「なぜ逃げたんですか」と聞く機会がありました。「気にかけてくれたから。声をかけてもらったから行かないわけにいかないでしょう」と言う人が多かった。高齢者の中には、逃げない理由の中に「迷惑をかけたくない」という理由を持っている人がすごく多い。僕ら若い世代ができることは「あなたが必要だ」という意思表示をすることだと思います。「あなたも助かってほしい」という意思を伝えておくことが大事だと思います。誰かに必要とされる感覚。逃げない人は、半分諦めに近い感情を持っていますが、その人たちに「僕らのために逃げてください」としっかり伝えておくこと。それが人に動いてもらうことの条件だとと思っています。
西村)誰かに必要とされる感覚は、平時でもうれしいことです。近い関係であればあるほど、恥ずかしくてありがとうの言葉でさえも言えないこともありますが、伝えておかないといけない大事なことなのだと思いました。
亘)「一緒に~しようよ」と声をかけることは、すごく大事だと思います。避難を諦めている人にどのようにはたらきかけて避難してもらうかは、全国共通の課題ですよね。河北新報社では小学生と高齢者が一緒に避難する訓練を企画したそうです。高齢者は自分がちゃんと歩かないと孫に迷惑かかるからと一生懸命避難するし、小学生は自分がしっかりしないとおじいちゃんおばあちゃんが危ない、と責任感を持って避難をする。非常に良い訓練だなと思いました。
西村)助け合いの気持ちが素晴らしい結果につながっていますね。
亘)今回の「オンラインむすび塾」は、雁部さん含め11人の若者が参加しました。それぞれの地元の災害をどのように伝えていくのか、伝える上でどのような課題があるのかを話し合って共有しました。雁部さんのような同世代の語り部の話を聞くことで、大きな刺激を受けたと思います。なかなか語りにくいという話もありましたが、外に向かって語っていく手伝いをしたいと言ってくれた人もいました。私自身も今回、子どもにとって津波の経験がいかに過酷なものであったかを初めて知りました。何年経っても、どんなに復興したように見えても、つらい記憶が消えることはないし、11年経ってもまだ痛みは進行形なのだと改めて気づきました。今後、いろいろな人のお話を聞くときに、このことを心に留めておきたいと思いました。
西村)私も改めて気づかせてもらいました。ありがとうございました。亘佐和子記者のリポートでした。