電話:宮城県石巻市雄勝町在住 大和千恵さん
西村)東日本大震災の発生から11日で丸10年を迎えました。きょうは、大きな被害を受けた、宮城県のある集落の方に電話をつなぎます。
みなさん、宮城県石巻市の雄勝町をご存知でしょうか?私も訪れたことがあります。雄勝町は、「石巻市」の一部ではあるのですが、海に突き出た雄勝半島に位置していて、石巻の市街地からは車で1時間近くかかります。漁業、硯の産地としても有名な町です。
その雄勝町の漁師町、名振という集落に住んでいる方と電話がつながっています。大和千恵さんです。
大和)よろしくお願いします。
西村)大和さんは現在38歳で、震災後に生まれた3人のお子さんのお母さんでいらっしゃいます。そして旦那さまは漁師をされています。東日本大震災でご家族は無事でしたが、津波で家は流されてしまって、仮設住宅に住んだ後、家を再建されました。震災から10年を迎えた3月11日は、どんなふうに過ごされていたのでしょうか?
大和)学校は休みだったので、子どもたちと一緒に海に手を合わせました。10年の節目と報道されていますが、節目ではなく、今も震災後の日常が続いていて、それは昨日も今日もずっと変わりません。2時46分のサイレンを聞いたときに10年前のことや今までの出来事が蘇ってきて胸が苦しくなりました。
西村)震災当時、お腹の中にいた息子さんは今年で10歳ですね。お子さんたちは、海に手を合わせて何か話していらっしゃいましたか。
大和)子どもたちがどのように感じていたのかはわからないのですが、何か感じでくれていたらいいなと思います。
西村)雄勝町は津波で住宅の8割が流されるほど大きな被害を受けました。町の復興工事は、どのような状況ですか。
大和)防潮堤と道路のかさ上げ工事がまだ続いている状況です。
西村)ほかに新たにできる予定のものはありますか。
大和)10年たった今月、やっと町の役場や郵便局が出来ます。
西村)スーパーやコンビニなどはあるのですか。
大和)飲食店や喫茶店などの新しい商店が何店かできました。震災以前から雄勝には大きなスーパーはなかったので、生活の面では不自由なく暮らしています。
西村)高い防潮堤の写真を見てびっくりしました。何メートルあるのですか。
大和)高さ9. 7mあります。
西村)壁が高くそびえていて、美しい海が見えないですね。 SF映画に出てくる要塞みたいで...。これは住民のみなさんが望んだものだったのでしょうか。
大和)震災直後に沿岸全域に防潮堤を作るという計画が国から出されました。当初は有無を言わさず作るという状況だったので、望まないところもありました。その後、防潮堤は作らずに道路を嵩上げするとなどの対応もありました。
西村)雄勝町の中で防潮堤がない地域もあるのですか。
大和)9mではなく、4mのところもあります。隣の地区は海の近くに集落がないので、低い防潮堤でも良いと国に認められました。
西村)みなさんが海に近い地域に戻ることができたのかと思っていましたが、そうではないのですね。
大和)名振は、作業場は海の近くにありますが、住民は高台に家を再建しています。基本的に防潮堤は、納屋などの作業場を守るように建てられています。
西村)漁の仕事をしているときは、防潮堤の近くで作業しているのですね。
大和)防潮堤の内側です。
西村)そびえ立つ防潮堤の横で仕事をする日常をどう感じますか。
大和)船が帰ってくるのが見えないので不便もあります。海が見えない高い壁の中にいるのは、以前と気持ち的にも違いがあります。
西村)名振集落ではどのタイミングで防潮堤工事に合意したのですか。
大和)早い段階で合意しました。防潮堤工事が進まなければほかの工事も進まないのではという不安もあって。なるべく早めに合意して工事を進めてもらおうと。
西村)東北の被災地全体を見ても人口が減っているところが多いと感じるのですが、大和さんがお住まいの雄勝町は、震災前は何人ぐらいいたのですか。
大和)4000人いたのが震災後1000人に。4分の1になってしまいました。特に若い人ほど外に出て行ってしまって。高齢化も進んだ印象です。
西村)お子さんの学校の同級生は何人ぐらいいるのですか。
大和)1学年4~5人なので、学校全体でも20人くらいです。
西村)震災前から比べて減りましたか。
大和)震災前、町には小学校が2つと中学校が2つあったのですが、今は統合して1つの学校になっています。
西村)今住んでいる人は、なぜ雄勝町に残ったのでしょうか。
大和)家が残った人。あと漁師を仕事にしている人は、海の近くでないと仕事にならないので残っています。
西村)大和さんのご家族は、どこかに引っ越す話は出なかったのですか。
大和)震災後すぐ、夫が「ここで俺は頑張らないといけないから、ここに住む」というような話をしていました。
西村)移住してきた人はいるのですか。
大和)大阪から漁師になるために移住してきて、何年も働いて立派な漁師になっている人もいます。
西村)今後、若い人たちをはじめ、住む人が増えたらいいと思うか、観光などで度々訪れるファンが増えたらいいと思うかどちらでしょうか。
大和)どちらもいいと思います。観光で訪れてくれる人が増えて、それをきっかけに移住してみたいという人が増えたらいいですね。観光客が増えれば、雇用も増えると思うので。
西村)大和さんはまちづくりの委員にもなっているそうですが、雄勝町に必要だと感じることはどんなことですか。
大和)受け入れるこちら側の仕組みを整えることです。被災して住める場所も限られているので。もっと移住してくる人が入りやすいような町になっていければ。
西村)大和さんたちは10年前、津波が襲った街で、ライフラインが止まった状態で生き抜いたという話を聞きました。どうやって食事をしていたのですか。
大和)水もガスも止まっていましたが、水は山の水から水道を引いて、ガスは瓦礫の中から使えるガスボンベを男の人たちが拾ってきて、それを使って温かいご飯を毎食作っていました。
西村)ごはんは炊けますが、おかずはどうしていたのですか。
大和)家が残った人に譲っていただいて。田舎はどの家庭も、普通の冷蔵庫以外に大きなストッカーを持っているんです。そこに冷凍した魚などの食材がいっぱい入っていて。電気が止まって、ストックしていた食材が全部溶けてしまうので、避難所に持ってきてくれて、それをみんなで食べていました。
西村)さすが漁師さんですね!
大和)お刺身とか煮魚とか。震災後すぐから普通のご飯をみんなで食べていましたよ。
西村)津波に襲われて、大きな揺れがたびたび起きている中で、みなさんで温かいご飯を食べるというのは、どんな気持ちだったのですか。
大和)改めて生きる力があるってすごいことだと感じました。温かい味噌汁を飲んだとき感動しました。
西村)どんなときでも食べることって大事ですね。
大和)まだ寒い時期だったので、温かいご飯はとても心に染みました。
西村)その中で震災後、お子さんが無事生まれました、3人のお子さんのママとして、震災後10年たって子どもたちに伝えたい震災の教訓ってどんなことでしょうか。
大和)命よりも大切なものはないので、それを守る判断ができるように、日頃からもしもの時を考えるようにと伝えたいです。
西村)例えばどんなふうに実践していますか。
大和)私自身は、外出時に地震があったらどこに逃げて、どういう行動を取るべきかを常に考えるようになりました。子どもたちには、学校に行っているときは、学校は高台にあるので、先生の話を聞いて、その場にいるようにしなさいと伝えています。「お母さんたちは、津波が来たら迎えに行けないから、学校でちゃんと待っているんだよ」と伝えています。
西村)3月11日だから話し合うのではなくて、日頃から話し合うことが本当に大切ですね。
大和)最近も大きな地震あったので話し合いをしました。
西村)雄勝町から関西のみなさんに、今伝えたいことはありますか。
大和)どこにいても災害が起きる可能性はあると思うので、日頃から家族で、地震が起きたとき、津波が起きたときにどうするかをちゃんと考えて話し合ってみてほしいです。今コロナの影響で、出かけるのはなかなか難しい状況ですが、コロナが収束したときには、ぜひ雄勝町に遊びにきて来てください。
西村)私もまた雄勝町に遊びに行きたいなと思います!どうもありがとうございました。
きょうは、宮城県石巻市雄勝町にお住まいの大和千恵さんにお話を伺いました。