第1267回「東日本大震災10年【1】~津波から生かされて」
電話:NPO法人「遠野まごころネット」理事 臼澤良一さん

西村)来月11日で、東日本大震災の発生から丸10年を迎えます。きょうは、10年前のあの日、津波に飲まれながらも命を取り留め、その後、街の復興や被災された方々の支援に力を注いでこられた方にお話を聞きます。
NPO法人「遠野まごころネット」理事 臼澤良一さんです。

臼澤)よろしくお願いいたします。

西村)岩手県の大槌町は、岩手の沿岸部にある町です。
東日本大震災のときは高さ10 m を超える津波が押し寄せて、町民の1割にあたる1200人以上が亡くなりました。東日本大震災で臼澤さんはどのような体験をされたのでしょうか。

臼澤)地震が起きた5時46分、私は2階で仕事をしていたんですが、今まで経験したことのない恐ろしい揺れを感じ、家が倒壊して命がなくなってしまうと思いました。停電したのでテレビが見られず、ラジオのニュースを聞いたら「3mの津波」ということでした。3mの津波なら、今までの経験から「ここまで来るはずがない」と安心していたんです。
逃げずにいたら、しばらくして外の様子がおかしい。外を見たら、家から10mくらいのところまで津波が来ていて。あわてて2階に駆け上って、飼っていた柴犬を抱えて屋根に登ったんです。その瞬間、泥水が屋根の高さまで達してしまいました。
そのとき屋根の上から見たのは、どす黒い泥水が街全体を暴れまわっている光景。巨大な洗濯機がぐるぐる回っているようでした。おびただしい数の家が流されて、ギシギシと金属が擦れる音、プロパンガスのボンベからガスがシューシュー吹き出す音、「助けてくれ!」という叫び声が聞こえてきました。私と同じように逃げ遅れた人が屋根に登ったまま流され、次の瞬間、転倒して濁流に飲み込まれていく。そんな様子をたくさん見ました。

西村)体験したことのない光景が広がっていたのですね。

臼澤)私の家から3軒ほど離れたところで金属が擦れて火花が出て、プロパンガスが爆発して、私の家の近くまで火が回ってきました。足の裏から振動がきて、家が少しずつ流されているのを感じました。横なぐりの風が吹いていたので、火の勢いが強くて。テレビのアンテナを支えているワイヤーにつかまって、犬を抱えながら300mぐらい流れされて止まったんです。
他の家がどんどん転倒して泥の中に沈んでいるのに、なんで自分の家だけが無事なのかと不思議でしょうがなかった。
逃げ出さなければ焼け死んでしまう。50m程離れたところに鉄骨2階建ての家があったので、なんとか2階のベランダまで、浮いている屋根や、車の屋根につかまりながらたどり着いたんです。
そうしたら間もなく第二波が襲ってきて、膝の高さまで水が来て、だんだん深くなって胸のあたりまで水が来たときは、死んでしまうと思いました。死ぬのが怖いという恐怖心は無かったんですが、もうダメだと思っていたら、あごの下で水が止まって。
くるぶしのところくらいまで水位が下がって、改めてベランダから見たのは、どす黒い空、一面を埋め尽くす大量の瓦礫、倒壊した家屋、あちらこちらから立ち上る炎。テレビや映画の中のことようで現実だとは思えなかったですね。
 
西村)そんな壮絶な中でどうやって助かったんですか。
 
臼澤)そのあとすぐ、私がいた2階建ての建物の隣でプロパンガスが爆発して、あっという間に黒煙と火の海に包まれてしまったんです。眼鏡のフレームが熱くなり、抱きかかえている犬はぶるぶる震えていました。そして、30m程離れた鉄骨の建物にたどり着き、そこから大きな声で「助けて!」と叫んだら、100mくらい離れたところに偶然、消防士の人がいて進む方向を指してくれました。伸ばしてくれた脚立につかまり、やっと地面に足をつけることができました。
多くの人が津波に飲み込まれ、屋根から叫びながら、命を失っていく姿を見ました。なぜ私だけ助かったのだろう。私は神仏に生かされたのだなと思いました。
 
西村)ご家族はご無事だったんでしょうか。
 
臼澤)私より一足先に逃げた家族は、胸まで泥水に浸かりましたがなんとか無事でした。愛犬も無事でした。しかし、次男の無事が確認できたのは、避難所生活が1週間を過ぎた頃です。
周囲には肉親を亡くした人も大勢いたので、その知らせを聞いたとき、妻と避難所から外に出て安堵したのを覚えています。親戚や友人には肉親を亡くした人、今も家族が行方不明の人がいるので、素直に喜べない心境です。
 
西村)今振り返ってみて、ラジオで「津波がくる」と聞いたときにもし戻れるなら、臼澤さんはどう行動しますか。
 
臼澤)自分の命を一番に考えて、安全なところに逃げます。自然災害には今までの経験は全く通用しません。
 
西村)今のお話を聞いて、改めて私も大きな災害に遭ったらまず逃げるということが一番なのだと心に刻みました。
臼澤さんは、東日本大震災の直後から NPO 法人「遠野まごころネット」の活動に参加してこられました。なぜ、大変な経験をされた被災者である臼澤さんご自身が活動しようと思われたのですか?
 
臼澤)私はいつもなぜ自分が生かされたのかを考えています。苦しんでいる人に、手を差し伸べるということは、人間として当たり前のことだと思っています。
岩手の有名な作家・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」いう詞が好きなんですが、震災後に避難所で苦しんでいる人たちと生活を共にしたときに、「雨ニモマケズ」の詞の行間に隠されている意味を少し理解できたような気がします。津波の中、神仏に生かされたこの命。多くの苦しんできた人たちのために、微力でも前を向いて、ともに手を携えて前に進むしかないと思っています。
 
西村)今はどんな活動をされていますか。
 
臼澤)高齢者や一人暮らしの人のために、よろず相談のようなことをしています。
 
西村)どんな相談が寄せられていますか。
 
臼澤)震災から10年経ちますが、個々の復興に関しては、経済的な問題で前に進めない人たちから声が届いています。そんな人たちと一緒に悩みを分かち合って生きていこうと。気持ちで支えていくことしかできないのですが。
 
西村)向き合ってお話を聞くだけでも、みなさんにとっては、心のよりどころや暖かな場所になっているのではないでしょうか。
 
臼澤)自分が今できることは「雨ニモマケズ」の精神で進んでいくことだけです。
 
西村)まもなく震災から10年。臼澤さんは、「遠野まごころネット」の活動を通して支援を続けながら、改めてどんなことを感じていらっしゃいますか。
 
臼澤)復興住宅に住んでいる人たちの中には、仮設住宅にいたときの方が良かったという人もいます。扉を閉めたら話をする人がいない。刑務所に入った感じがすると。避難所や仮設住宅では、近所の人たちの息づかいが聞こえていたのですが、今は話をする相手もいない。
仮設住宅から復興住宅に移って、被災者の苦しみが見えにくくなっているのが現状です。これからは、どんな支援のあり方が必要なのか。考えながらやっていかなければならないと感じています。
 
西村)臼澤さんは一昨年の町議会選挙で当選し、今は議員というお立場でまち作りに参加していらっしゃいますが、この10年で復興は進んでいると思いますか。
 
臼澤)復興といってもひとりひとり感じ方が違うので、多くの人たちが復興したと感じられるような段階までは、いっていないと思います。私が住んでいる上町は2000人を住ませるために、2mのかさ上げをしたんですが、今は1000人も住んでいません。
「ちむぐりさ」という沖縄の言葉があります。この言葉は、他人の人の心の痛みを自分のこととして一緒に胸を痛める。そんな意味があります。本当に苦しんでいる人の心のひだに寄り添うような、そんな言葉だと思っています。
阪神・淡路大震災や東日本大震災で生きたいと思いながら、命を失った人がたくさんいます。そんな人たちのために、希望を持てる地域作り、大槌町に住んで良かったと感じられるまち作りをこれからもやっていこうと思っています。
 
西村)沖縄の言葉「ちむぐりさ」のように、あなたの苦しみを私もともに味わって一緒に前に進んでいこう、という思いで、臼澤さんは活動されているのですね。
大槌町のみなさんとともに歩んでいってらっしゃる臼澤さん、大槌町のみなさんに私も会いに行きたくなりました。今はコロナでなかなか東北に行くことができませんが、関西からいつでも想っています。今日はお忙しい中ありがとうございました。
NPO法人「遠野まごころネット」理事 臼澤良一さんにお話を伺いました。