第1368回「阪神・淡路大震災28年【1】~生き埋めからの生還」
ゲスト:人と防災未来センター 語り部ボランティア 荻野君子さん

西村)今月は「阪神・淡路大震災28年」のシリーズをお届けします。
第1回目のゲストは、「人と防災未来センター」の語り部ボランティアとして震災体験を語り続けている、神戸市東灘区在住の荻野君子さんです。
 
荻野)よろしくお願いいたします。
 
西村)阪神・淡路大震災の日のことを教えてください。震災が発生した5時46分はどこにいましたか。
 
荻野)東灘区甲南町の自宅で寝ていました。ドーンと大きな音がして。今まで経験したことのない衝撃でした。
 
西村)それまでに地震に遭ったことはありましたか。
 
荻野)大きい地震は初めてで、最初は地震だとわかりませんでした。真っ暗で。ガス管が外れたのかガスと土の匂いがしていたので、ガス爆発で死んでしまうのではと思いました。余震がグラグラときて、はじめて地震だということがわかったんです。2~3秒で家が潰れてしまったので、なにもできませんでした。
 
西村)荻野さんは、どこで寝ていたのですか。
 
荻野)夫婦で1階で寝ていました。一戸建ての小さな家です。2階には息子や娘が寝ていました。当時27歳の娘は、1月15日から長野県へスキー旅行に出かけていたので難を逃れました。
 
西村)息子さんは、当時おいくつだったのですか。
 
荻野)息子は、25歳でした。洋服ダンスの下敷きになったのですが、自力で脱出しました。
 
西村)家が潰れてしまったということですが、荻野さんとご主人はどんな状態だったのですか。
 
荻野)わたしは、冷え性なのでこたつで寝ていたんです。こたつの上に2階が落ちてきました。こたつは潰れましたが、こたつ布団の綿がクッションになって助かったんです。わたしたちは幸い無傷でしたが、そのまま仰向けのままで生き埋めになってしまいました。
 
西村)ご主人も同じこたつで寝ていたのですか。
 
荻野)はい。近くで寝ていました。ふたりで人生おしまいかな、死んでしまうのかなと思いました。でも息子と娘は何とか助かってほしいと思いました。娘は県外に行っていたので良かったのですが、2階で寝ていた息子を心配していました。すると「お父さん、お母さん大丈夫か!」と外から息子の声が聞こえたんです。わたしたちは、助かりたい一心で、一生懸命「助けて!助けて!」と叫んだのですが、手応えがなくて。「お父さん、声が外へ届かないよ!」と主人に言うと主人がこたつをドンドンと足で蹴りました。そうすると、その音が響いて、外へ届いたんです。その音を聞いた息子が「生きてる!」と叫ぶ声が聞こえました。それから近所の人がたくさん出てきてくれて、息子を含めて6~7人の人に7時間後に救出されました。
 
西村)7時間は長かったですね。
 
荻野)セメントに固められたように動けなくて。トイレにも行きたくなるし、苦しくなるし。圧迫感を感じて怖かったですよ。
 
西村)お腹もすいてきますよね...。
 
荻野)お腹はすきませんでした。怖くてそんな余裕はありませんでした。
 
西村)寒かったのではないですか。
  
荻野)寒かったですが、夏ならもっと困ったと思います。冬で布団をかぶって寝ていたから助かりました。
 
西村)夏だったら布団ではなくタオルケットだったかもしれませんよね。こたつと布団があったから無傷だったのですね。助けを求める声が届かなかったときは、どんな思いでしたか。
 
荻野)こんなことが現実に起きるのかと思いました...。わたしたちの声は外に届かなかったのですが、外の音は全部聞こえるんですよ。人の話し声や足音が。10m北に2号線が通っていて、そこを走る救急車、パトカー、消防車...たくさんの音が聞こえるんです。ところがわたしたちの声だけ届かなくて。声よりも、手や足などどこか動くところを使って叩いて音を出すほうが外に届きます。これをみなさん覚えておいてください。たくさんの人が助かってほしいというのが、わたしたちの願いです。おかげさまで命をいただいたので。
 
西村)私だったらパニックになって叫んで体力を消耗してしまいそう。
 
荻野)声を出すと体力もなくなります。「声を出すと埃が舞って苦しいから静かにして」と主人に言われました。でも自然と声が出てしまうんですよね。
 
西村)避難訓練では、生き埋めになった状態を想定して、物を叩く練習もしなければなりませんね。息子さんは、お父さんとお母さんが生きているとわかって、まず誰に助けを求めようとしたのですか。
 
荻野)消防署に駆け込んだようです。でもたくさんの人が同じように助けを求めて並んでいて何もしてもらえなかったようです。そして、「お父さんとお母さんはもう避難しましたよ」という間違った情報も流れました。近所の奥さまが誰かと間違ったようなんです。
 
西村)みんなパニックになっていたのですね。
 
荻野)息子は「僕を置いて先に避難してしまったんだ」と思ったようです。でもあちこち探したけど姿が見えない。そのころわたしたちは、1分1秒でも早く助けてもらいたいと待っていたんです。最近、園児がバスの中に取り残されて亡くなった事件がありましたよね。しっかり確認をして行動してほしいと思います。わたしたちは、その奥さまのご主人におんぶして助け出してもらいました。今はとても感謝しています。今も近所に住んでいて、仲良くさせてもらっています。
 
西村)みなさん無事に震災後を生き抜いて、仲良くしているのはすごく幸せなことですね。
 
荻野)気の合わない人もいるかもしれませんが、近所同士仲良くやっていくことは大事だと思います。
 
西村)息子さんは、消防署に駆け込んで助けを求めたけど対応してもらえなくて、近所の人にお願いしたのですね。
 
荻野)若い人たちは普段仕事に行っていて、家にいることが少ないです。近所付き合いが薄くて、助けを呼びに行きにくかったようですね。
 
西村)全く付き合いのない家のインターホンを押すのは勇気がいりますよね。その人も必死な状態かもしれないし。たしかに日頃からの付き合いがないと助けを求めにくいですね。
 
荻野)わたしたちは、お隣さんに助けてもらいました。家のことに詳しい大工さんだったんです。天井板をのこぎりで切ってくれました。電気・ガス・水道すべて止まっていましたから。
 
西村)7時間経って、家も徐々に潰れてきていたのでは。
 
荻野)少しの隙間があったので、無傷で助けてもらうことができました。
 
西村)大工さんがのこぎりなど家を解体する道具を持っていてくれたおかげで助かったのですね。わたしたちも備えておかないといけないですね。
 
荻野)救出は大変だったようです。頭や足がどこにあるのかわからなくて。「頭はどこ?足はどこ?」と叫びながら作業して。
 
西村)その時、荻野さんは声を出せたのですか。
 
荻野)声は出すことはできました。
 
西村)体力も消耗してきていたのではないですか。
 
荻野)わたしは、大声を出すことに自信があったので大丈夫でした。
 
西村)日頃からの体力づくりも大事なのですね。
 
荻野)助けてもらったときは、「命をいただいた」とありがたくて。言葉にできないうれしさでした。
 
西村)7時間倒壊した家の中で閉じ込められているとき、これをやっておけばよかったということはありますか。
 
荻野)なにも気がまわらなかったです。トイレに行きたくなりましたが一生懸命我慢しました。漏らしてしまったら恥ずかしいのはもちろん、冷えてしまうという心配も。当時はなんとか我慢できましたが、歳を取った今は我慢できないと思います。とにかく精一杯でした。
 
西村)当時、荻野さんはおいくつだったのですか。
 
荻野)主人もわたしも52歳でした。体験したものにしかわらないことをみなさんにお話したいと語り部をしています。日本は地震大国です。阪神・淡路大震災以降も熊本地震や東日本大震災などたくさんの災害がありました。わたしたちは、命を助けてもらったご恩返しに、経験を話すことで、たくさんの人に助かってほしいと思っています。
 
西村)震災を知らない人たちにこれからどんなことを伝えていきたいですか。
 
荻野)生き埋めになったときは「声よりも物を叩く」いうことを覚えておいてほしいです。わたしは、1階に寝ていて怖い思いをしたので、膝が悪くなってしまいましたが、手と足を使って階段を上がって、今も2階で寝ているんです。2階には靴箱がないので、手の届くところに靴を置いています。他にも懐中電灯、情報聞くための小さなラジオも置いています。マッチ、ライター、ローソクなども備えていますが、小さい子どもがいる家は注意してください。血圧の薬も非常用持ち出し袋に入れています。あと、血液型のわかるメモを入れておくと怪我したときに早く輸血してもらえます。わたしたちは、生き埋めになってしまったので、水やお茶を持って出る余裕はありませんでした。水や貴重品は後日、掘り起こしに行きました。一番大事なものは命。まずは命を守ってください。お金で買えないものの大切さを感じました。空気を吸えることがありがたいということ。優しい心、思いやりの心も大事。みんなが助かってもらいたいというのが一番の願いです。元気な間は、ご恩返しをしたいので、ボランティア活動を続けていきます。
 
西村)わたしたちも改めて、地震への備え、近所のみなさんとのやさしいつながりを広げていきたいと思いました。
きょうは、「人と防災未来センター」の語り部ボランティアとしてご自身の震災体験を語っている荻野君子さんにお話しを伺いました。