第1265回「阪神・淡路大震災26年【4】~語り継ぎの先駆者たち」
取材報告:亘 佐和子プロデューサー

西村)先週、17日で、阪神・淡路大震災の発生から26年を迎えました。
当日は、ちょうどこの「ネットワーク1・17」の放送中に発生時刻を迎えるということで、私が、神戸の東遊園地から生中継でお伝えしました。
毎年、1月17日に東遊園地で行われている「1.17のつどい」は、今年は新型コロナウイルスの感染拡大で、緊急事態宣言が発令される中での開催となりましたが、分散して来場できるように初めて前日からろうそくに火を灯すなど、感染対策をとった上で行われました。
会場には、竹灯籠と紙灯篭で「がんばろう1.17」の文字が形作られ、コロナ禍の中でも多くの人が追悼に訪れ、ろうそくに灯をともしていました。
そして、発生時刻の5時46分には、黙とうが行われました。訪れた人の声をお聞きください。

音声・男性)亡くなった婚約者が東灘区に住んでいました。お腹の中には子どもがいました。
マンション自体が変形してしまって。なんとか引っ張り出して...。病院ではあの時はしょうがないけど、意識がある人や助かる見込みの人からということで...。助けてあげられなかったことが本当に申し訳ない。

音声・高齢女性)弟が長田区で圧死しました。2階が1階になってしまって。遺体は駐車場の方にありました。美容師になるために勉強してやっと独り立ちして店をもったばかり。修業中に地震にあってしまいました。

音声・40代女性)高校生でした。家が全壊して近くの小学校に半年近く避難しました。26年経って来たのですが、この寒さの中、外に放り出されたのだなと。今になって記憶と結びつく部分がたくさんあるので、忘れないということは大事だと思います。

音声・高校一年生男子)16歳の高校1年生です。10歳の頃から母や父が連れてきてくれて。歴史の教科書の中にしか出てこないことが、
自分たちの住んでいる街で本当に起こったのだなと。自分の心の深いところまで感じるものがあって、それから毎年来ています。


西村)大切な人を亡くした辛いあの日のことを話してくださって、ありがとうございます。
遺族の方にとって、「1.17のつどい」、東遊園地での時間というのは、本当に大切な場所・時間なのだということを改めて感じました。
高校1年生の人にとっては、歴史の教科書に出てくることが阪神・淡路大震災なんですね。
つどいに参加するということで、心の深いところで受け止めるきっかけになるというのは、語り継ぎの大切さを実感します。

リスナーの方からメールが届いています。
福岡市のラジオネーム・ピローズさんからです。
「今年も早朝の5時46分に妻と黙とうしました。5時過ぎに起きてリビングに行くと、妻がテレビで被災直後の映像を見て、黙って涙を流していました。あの朝は本当に寒かった、と一言こぼしていました。灘区で被災した妻にとっては、震災は今も心の中で続いているのだと感じました」
26年経っても節目っていうのはないのですね。心の中でずっと続いていくことなのです。

堺市のラジオネーム・いちごみるくさんからは、
「子供を亡くされた方や、その日に生まれた方のそれぞれの思いが伝わりました。多くの犠牲の元に自分の命があるのだと感じるとともに、忘れないことが改めて大切だと思います」
と、感想をいただきました。今、自分の命がこうやって生かされていることの奇跡を改めて感謝したいと私も思います。

東大阪市のラジオネーム・たまねぎちゃんさんからです。
「西村さん、寒い中のリポートお疲れ様でした。真に迫って涙が出ました。コロナ禍でいろいろ変更になったと思いますが、人の気持ちは変わらないと思います。生かされている意味をまた心に留めました」
どんなに時が経っても人の気持ちというものは変わらない。生かされている意味を掘り下げて考えて、語り合っていきたいと思った一日でした。
そのほかにもたくさんいただいています。みなさん本当にありがとうございます。

今年は特に、「語り継ぐこと」の大切さを改めて感じていました。
新型コロナウイルス感染防止のため、いつも以上に命と向き合った暮らしをしています。今、生きて笑顔で過ごすことができているのが、本当に幸せなことなのだなということを日々感じています。
私は、阪神・淡路大震災のときは、中学1年生でした。大阪の自宅にいて、震度は4でした。食器棚や庭の灯籠が倒れたりはしましたが、けがもなく、幸い家族も無事でした。
被災してない私は、どうやって語り継いで言ったらいいのだろう、というのが心の中にずっとありました。
今回、会場で出会った方々から教えてもらいました。

今年の「1.17のつどい」は、コロナ禍でいつもの竹灯篭がなかなか集まりにくいということで、今回初めて紙灯篭で明かりが灯され、日本中から8000枚を超えるメッセージが集まりました。
全国の被災地からも届いていたんです。東日本大震災で被災した岩手県、西日本豪雨で被災した広島県、そして熊本地震で被災した益城町や、昨年の豪雨で被災した熊本県・人吉市などのさまざまな被災地からのメッセージ。私もいろんな場所で見て、心に留めてきました。
さらに竹灯篭も被災地から届いていたんです。

西日本豪雨で被災した岡山県の真備町から。真備町は竹の産地なので、竹灯籠での参加でした。軽トラックに載せて、自らの手で届けて灯りをつけていた「Team桃太郎」の北山さんと池田さんにお話を伺いました。
北山さんは、「西日本豪雨で被災した岡山のみんなの心を、神戸から届いた"はるかのひまわり"が励まし、癒してくれました。その恩返しに竹灯籠を作って3年目です。ひときわ背が高い竹灯籠は、『まきびの里保育園』のこどもたちが絵を描いたんですよ!」と、語っていらっしゃいました。
「笑顔いっぱい」と書かれた竹灯篭に、ピンクや緑、カラフルな笑顔のマークがたくさん描かれていて、見ている私も笑顔になりました。
池田さんは「今は、幼くて震災のことはあまりわからないかもしれないけれど、大きくなってから、このつどいに参加した話を聞いたり、アルバムの写真を見たりすることで、阪神・淡路大震災のつどいに参加したと知ると思う」と話してくださいました。
参加するということが、思い出になり、震災が身近なものになるのですね。

そして、今年はコロナで会場に行くことができなくても、 Zoom の「オンライン黙とう」がありました。夕方5時46分にも黙とうがあり、私も大阪の自宅から参加しました。会場と繋いで紙灯篭をバックに黙とうをする姿がありました。
黙とうの声と一緒に、私たちもオンラインを通して、それぞれの場所で祈りを捧げます。
その後に、コメント欄に当時の話や今の想いを書き込んだり、挙手をして顔を出して話をしたりしていました。神戸で被災した男性や、東日本大震災のときに福島で被災した高校生の女の子も。
このような形でみなさんの想いを聞いて、語り継ぎをオンラインですることができるのは、このコロナ禍だからこそ、出来たことなのだと気づきました。

私は、8ヶ月の娘に離乳食を食べさせながらオンラインで黙とうしてみなさんの話を聞いていたので、娘が大きくなったときに、阪神・淡路大震災のつどいに参加したことを話したいと思っています。
1月17日にどこで祈りを捧げるのかというのは、人それぞれでいいのだなと感じました。
でも、語り合う場に参加することで、生き抜くヒントを見つけることができる。そのことが、被災していない人にとっても、自分ごとに
変化するきっかけになるのではないかと思いました。
コロナ禍でも全国から参加して、語り継ぐ場所を作ってくださったみなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。

ここからは亘佐和子プロデューサーと一緒にお送りしていきます。

亘)「1・17のつどい」や、その会場である東遊園地は、阪神・淡路大震災を語り継ぐ上で、とても大切な役割を果たしていますが、残念なことに、これまで追悼行事や語り継ぎを中心となって担ってきた人たちが、昨年相次いで亡くなられました。
きょうは、『ネットワーク1・17』の過去の放送から、今は亡きお二人の声をご紹介したいと思います。

まずは NPO 法人「阪神・淡路大震災1・17希望の灯り(HANDS)」の初代理事長で、東遊園地の「1・17のつどい」の実行委員長を務めたこともある白木利周さんです。昨年の4月に78歳で亡くなられました。白木さんご自身が震災の遺族です。
震災で長男の健介さん(当時21歳、神戸大学3年生)を亡くしました。
悲しみに沈んでいた白木さんが、ご自分のことだけでも大変なのに、震災を語る活動をしていきたいと思ったのはなぜなのか。
2006年にご出演いただいたときの音声をお聞きいただきます。聞き手は当時のキャスター、妹尾和夫さんです。

音声・妹尾)東灘区のご自宅で、当時21歳だった長男の健介さんが亡くなられたのですね。
 
音声・白木さん)別棟に自分の部屋を持っていました。地震でブロック塀が倒れてきて、頭に直撃して即死状態でした。苦しまずに死んでくれたのがせめてもの救いです。子どもを亡くすことがどんなに辛いか。いまだに代わってやれるなら代わってやりたかったと思います。震災後4年ほどは自分の殻に閉じこもっていました。
 
音声・妹尾)「震災モニュメントウォーク」という震災の慰霊碑をまわる活動に、震災から4年後の1999年に初めて参加したのですね。
 
音声・白木さん)ウォークに参加して、同じ境遇の遺族の方たちと話をすることによって、苦しみや悲しみを感じているのは、自分のひとりではないと思いました。初めて会った人とも苦しみや悲しみを理解し合える、という関係ができるのではないでしょうか。

 
亘)白木さんは、震災で長男を亡くし、4年後の「震災モニュメントウォーク」でほかの遺族と出会って、自分の気持ちを話して、この震災を語り継いでいこうという方向に気持ちが向かったそうです。
もう一つ、白木さんの生前のインタビューをお聞きいただこうと思います。
「1・17のつどい」の前夜、1月16日に設けられている東遊園地の交流テントの話です。交流テントというのは、遺族が集まっていろんな語り合いをする場所。亡くなった人がどんな人だったか、その思い出や、大切な人を失った気持ちなどについて。
お聞きいただくのは、白木さんが2008年2月に出演されたときの声です。とにかく遺族が思いを語り合う場所を作りたい、と語っておられます。

音声・白木さん)1月17日は、ご遺族のみなさんが東遊園地に集まって、当時のことを語っていただける場所づくりをしたいと、交流テントの設置をお願いしました。
 
音声・妹尾)どのような想いでこの活動を続けていますか。
 
音声・白木さん)震災を忘れてほしくない。我々が伝えていかなければならない。少しでも震災のことを頭においていただければと。そのためにする活動は、生かされている人間としてやるべきことだと思っています。

 
亘)東遊園地に設けられている交流テントは、遺族の交流の場であるとともに、若い人やほかの事件・事故で身内を亡くした遺族の経験も語り継ぐ場になっていました。
そして白木さんの活動は、阪神・淡路大震災の語り継ぎに留まらず、いろんな被災地の支援に広がっていきました。中越地震や東日本大震災の被災地にも何度も通われました。救援物資を届けることはもちろん、ご自身と同じように子どもを亡くした人のところに何度も通って、ご自身の体験を語ったり。

西村)心と心のつながりを大切に生きてこられた方なのですね。私も石巻に初めて行ったときに、被災された人に「希望の灯りは石巻にもあるんだよ。この希望の灯りが私達の支えであり、子どもたちに震災を語り継ぐ場になっているんだよ」と教えてもらったのです。その希望の灯りは、白木さんをはじめ、HANDSのみなさんが神戸から東北に持って行かれていたのですね。

亘)白木さんは震災の語り継ぎに大きな役割を果たされたということで、特別に東遊園地のモニュメントの震災犠牲者の名前を刻んだ銘板に、白木さんのお名前が加えられました。娘さんの白木かおりさんにお話を伺うことができました。
「父は、震災25年目の1月17日は、何としても東遊園地を訪れたいと言っていました。ずっと体調がすぐれなかったのですが、25年目に東遊園地に行くことができて、そのことをとても喜んでいました。語り継ぎは父の生きがいでした」と。
白木さんは東遊園地を訪れた3ヵ月後息を引き取られました。
 
今回もうお一人、過去の放送に出演されたときのお声をご紹介したいと思います。
昨年4月に82歳で亡くなった山川泰宏さんです。山川さんは東遊園地の「1.17のつどい」で使う竹灯籠の準備をするボランティア団体「神戸・市民交流会」の事務局長。東遊園地では今年は紙灯篭も使われていましたが、ずっと何千本もの竹灯籠が使われてきました。
今から聞いていただくのは、山川さんが2016年1月17日の「ネットワーク1・17スペシャル」に出演してくださったときのお声です。
ちょうど「神戸・市民交流会」が解散をして、「1.17のつどい」を若い方たちに引き継ぐ時のご出演でした。
聞き手は千葉猛キャスターです。

音声・山川さん)「神戸・市民交流会」の仕事の内容は、再生ろうそくつくり、竹の集荷作業、1月16日の竹並べ作業の指導、終わったあとの竹の整理作業として竹炭つくりと竹の焼却作業を約半年かけてやっています。中心メンバーは72~73歳です。
 
音声・千葉)解散を決めた理由は?
 
音声・山川さん)新しい方に手を挙げてもらう目的で解散を示しました。
 
音声・千葉)追悼行事を引き継ぐ必要があるのか、追悼は個人がやればいい、もっと広く防災の教訓を呼び掛けたほうがいいという考え方も聞きますが、山川さんはどう思いますか?
  
音声・山川さん)減災・防災は、これから大切にしなければならないことだと思います。追悼行事だけはではなく、減災・防災も含めて、若い人たちにつなげていくことが、高齢者から若い人たちにつなげる学びの場だと。新しいつながり、世代交代がこれから始まると思います。どんなかたちで協力して努力していくかは、これからの課題だと思っています。

  
亘)「神戸・市民交流会」がしていた竹灯篭の作業は、ろうそく作りからすごく大変。使い終わったろうそくを集めて、新たにろうそくにして、2万個作るという作業を毎年地道にやっていました。もっと簡略化できるという意見もありましたが、心を込めた手作業にこだわっていました。
「神戸・市民交流会」の解散の後は、「神戸・心絆(ここな)」という団体をつくり、東北の仮住宅を支援。
追悼ではなく、減災・防災の教訓の方が大切ではないかという意見もよく聞くのですが、私がきょう、あえて亡くなったお二人の声を紹介したのは、このような先駆者の想い、悲しみの共有がないと、防災の呼びかけはただのスローガンになってしまうと思うからです。失われた命へのこだわりを大事に、伝えてきたいと改めて思っています。
 
西村)お二人の想いをしっかりと胸に刻んで、みなさんにお伝えしていきたいと思います。
被災していない私個人の意見なのですが、亡くなった方々のご家族のお話、被災した方のお話の世界に自分の心を置いて、一緒に考えることが大切なのだと思いました。私だったらそのとき、どんな風に行動していただろう、どんなこと思うのだろうと胸の内にしまっておくのではなく、大切な人と語り合う。それが語り継ぎにつながってくと。
 
私が1月17日に東遊園地で出会った人の中にはこんな人もいました。尼崎で被災をして、家が全壊になった女性は初めてつどいに参加したとのこと。「朝、テレビの中継を見て、初めてつどいに行こうと車に乗って来ました。コロナ禍で鬱になりかけたけれど、このつどいに参加して、みなさんの紙灯篭や竹灯篭のメッセージを見て、生かされた命を大切に生きなければと思いました。当時のことを思い出せて本当に良かった」と語ってくださいました。
 
そんな語り継ぎの場をこれからも大切にしていきたいです。
この「ネットワーク1・17」がみなさんのきっかけとなるように、これからもスタッフと一緒に作っていきたいと思います。