オンライン:エフエムひらかた プロデューサー 石元 彩さん
西村)災害が起きてライフラインが止まったとき、電池だけで聞くことができるラジオは、情報を得るのに有効と言われています。今はスマートフォンのアプリでも聞くことができますね。阪神・淡路大震災の後には、全国各地で地域密着のコミュニティラジオが数多く開局しました。災害が増える中、大阪にあるコミュニティラジオ局のひとつが、今月末で惜しまれつつ閉局となります。枚方市にある「エフエムひらかた」です。大切な地域メディアであるコミュニティラジオがどんな役割を果たしてきたのか、制作者の方にお話を伺います。「エフエムひらかた」プロデューサーの石元彩さんです。
石元)よろしくお願いします。
西村)「エフエムひらかた」は、阪神・淡路大震災をきっかけに、災害時の情報伝達を目的に第3セクターとして1997年に開局しました。地域密着のメディアとして放送を続け、国内で最も権威があると言われているギャラクシー賞を受賞するなど、評価を受けてきたラジオ局です。しかし、枚方市からの放送委託料、年間約5000万円が今年度で打ち切られることになり、事業の継続が困難と判断したことから、今月末で閉局となります。「エフエムひらかた」はホームページや「ListenRadio(リスラジ)」というアプリで聞くことができます。わたしもいつもホームページの動画配信で番組を聞いています。
石元)ありがとうございます。
西村)京阪枚方市駅の構内にもスタジオがありますよね。学生時代にスタジオに観に行ったこともあって、思い出深いラジオ局です。スタジオ内に「閉局まであと何日」とカウントダウンが貼られていて、寂しいですね。あと8日で閉局ということで、今、石元さんは、どんな毎日を過ごしているのでしょうか。
石元)今までやりたかった特番や企画をこなしています。年間を通してリスナーさんに楽しんでもらえる企画を作ってきたのですが、2月28日が最後ということが決定しているので、やった方がいいと思ったことはすべてやっています。自分でも詰め込みすぎだと自覚してはいるのですが...やり遂げたいという気持ちの方が強くて頑張っています。
西村)そんな中、新型コロナが蔓延していますが、影響はありますか。
石元)はい。「エフエムひらかた」は、イベントも打ち出していて、2月に音楽イベントを行おうと動き出していました。しかし、年明早々に中止の決断をすることになってしまって。「エフエムひらかた」の最後のために頑張ると言ってくれた出演者のみなさんの気持ちや、期待させてしまったリスナーさんの気持ちを裏切ることになってしまって辛いです。コロナのことを恨んでしまいます...。
西村)石元さんご自分を責めすぎないでくださいね。
石元)ありがとうございます。
西村)石元さんは「エフエムひらかた」が開局準備をしていた1996年10月に入社。開局当時からのスタッフは、石元さんと上司の2人だけということです。石元さんは、数多くの番組を制作してきたと思いますが、石元さんが番組を作る上で大切にしていることは何ですか。
石元)広域で放送されるラジオ局とは違って、地元密着型のラジオ局なので、地元に密着したものを作りたいということです。市民を巻き込んで、初めて枚方市のラジオ局として認めてもらえると思っているので、できるだけ市民が参加できる番組を作ってきました。どこの町にもラジオ局があるわけではないですよね。大手のラジオ局には簡単に出演できないと思いますが、「エフエムひらかた」は、市民の身近なところにあるラジオ局なので、一般の人、中学生・高校生や子どもたち、市民団体などにボランティアパーソナリティとして出演してもらっています。ラジオに出てみたい人は、応募して気軽に出られる場所になればと。聞くだけではなく、出演体験をしてもらうことで、伝えること、喋ることの楽しみや難しさを実体験の中で感じてもらって、ラジオをもっと身近なものにしてもらいたい。マイクの前で喋る、公共の電波に自分の声が乗るというのは、なかなか体験できないことだと思います。そんな非日常を味わえる場所にできればと思って作ってきました。
西村)友達が出たら聞こうと思いますよね。「うちの子出てるから聞いて」という親御さんもいるでしょうね。そのように「エフエムひらかた」が広まっていったのですね。
石元)そうですね。毎年夏休みには、「デビューde DJ ひらかたKIDS!」という、子どもたちがDJを体験できる番組を31日間放送しています。開局から20年以上やっているので、今まで2000人以上の子どもたちが出演したことになります。
西村)「エフエムひらかた」は、阪神・淡路大震災をきっかけに、災害時の情報伝達を目的に生まれたということなのですが、普段から親しみを持ってもらうことは災害時の情報発信をする上でも大切なことですよね。
石元)災害は毎日やってくるものではありません。災害に特化しまうと、リスナーのみなさんといつ接点ができるかわからない。普段から身近で、地元のことを多く取り扱ってくれるラジオ局という認識が高いほど、災害時にこういうときこそ「エフエムひらかた」!と、思ってくれる。普段はいろんな局を聞いている人も、災害時は「エフエムひらかた」にチューナーを合わせた方が自分たちの欲しい情報が手に入るという期待してくれると思います。平常時にそんな人を1人でも増やしておくことが、防災そのものに繋がると思います。
西村)ラジオが命を守るということに繋がりますね。
石元)人の命、人の生活を守る情報を発信するためです。情報を受けてもらえる状態になっていなければ、こちらがどれだけ発信しても届かない。わたしたちも命を救えなくなってしまいます。普段のバラエティー豊かな番組がそのための種まき作業になっているのかなと。
西村)東日本大震災の後は、被災地の情報発信にも力を入れてきました。2013年から続いているのが「週刊東北だより」というコーナーです。このコーナーは東北の被災地の人と生放送で電話を繋いでお話を聞くというもの。実際の放送の様子をここで少しお届けします。宮城県・亘理町で和風レストランを経営されている人とのお話です。お聞きください。
音声・和風レストラン店主)ほっき飯と宮城県でとれた牡蠣の牡蠣飯をやっています。
音声・女性パーソナリティ)美味しそうですね!宮城県はホッキ貝の水揚げが盛んでしたが、震災後難しくなったと。結構、被害があったのですか。
音声・和風レストラン店主)津波の被害を受けました。ほっき貝は、砂地のところにいるんです。漁船のうしろに鉄のカゴのようなものをつけて、引っ張って獲るんですけど、テトラポットが全部漁場の方に流出してしまって、船でカゴが引けなくなってしまったんですよ。それで水揚げもできなくなってしまって。でも(お店の)名物として出していたので、なんとかできないかと。周りの力を借りて、北海道からほっき貝を取り寄せています。
音声・女性パーソナリティ)10年経っても、ホッキ貝の漁は難しいのですか。
音声・和風レストラン店主)だいぶ戻ってきてはいるんですけどね。
西村)今月放送されたばかりの「週刊東北だより」です。現在の様子もわかりますし、実際にこの他にもいろんな被災体験を話してくれました。その話が自分ごとに変わるきっかけになるのではと思いました。石元さんはどんな思いでこのコーナーを続けてきたのですか。
石元)大阪と東北は距離が離れています。西日本の人は、九州に知り合いや親戚がいたとしても、東は東京ぐらいまでにしか知り合いがいないと思うんです。身近な人がいないと、国内で起こった大きな災害でも風化が早いし、関心事から外れていきやすい。ラジオ局として、この風化のスピードを緩めることができないかと考えました。そこで、毎週さりげなく、東北の人の生の声を届けることは、すごく大事なのでは思いました。「東北は今こういう状態。忘れないでおきましょうね」とわたしたちが取材をしたものをパーソナリティが伝えても説得力に欠けるところがある。現地の人が話すことにはかなわない。わたしたちが想像しているところとは違う視点で話をする人もいます。大変な部分、辛いこともさまざま。被災者全員が同じではないと思います。被災者それぞれが何を求めているのか、何を大事にしているかによっても変わってくると思います。年月が経つほどそれは多種多様になって、答えは一つではないことが見えてきます。さまざまな人に毎週出てもらって、当時のことにも触れてもらいながら、どんなふうに日々生きているのかを伝える。それを毎週聞き続けることで、会ったこともない東北の被災地のみなさんの存在がリスナーの中でもちょっとずつ大きくなっていくと思います。
西村)和風レストランの人のお話を聞いて、話している表情が浮かんできました。わたしもレストランに行ってホッキ貝を食べたくなりました。
石元)行きたくなりますよね!
西村)この「週刊東北だより」には、もう一つ素晴らしいポイントが。このコーナーは、同じ番組の同じ時間ではなく、異なる時間帯のさまざまな番組で流れるというところがおもしろいポイントだなと。これはなぜですか。
石元)多種多様な内容を発信したいのと同じように、受け手である枚方のリスナーに1人でも多くの人に聞いてもらいたいからです。毎月の移動式番組といって、曜日や時間を変えて放送することによって、いろいろな人に届けることができます。そうすることによって、被災地や震災に関する関心事が広まっていくと思いました。
西村)まさに種まきですね!大阪のコミュニティラジオでこれほど東北の人々の思いを届けるのはなぜですか。
石元)神戸の震災のとき、わたしは短大生でした。わたしはその時も枚方に住んでいて、揺れましたが、数時間の停電が経験しただけで、その日からいつも通りの生活ができていて、不自由することはなかったんです。わたしは西宮の学校に通っていて、被災地にいる友人もいました。淀川を越えたらブルーシートが見えきて、苦しい気持ちになりながら学校に行った記憶があります。わたしにも何かできないかと、両親に「わたしもボランティアに行ってみたい!」と言ったのですが、「あなたに何ができるの?」言われたんです。おそらく危険な目に遭わないかと心配して言ったと思うのですが、何をするために行くのかと言われるとわからなかった。「何かできるんじゃないか」という気持ちだけで言ってしまったんです。
何かしたいと思って何もできなかった学生のときと違って、11年前(東日本大震災発生時)は、既に「エフエムひらかた」に勤務していました。阪神・淡路大震災から16年経っていて、災害時にできたラジオ局の中でやれることはたくさんあると。「今度こそ何かしたい!」という気持ちが強かったのだと思います。
西村)だからこそ、「エフエムひらかた」で、東北のみなさんの声やリスナーのみなさんのメッセージを届けるという、心の架け橋になる活動を続けきたのですね。
石元)ラジオだからできることをやりたかったんです。
西村)そんな、地域のみなさんや東北のみなさんからも愛されてきた「エフエムひらかた」が今月末で閉局してしまうのはなぜでしょうか。
石元)わたし自身も問いたいところがあって。お金の問題でこのままでは運営が安定しないという単純な話ではあるんですけども。神戸の震災後、常設のラジオ局が必要ということできたのですが、臨時災害局という形で、期間限定で災害情報を伝えることは選ばなかった。親しみのあるラジオ局が普段からあることの大切さ、臨機応変に言葉を伝えることを大事にしたんです。臨時災害FMと常設のラジオ局で一番大きく違うのは、いつも聞いているラジオから届く声で情報が伝えられる安心感だと思います。大災害のときは、人は不安な気持ちでいると思います。被災情報や地域情報などのデータとしての情報は一番必要ですが、情報の前後に「一緒に頑張ろう」「無理しなくていいんだよ」といつものパーソナリティが言ってくれる安心感ってすごく大きいと思うんですよ。
西村)地元の知り合いが話している感覚で聞いているリスナーも多いでしょうね。
石元)放送委託料5000万円は、実際には1000万が国からの補助なので、事実上4000万の税金を使っています。枚方市は人口40万人なので、1人当たり年間100円なんです。年間100円で、普段は枚方市の情報とともに、災害時には災害情報が得られることは大事なことだとわたしは思っています。それを削ることに正直納得はしていなくて。ゼロではなく、削減ではダメだったのかと思っています。コロナ禍でもここまで頑張ってやってきたと思います。最後まで「エフエムひらかた」って元気だったなと思ってもらえるように、最後までリスナーに楽しんでもらえるように頑張ります。
西村)最後に、音声だけで伝えるラジオができることをあらためて教えてください。
石元)ラジオは、想像力をすごくかき立てるメディア。人の気持ちを察する心、優しい心を育むものでもあると思います。声だけというのは無駄な情報がないので、シンプルに聞き手にこちらが発信したいことを伝えることができる。先ほど、亘理町の人の「しゃべっている表情が見える」とありましたが、西村さんが描いた表情、わたしが描く表情、リスナーさんが描いた表情は多分違うと思います。それが素晴らしいと思うんです。
西村)その違いがまた楽しいですよね。
石元)そのような感性が磨かれて、世の中にあるさまざまなことに対しても単純にマジョリティーで動くのではなく、関心を持って動く人が増えていくと思います。25年やってきたからこそ感じるのですが、ラジオにはそんな魅力があると思います。今はYouTubeなどいろんなものに押されてラジオはなくなるのではと言われることも多いですが、きっと細々と続くメディアなのだと思います。選ぶものが増えていくことは素敵なことですが、そんな中でラジオの魅力、文化は残っていって欲しいです。
西村)あと8日間で閉局する「エフエムひらかた」。みなさん聞いてみてください。局のホームページか「ListenRadio(リスラジ)」というアプリでも聞くことができます。ラジオの電波(周波数FM77.9MHz)で聞くこともできます。
きょうは、「エフエムひらかた」プロデューサーの石元彩さんにお話を伺いました。