電話:福岡県太宰府市在住 船越明美さん
西村)阪神・淡路大震災で、兵庫県宝塚市では118人が亡くなりました。
震災の発生から25年が経った去年1月17日、犠牲者の名前を刻んだ追悼の碑が完成しました。
この碑が作られるきっかけになったのは震災で息子を亡くした女性が宝塚市役所に送った一通の手紙でした。
きょうはその手紙を書いた船越明美さんにお話を聞きます。
船越さんは現在福岡県の太宰府市にお住まいです。
息子の隆文さんは当時17歳。宝塚市で一人暮らしをしていました。
船越明美さん、よろしくお願いします。
船越)よろしくお願いします。
西村)船越さんは、震災当時も福岡県太宰府市にお住まいだったのですか。
船越)いいえ。同じ福岡県ですが隣の大野城市という所に住んでいました。
西村)福岡と宝塚市で離れて生活する中で、阪神・淡路大震災が発生したんですね。
隆文さんは宝塚市でどんな暮らしをされていたのでしょうか。
船越)将棋のプロ棋士を目指して、師匠の住んでいる宝塚市・清荒神に住んでいました。
西村)親元を離れて宝塚市にお住まいだったのですね。当時は高校生だったのですか。
船越)1年生まで福岡の高校に通っていて、2年生から宝塚市の通信制高校に通っていました。
西村)高校1年生で親元から送り出すという決断はかなり大きかったと思います。どんな息子さんでしたか。
船越)すごく気持ちの優しい子でした。何にでも一生懸命になる子でした。
西村)頑張り屋さんだったのですね。
船越)小学校の6年生の時は、ミニバスケットをやっていてキャプテンをしていました。
活発な子でしたが、頭を怪我してむち打ちになって、運動があまりできなくなったので、プロ棋士を目指すことになりました。
西村)バスケットボールから将棋の世界へ。新たな夢を見つけて歩みを進めていたのですね。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生した日のことを教えていただけますか。前日は何かお話をされましたか。
船越)一人暮らしだったので1日に1回は声を聞きたいと思っていて。帰ってきたら電話しなさいと言っていました。
西村)前日の夜はどんな話をされたのですか。
船越)その頃少し負けていたのですが、息子は、色んな手を考えているからだと言っていました。
これからはがんばって勝てるようになる、次の年には初段になるからと。
「僕、がんばるけん。僕、がんばるけん」とそればかり連呼していましたね。
西村)羽生善治さんが史上初の六冠になって、歴史に名を刻もうとしていた頃ですね。
日本中が将棋に沸いていた時に、息子さんは夢を叶えるべく「来年の夏までにはがんばるから」という話をされていたのですね。
船越)優しい子なので、「お母さん、いつも僕のためにありがとう。がんばるけん」と口癖みたいに言ってくれていました。
西村)16歳で親元を離れているので、毎晩するお母さまとの電話がとても心強かったと思います。
船越)「明日の朝、記録の仕事があるから起こしてね」と聞いて、電話を切りました。
西村)翌日、モーニングコールはされたのですか。
船越)朝6時頃に電話をしたら全然通じなくて。テレビをつけたら、地震があったということでびっくりしました。すごく心配でニュースを見ていました。
私は小学校の講師をしているので、学校に行きましたが、5分の休み時間もニュースを見ていました。
だんだん状況が酷くなっていって...
西村)福岡は揺れたのですか。
船越)少しだけ揺れました。校長先生が家に電話がかかってくるかもしれないから帰りなさいと言ってくださって。
昼には家に帰って、息子に電話をしましたが全然連絡が取れなかったんです。
そして、夕方に長男(隆文さんの兄)が帰ってきて、公衆電話からなら繋がるかもしれないとのことで、一緒に公衆電話まで電話をかけにいきました。やっと大阪に繋がって、宝塚の方は大丈夫ですよと言われたんです。
安心して家に着いたら、誰からかは覚えていないのですが、息子が亡くなったと連絡がありました。
テレビをつけたら夕方のニュースで息子の名前が出て。それからはずっと嘘だと思っていました。
西村)そうだったのですね。テレビで息子さんの名前見るというのはとても辛いですね...。
船越)親戚の方が車を手配してくださって、夜に福岡を出発して、翌日の昼に宝塚の遺体安置所の体育館に着きました。
そこに息子が横たわっていました。亡くなっているようには見えなかったのですが、触ると冷たかったので、ああもうだめだ...と思いましたね。
西村)息子さんはどこで亡くなられていたのですか。
船越)清荒神のアパートです。古い木造2階建ての1階に居ました。2階だったら助かっていたと思います。
西村)アパートはどんな様子だったのですか。
船越)2階が1階ぐらいの高さになっていて。辛くて見ることができませんでした。
西村)その後、息子さんが亡くなった宝塚には足を運ばれたのですか。
船越)それから何度も何度も宝塚に行こうとしました。
「今から行きます」と師匠の森先生にお電話をして。大阪まで行くのですが、券売所に着くと体が震えて宝塚までの切符が買えないのです。大阪まで行っても帰ってきてしまうという状態が何回か続きました。
しかし息子の事を分かってもらいたいという気持ちがずっとありました。息子の26歳の誕生日の前日までが奨励会のプロになれる期限だったので、亡くなってから9年目のその年に、展覧会を開きました。私が気を紛らわすために描いていた絵の展覧会です。息子の絵や息子が好きだったピエロの絵、いただいたお花の絵や息子と行きたかった土地の絵などを飾らせてもらいました。
森先生が全部手伝ってくださって。すごくセンス良く飾ってくださいました。
それから1月17日に献花に行けるようになったのは翌年10年目のこと。長男と一緒に出かけることができました。
それまでは毎年、森先生と門下生の方が献花してくださっていたんです。
西村)船越さんが宝塚市にお手紙を出されて、それがきっかけで去年「追悼の碑」が完成しました。宝塚市に手紙を出そうと思ったのはなぜですか。
船越)手紙を書く2年前に、宝塚市役所から慰霊碑ができるかもしれないという連絡の手紙を何度もいただいていましたが、その計画は頓挫となってしまいまいた。それと共にアパートの大家さんが亡くなられたのです。大家さんは、お参りができるようにとずっと更地にしていてくれたのです。
しかし大家さんが亡くなられて土地が売却され、家が建つということになって。
次の年からお祈りするところがなくなってしまうので、慰霊碑ができたらという想いでお手紙を書かせてもらいました。
西村)どんな内容を書かれたのですか。
船越)こんな内容です。
「息子の住んでいた清荒神の跡地に家が建つことになりました。
毎年1月17日は森師匠を始め、ご家族及び棋士の方々が集まり、献花が行われています。
プロ棋士になる夢と希望を持って福岡に旅立った息子は、
9ヶ月という短い間ですが、宝塚という地で充実した日々を送っていたことでしょう。
その地に鎮魂の名前を残していただけないでしょうか。
これからも将棋の道をこの宝塚で、棋士の方々と共に歩ませてあげたいと思うからです」
このお手紙を中川市長様宛にお送りしたら、絶対に作りたいとお返事の手紙とお電話をいただきました。
西村)想いが伝わったのですね。
船越)慰霊碑ができるということになって、これで毎年献花ができると思いました。
西村)「追悼の碑」は、宝塚市民のみなさんの寄付約135万円によって建てられました。
震災を次の世代に伝えようと「忘れない阪神・淡路大震災」という追悼文が刻まれています。
裏には生きた証として、犠牲者118人の内、遺族の方が希望した72人の名前が刻まれ、宝塚市のゆずり葉緑地に設置されています。
去年1月17日に除幕式が行われましたが、どんな想いで参加されましたか。
船越)遺族代表としてお話しをしてくださいと依頼を受けました。
息子のことを知っていただくために、自分もがんばらなければと思い、長男と一緒に出席させていただきました。
西村)「追悼の碑」に刻まれた息子さんのお名前を見て、どう感じられましたか。
船越)これからこの土地でみんなと一緒にずっと将棋ができるなと思いました。
西村)みなさんの想いが一つになったのですね。今年は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で大変な状況が続いていますが、今年の1月17日は、宝塚に来られるのですか。
船越)いいえ、このような状態ですので。私はまだ小学校に勤務していますので、何かあったらみなさんに迷惑をかけてしまうので、出かけないようにしています。
森師匠がお参りに行きますと言ってくださいましたので、福岡からお祈りしたいと思います。
西村)ご自宅から手を合わせてお祈りをされるのですね。心のつながりはまだまだ続いていきますね。震災26年を前に、今どんなお気持ちですか。
船越)このようなこと(新型コロナウイルスの感染拡大)があるとは思ってもみませんでした。自分の足が動いて元気なうちは、毎年宝塚に行こうと思っていましたが、行けない状態で残念です。早く収束してまたみなさんが動けるようになったらと思います。
西村)来年は宝塚に来ていただけるといいなと私も思っています。
お忙しい中、お話を聞かせていただきまして本当にありがとうございました。
きょうは福岡県にお住まいの船越明美さんにお話を伺いました。