第1276回「熊本地震5年【1】~学生村があった南阿蘇村のいま」
取材報告:新川和賀子ディレクター

西村)今月14日で熊本地震の発生から丸5年を迎えます。新川和賀子ディレターのリポートです。
 
新川)2016年の4月14日の夜に起きた地震では、熊本県・益城町で震度7を観測、そして16日未明にも、益城町と西原村で震度7を観測する本震が発生しました。地震の揺れが原因で亡くなった、いわゆる「直接死」は50人。最初の大地震で避難しながら、その後自宅に戻り、16日の本震で亡くなってしまった人もいました。
熊本地震は大きな余震も非常に多く、本震の発生から3ヶ月の間に震度5弱以上の余震が23回もありました。熊本地震では、震災関連死と認定された人もたくさんいました。
 
西村)震災関連死とはどういうものですか。
 
新川)被災後のストレスや環境の変化、持病の悪化などが原因で亡くなることです。震災関連死は218人で、直接死の4倍以上。5年経った今、熊本地震の被災地では、まだ150世帯が仮設住宅やみなし仮設で避難生活を送っています。
一方、復興を伝えるニュースも。地震で大きな被害を受けた熊本城の天守閣の復旧工事が完了し、今月26日から一般公開が始まる予定です。地震で崩落した山間部の阿蘇大橋が新たに新阿蘇大橋として完成。先月7日に開通式が行われました。
 
西村)新川さんは今回、どんな取材を?
 
新川)私は、熊本地震の後、発生2ヶ月後と2年後に被災地を取材しました。その時お話を伺った人や訪れた場所が今どうなっているのか。今回また行きたかったのですが、新型コロナウイルス感染拡大の為、現地に行くことは断念し、電話とオンラインで現地の人と繋いで取材しました。
まずお電話でお話を伺ったのが、熊本県・南阿蘇村の黒川地区にお住まいの方です。崩落した阿蘇大橋のすぐそばの地区で、黒川地区は地震のときまで東海大学阿蘇キャンパス(農学部)の学生村があった場所です。
 
西村)たくさんアパートがあったんですよね。
 
新川)70軒近くのアパートがありました。学生800人が地域の住民と一緒に阿蘇の自然の中で、家族のように生活を送っていた場所でした。黒川地区は、熊本地震の本震でアパートや住宅が多く倒壊し、3人の学生と1人の住民が亡くなりました。地震の後に阿蘇キャンパスは熊本市内に移り、学生村はなくなりました。この黒川地区で、地震まで下宿を営んでいた竹原伊都子さん(60歳)に今の村の様子を聞きました。
 
音声・竹原さん)地震前から風景は変わってしまいました。学生さんの下宿やアパートは再建する人がいないので、建物が減りました。新阿蘇大橋が開通したことで、黒川地区に県道が通って道が広くなって綺麗になりました。
 
音声・新川)新阿蘇大橋が出来て、どんな変化がありましたか。
 
音声・竹原さん)今までの阿蘇大橋は200 mでしたが、新阿蘇大橋は525 m。倍以上の長さになりました。今まではアーチ型の橋だったのですが、震度7クラスの地震が来ても耐えられる橋脚型になりました。橋の展望台にはお客さんがたくさん来てくれています。
 
音声・新川)橋ができて、交通の便もよくなったのですか。

 
音声・竹原さん)良くなりました。今までは迂回しないといろんなところに行けなかったので。一番便利の悪いときと比べて半分ぐらいの時間で行けるようになりました。新阿蘇大橋は復興のシンボルです。お客さんがたくさん来てくださって、道の駅にもお客さんが増えました。体の不自由な人も車椅子で来てくれているのを見るとうれしいです。
  
西村)5年たって風景もだいぶ変わったのですね。なくなったものもあるけれども、うれしい1歩となったのが新阿蘇大橋なんですね。
 
新川)この場所には、私も地震から2年後に訪れています。とても雄大な地形の中にある村で、車で進むごとに山の尾根が目の前に迫ってくるような、大自然に抱かれた地域です。当時はまだ山肌が崩落したままの様子があちこちに見られて、道路も通れないところが多くて、橋の工事も始まったばかりで。復興の風景はなかなか想像できなかったのですが、地震から5年経って、立派な橋が完成して道路も新たに通ったということなんです。
 
西村)そんなに大きな橋が落ちたほどの被害。竹原さんのご自宅は大丈夫だったのでしょうか?
 
新川)竹原さんのご自宅も全壊しました。崩れかけた家から命からがら何も持たずに逃げたそうです。下宿に34人いた学生はみなさん無事でした。でも建物は半壊認定に。黒川地区の住民は、私が訪れた2年後のときは、40世帯のうち6世帯ほどしか残っていなくて、他のみなさんは地区の外で避難生活を送っていました。竹原さんによると、この1年が住宅の再建ラッシュとなって、今はほとんどの住民が黒川地区に戻ってきたということです。
 
西村)よくみなさん戻ってこられましたね。
 
新川)みなさん、この地区を離れたくないと竹原さんもいっていました。一方で、地区に800人住んでいた学生の姿はもう見られません。阿蘇キャンパスが学び舎だった東海大学の農学部は、地震後に熊本市内のキャンパスに移転。一部、実習が南阿蘇で行われているのですが、普段はもう地域住民だけの静かな村になっています。
下宿を営んでいた竹原さんのもとには、地震後も学生たちがたびたび訪れていたそう。竹原さんは義理のお母さんから引き継いで、30年以上続けてきた「新栄荘」いう下宿の建物を解体する予定でしたが、訪れる学生の姿を見て取りやめたといいます。竹原さんのお話をお聞きください。
 
音声・竹原さん)解体の申請をして、あとは順番待ちだったのですが、「おばちゃん元気ですか」と、子どもたちが結構訪ねてくるようになって。「自分が住んでいたアパートは解体されて更地になっていて、自分の住んでいた形跡が消えてしまって寂しい。新栄荘が残っていたので来てみた」と。話しているうちに泣き出す子も。「ご飯食べて帰りなさい」「コーヒー飲もうか」と、招き入れていろんな話を聞くようになりました。もう解体すると決めていたのですが、子どもたちが訪ねてきてくれるので、主人が「解体はやめる」と急に言い出して。訪ねてきてくれる子どもたちが、立ち寄る場所がなくなってしまう。どこを頼っていいのかわからなくなるからと。行き詰まったときに、阿蘇に来て、私と世間話しながらお茶を飲んでいると、来たときよりも元気になって帰っていくんです。ここは何にもない不便な場所ですが、元気になれる場所。ずっと後輩たちを連れてきて、私に紹介してくれます。今は1年生から4年生まで地震を知らない子たちばかりになりましたが、交流はずっと続いているんですよ。
 
西村)学生のみなさんとの繋がりの深さを感じますね。
 
新川)黒川地区は、熊本市内から車で1時間ぐらいかかる遠い場所なのですが、学生が何度もやってくるそうです。昔ながらの下宿の中では、新栄荘が唯一残ったそう。竹原さんは、全壊した自宅は再建せず、下宿を補修してご夫婦でお住まいです。この場所では、3人の学生と1人の住民がなくなる大きな被害を受けたのですが、当時レスキューが来る前に住民と学生が助け合って、倒壊したアパートから多くの命が助けられたということも聞きました。
 
西村)私も印象に残っています。
 
新川)3年前にこの地区を取材したとき、ここで学生生活を送っていた東海大学の学生さんにも実際に話を聞くことができました。住民との繋がりを地震の後もなくしたくないという思いが強くて、同じ思いの学生たちが集まって有志の団体を作り、南阿蘇でイベントを企画し、定期的に南阿蘇に通って、住民との交流を続けていたんです。その学生団体の一つが「阿蘇の灯」いう団体で、南阿蘇で灯りをともす「灯物語」というイベントを中心に活動されています。イベント以外にも、全国から南阿蘇へ訪れる大学生や企業の人に向けて、熊本地震を語り継ぐ、語り部活動も行っていました。
 
西村)今も続いているのですか。
 
新川)5年たった今も続いています。南阿蘇での生活や地震を経験した人は、現役のメンバーの中には誰もいないのですが、後輩たちが語り部活動を引き継いで行っているそう。今回、その「阿蘇の灯」の現役メンバーにお話を伺うことができました。「阿蘇の灯」代表で、東海大学3年生の島田希美さんです。島田さんが活動に参加するようになったきっかけと、南阿蘇で地震を経験していない学生たちがなぜ今も活動を続けるのか、思いを聞きました。
 
音声・島田さん)最初は先輩に誘われてついて行っただけだったのですが楽しくて。それから何回か行ったときも住民の方が温かく受け入れてくれて、いろいろ話を聞く中で、もうちょっと聞いてみたいと思うように。自分も一員になって協力できることがあればと思い参加させていただきました。竹原さんの新栄荘にお邪魔して、おばちゃんたちとお話したり、住民の方が温かく受け入れてくれるから続けられています。学生だけでは、ここまで活動を続けられていないと思います。地震を経験した人と比べると、言葉の重みもないかもしれない。でも地震の記憶をなくすことはしたくないので、少しでもみんなの心に残るようなことをしていけたらと思っています。
 
新川)この「阿蘇の灯」は新栄荘に部室があり、活動の拠点になっています。今回お話を伺った島田さんは、先月代表を引き継いだばかり。島田さん自身は、まだ語り部を行ったことはないけれど、地震を経験してない先輩たちが語り部を行っている姿を見て、自分もこれから語ってみたいと言っていました。「阿蘇の灯」のメンバーは現在20人ほど。加えて OB・ OGの卒業生も協力して活動を続けているそうです。この1年はコロナの影響で、南阿蘇に通う回数も減って、オンラインで語り部を行ったこともあったそう。昨年夏の熊本豪雨の被災地でボランティア活動を行うなど、さまざまな活動を続けているということです。
学生たちだけではなく、下宿を営んでいた竹原伊都子さんも語り部活動を行っています。竹原さんが語り部を始めるきっかけも学生だったそう。もともと「阿蘇の灯」の学生たちが語り部の依頼を受けた日に、みんな授業があって断ることがありました。竹原さんは、そのことを聞いて、「誰も都合がつかない時は、おばちゃんが代わりに語り部をするから」と申し出て、語り部をはじめたそうです。
地震から5年経ち、黒川地区には語り継ぎの拠点となる場所も新たにできました。東海大学の阿蘇キャンパスが震災遺構として残されることになり、昨年8月に熊本地震の「震災ミュージアム」の中核施設としてオープンしました。
 
西村)どんな場所なんでしょうか。
 
新川)「震災ミュージアム」は、熊本市、益城町、南阿蘇村、西原村などさまざまなところにある震災遺構をめぐる「記憶の回廊」という名前がつけられていて、阿蘇キャンパスは中核の施設になっています。この場所について竹原さんに聞きました。
 
音声・新川)東海大学の阿蘇キャンパスが「震災ミュージアム」の施設になっていると聞いたのですが。
 
音声・竹原さん)私もそこのガイドに行っています。東海大学は、校舎の真下を突き抜けるように断層が入り込んでしまったのですが、建物は残っているんです。これは世界的にも珍しいことなんだそう。東海大学が「震災遺構として残して、後世に伝えてほしい」と、熊本県にキャンパスを贈呈したそうです。県が安全に見学できるように補強して保存しました。
 
音声・新川)断層そのものも見ることができるんですよね。
 
音声・竹原さん)見ることができます。断層もきっちり保存してあります。これ以上崩れないように薬剤をかけて、雨水が溜まらないように、屋根を付け、野生動物が入ってこないようにフェンスで囲って、とても立派な見学場所ができています。春と秋は修学旅行生が多いです。

 
西村)行ってみたいですね。
 
新川)「震災ミュージアム」は昨年夏にオープンして、1万5000人が見学に訪れたそうです。今はコロナの影響もあって7割ぐらいが県内の人だそう。竹原さん最初は学生と一緒に一個人として語り部を行ってきましたが、地震のことを正確に伝えるために、村の講習会を1年間受けて、村の防災教育ガイドにも認定されました。語り部として話すときは、特に命の大切さについて時間を割いて伝えているそうです。阿蘇キャンパスでは、現在、村の住民を中心に約35人がガイドとして活動しています。新しい施設のオープンや学生との交流が続いているなど、明るい話題も多いのですが、竹原さんに熊本地震から5年が経つ今、感じていることを聞きました。
 
音声・竹原さん)今一番不安なのは、この地区に若い人がいないこと。60~90代高齢者ばかりなんです。何かあったときに、私たちだけで動けるのかと不安です。今度、ITの専門学校ができるので、黒川のアパートを住まいに使う予定。道路が広くなって、橋もできて環境が良くなったから、若い人がここに住んでくれたら活気が出ると思います。やっぱり若い人の力と存在は私たちにとっても大きいもの。賑やかになってほしいですね。
 
新川)来年春に南阿蘇村に ITの専門学校の開校が予定されていて、黒川地区に残ったアパートが、学生たちの住まいとして活用されることが予定されています。竹原さんは若い人に来てもらえることは喜んでいましたが、そのために下宿を補修したり、ご自身の住む場所を別に確保したり、専門学校は遠いので徒歩で通うのが難しいなど問題は山積しているということでした。学生村だった黒川地区は、地震から5年経って、ハード面の復興は進みつつあると感じましたが、また新たな復興の転換期に来ているというふうに感じました。
 
西村)東北と同じく、やはり若い世代に来てほしい、活気が欲しいということで、心の復興も課題にあるのですね。新川和賀子ディレクターのリポートでした。