オンライン:汐笑プロジェクト 木村 紀夫さん
西村)今月は、発生からまもなく11年を迎える東日本大震災について、シリーズでお伝えしています。
きょうのテーマは、「行方不明者の捜索」です。現在も2500人以上が行方不明で、年月の経過とともに大規模な捜索活動も少なくなってきました。そんな中、福島県・大熊町で行方不明だった娘さんの遺骨を約6年かけて探し当てた木村紀夫さんに、11年目を迎える今の想いを伺います。木村さん、よろしくお願いいたします。
木村)よろしくお願いいたします。
西村)大熊町は福島第1原発が立ち並んでいる場所です。木村さんは大熊町で生まれ育ったそうですね。
木村)はい、そうです。
西村)地震発生当時の様子についてお聞きします。木村さんは、東日本大震災発生当時はどこにいたのでしょうか。
木村)南隣にある富岡町の職場の養豚場にいました。豚を運び終わってトラックの荷台で洗っていたのですが、揺れがひどくてトラックの荷台から降りられませんでした。
西村)当時は電話も繋がらなかったそうですが、何か情報は入ってきましたか。
木村)すぐに停電したので電話もつながらず、テレビも見ることができませんでした。片付けしていたきに事務所にいた上司が来て「3mの津波が来る」と知らせてくれました。自宅は海抜5~6mの場所にあるので、安心して仕事を続けました。自宅が流されることはないだろうと思い込んでいたのです。
西村)家族はどのような状況だったのですか。
木村)妻は自宅から6~7km離れた山の方にある小学校の給食室で働いていて、被災しました。次女は、学校が終わって隣接している児童館にいました。おじいちゃん(木村さんの父親)は、4年生の長女を毎日迎えに行っていたのですが、その途中で地震に遭ったようです。わたしは仕事が一段落したので、17時過ぎに自宅に向かいました。自宅は跡形もなく津波で流されて瓦礫だらけ。それを見ても家族は大丈夫だろうと思っていました。ただ津波のすごさに驚いていていました。その後、避難所で母親と長女に会えたのですが「3人が見当たらない」と母親が。
西村)お父さまと奥さま、次女の汐凪さんですね。
木村)はい。それでもまだ津波に流されているとは考えてもみなくて。ほかの避難所や病院に3人を探しに行ったのですが、残念ながら見当たりませんでした。
西村)大熊町は、放射能の影響で避難を余儀なくされた地域でもありますよね。
木村)その晩、自宅に戻って探し歩いたのですが全然見つからなかった。次の朝も探していると、7時くらいに区長が来て、「避難指示が出たから避難しなさい」と。まず犠牲にならなかった長女を安全な場所に避難させなければと思い、3人には申し訳ないのですが避難をしました。
西村)娘さんは、当時何歳だったのですか。
木村)長女は10歳です。
西村)小学校4年生の長女とお母さまと3人で避難をしたのですね。
木村)助かった飼い犬も一緒に妻の実家の岡山に避難しました。岡山に到着したのが16日の早朝。その日の昼には、わたしは福島に戻るために出発しました。福島に到着したのが18日。それ以降、捜索をしようとしたのですが、放射能の影響で大熊に入りづらい状況になってしまって。地震発生から1週間経っていたので、生きているとすれば福島県のほかの避難所や病院、自治体役場にいると思って、チラシを貼って歩きまわりました。3月はそんな捜索をしました。
西村)その後、春には何か進展はあったのでしょうか。
木村)残念ながら情報は得られなかったのですが、4月29日にたまたま周辺を飛んでいたヘリコプターが、父親が自宅の前の田んぼで倒れているところを発見。妻は、4月10日に自宅から約40km南のいわき沖の海上で発見されました。それが妻だということがDNA鑑定でわかったのが6月1日です。
西村)それを知ったとき、娘さんはどんな様子でしたか。
木村)その知らせの電話を警察から受けたとき、長女は横にいたのですが号泣していました。泣いているのに声が出ない。口だけ大きく開けて涙を流して。どうにもならない感情をおさえられない様子でした。
西村)その横で木村さんはどんな想いでしたか。
木村)岡山からはるばる福島にきた妻を守ってやることができなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
西村)次女の汐凪ちゃんの遺体は、このときまだ見つかっていなかったのですよね。
木村)汐凪は残念ながら見つかりませんでした。自衛隊が5月下旬から2週間ほど捜索に入ったのですが、発見には至りませんでした。
西村)木村さんはその後、どのように行動されたのですか。
木村)一時帰宅の機会を利用して、11月から独自に捜索を開始しました。
西村)そのときの滞在時間はどれぐらいだったのですか
木村)2011年6月から一時帰宅の機会をもらえるようになりました。4ヶ月に1日、1回の滞在時間は2時間です。
西村)どのように汐凪さんを捜索したのですか。
木村)エリアが広いのでどこを探して良いのかもわからない。時間はたった2時間しかない。そんな状況での捜索は、やっていないのと等しい状況でした。でも探し出すよりもやり続けなければならないという、そんな気持ちだったと思います。
西村)どんな方法で捜索したのですか。
木村)防護服を着てマスクをして、スコップなどを使って、海岸の瓦礫を掘り起こしました。あとは波消しブロックの間をのぞいて歩いて。
西村)その後、汐凪ちゃんはどんなきっかけでいつ頃見つかったのでしょうか。
木村)2013年9月からはボランティアも捜索してくれたのですが、残念ながら結果には結びつかず。私の自宅を含む地区に中間貯蔵施設(福島県内で除染された土を2045年まで保管しておく場所)が建設されることになったんです。津波の浸水地域は一通り捜索をしてから建設を始めるということで、環境省の主導による捜索が始まったのが2016年の11月。これをきっかけに重機を使う許可がでました。それまでずっと手作業で捜索をしていたのですが、人の手で動かすことができないがれきが大量にあったんです。手作業では一生かかっても、ボランティアが何人いても終わらないような状況でしたが、重機を使って捜索したおかげで、捜索開始から1ヶ月、12月9日に初めて汐凪の遺骨が見つかったんです。
西村)遺骨はどんな状態で見つかったのでしょうか。
木村)当時汐凪が身に着けていたと思われるマフラーの中から、首の骨ひとかけらが見つかりました。
西村)マフラーにくるまれた汐凪さんの骨が見つかったとき、どんな気持ちでしたか。
木村)ホっとした気持ちはもちろんあります。でも、発見されたことによって津波で亡くなったのか、そこに取り残してしまったために亡くなったのかがわからなくなったんです。見つからなければ海に流された、と気持ちの整理もつくのですが、見つかったことによって、自分が捜索を断念してしまったことで命が奪われた可能性もゼロではないと。あのとき捜索をしていれば、3月12日に見つかって生きていた可能性もあったのではと。
西村)地震直後、お父さま、奥さま、次女の汐凪さんは生きていたかもしれないと。
木村)妻は海上で見つかったので生きていた可能性は少ないと思うのですが、父と汐凪は生きていた可能性があるかもしれません。3月12日、避難する直前まで地元の消防団が捜索を続けてくれていたのですが、人の声らしきものを聞いたという人が4人いたんです。消防団は住民の避難誘導もしなくてはならないし、パニックで警察との連携もきちんととれていない状況だったので、それ以上は捜査を続けられませんでした。その声は、父親だった可能性が高いと思います。汐凪も見つかった場所から考えるとその周辺にいた可能性が高いので、生きていたのかもしれません。
西村)汐凪さんに伝えたいことはありますか。
木村)一番申し訳ないと思うのは、津波の知識をきちんと教えてあげてなかったことです。
西村)木村さんは、地震の後は津波が来るということは知っていたのですか。
木村)地震の後に津波が来ることは知っていました。ただ、津波にあった経験はなく、あれだけ大きな地震の経験もなかった。みんなそうだったと思います。西暦800年代に同じレベルの地震があって、津波で多くの人が亡くなったという話が残っていたのですが、震災前は全く知らなかった。それを知っていたら、もう少し津波を意識して家族と共有していたと思うんです。それができてなかったことを一番後悔しています。
西村)地震や津波について、家族みんなで話しておくことはやはり大切なのですね。
木村)それぞれの地域で過去にどのような災害があったのかを知ることが大事です。東日本大震災では多くの遺族の分だけ後悔があると思います。でもそれが将来、災害時に人の命を救う教訓になります。
西村)私もしっかり伝えていきたいと改めて思いました。去年で東日本大震災の発生から10年ということで、石巻市の小学校では捜索の打ち切りがあるところも。まもなく11年を迎える今、行方不明者の捜索について、木村さんから伝えたいことはありますか。
木村)復興によって探す場所がどんどんなくなっている現状が福島にはあります。防潮堤を作ればそこでの捜索はできなくなってしまう。防潮堤を作るために波消しブロックの上に新しいものをのせると、波消しブロックの間の捜索ができなくなる。遺体が打ちあがっている可能性がある場所の捜索ができなくなるんです。行政は、津波で壊れたものをなおしていくことが復興だと思っています。きちんと探してほしいけど、遠慮してしまう部分もあります。
西村)なぜ遠慮してしまうのでしょうか。
木村)復興がなかなか進まない中、多くの人たちが復興を望んでいると思います。捜索は復興の妨げにもなる。遺族としてはずっとそのままにしておいて捜索を続けていきたいのですが、難しい状況になってきています。
西村)まだ多くの行方不明者がいますが、探す場所や大がかりな捜索は少なくなっていく現実があるのですね。東日本大震災の発生からまもなく11年を迎えます。この11年を迎えるにあたって、今どのような気持ちですか。
木村)過去の災害を知らないことで、犠牲者を出してしまった側面がある。1000年後もその先も命を守るために、東日本大震災のことを伝えていきたいと思っています。福島県は原子力の災害もありました。世の中は、そのような便利なものの上に豊かな生活があると思います。このままでいいのかということを模索しつつ、1000年先の命と豊かな人の営みが続いていくように考えていきたいです。
西村)1000年先の命を救うために今、木村さんは「大熊未来塾」を通して伝承活動をしているのですね。
木村)この活動を継続して震災のことを次に繋げていきたいです。
西村)木村さんは、今はいわき市で避難生活しているということですが、大熊町にはどれくらいの頻度で行っているのですか。
木村)ここ3年は、年間150日くらい自宅周辺に行っています。
西村)今の大熊町は、どのような景色になっているのでしょうか。
木村)自宅は、中間貯蔵施設のエリアの中なので現在は汚染されたゴミが入ったフレコンバッグが大量に詰まれています。
西村)人が住めるところではないですよね。
木村)線量的にもまだ厳しい場所。でも私は生活できると思っています。帰ることができるのであれば帰りたいです。周辺の9割の地権者は、国に土地を売ってしまいましたが、自分ひとりあの場所に残っています。原発から3.5kmの場所でもあるので、何とか守っていきたい。あの場所から発信をして、防災について伝えていきたいと思っています。
西村)故郷の今、そして防災・減災について大熊町から伝えていく。その思いで、この「大熊未来塾」を立ち上げ、オンライン配信をしているのですね。3月6日13時からもオンライン配信がありますね。
木村)今年の1月2日、汐凪の大腿骨と思われる骨が見つかりました。沖縄の戦没者遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さんが捜索に加わってくれて、発見につながったのです。福島の現状とともに、戦後76年経つ沖縄で戦没者の遺骨が残っている現状を具志堅さんと一緒にお話したいと思っています。
西村)私も話を聞いてみたいと思います。きょうは、木村紀夫さんにお話を伺いました。ありがとうございました。