電話:元小高中学校 音楽教諭、合唱曲「群青」作曲者 小田美樹さん
西村)東日本大震災と同時に発生した、福島第一原発事故では、近隣に住む住民たちは、強制的な避難を余儀なくされ、住民は散り散りとなりました。当時、地元の学校に通っていた子どもたちも、同級生の友人と離れざるをえない状況でした。
きょうは、原発事故の強制避難の生活の中で、中学生たちの言葉から生まれた、ある合唱曲について取り上げます。
♪群青/福島県南相馬市立小高中学校 特設合唱団
歌声が聞こえてきました...
この合唱曲のタイトルは、「群青」です。歌っているのは、福島県南相馬市立小高(おだか)中学校の生徒のみなさんです。小高中学校がある南相馬市の小高区は、南相馬市の中でも第一原発から一番近いところで、原発事故のあと、強制避難区域となって中学校の校舎も使えなくなり、生徒たちは家族と区域の外に避難しました。
お聴きいただいている合唱は、原発事故から2年となる2013年3月に生徒たちが歌ったものです。この合唱曲「群青」を作曲したのは、当時、小高中学校の音楽教諭だった小田美樹さん。きょうは、小田さんと電話をつないでお話をうかがいます。
小田)よろしくお願いいたします。
西村)小田さんは、東日本大震災発生当時は、南相馬市立小高中学校の音楽の先生だったということですが、今も福島県にいらっしゃるのですか。
小田)小高中学校には2016年の3月まで勤め、今は県内北部の相馬市の中学校に勤めています。
西村)小高中学校のみなさんは東日本大震災が発生して、原発事故が起こった後、どんな状況にあったのでしょうか。
小田)小高中学校の校区は、原発から20km圏内にあって、強制避難区域になりました。2011年4月からは市内のほかの学校の校舎を間借りして再開。生徒数はかなり減って、私の学年は100人以上いた生徒が7人になりました。残った生徒たちは仮設住宅や親せきの家などの避難先からバスで通っていました。
西村)南相馬市は地域がとても広いので、強制避難区域になった場所とならなかった場所があったんですよね。
生徒のみなさんには、多く友達との別れがあったのだなと思うと胸が締め付けられます。小田先生が作曲した合唱曲「群青」は、原発事故後の生徒たちの言葉から生まれたと聞きました。どのように生み出されたのでしょうか?
小田)震災当時の1年生が3年生になった2012年の4月に、わたしがその学年の担任になりました。この学年は、同級生2人を津波でなくしています。生き残った生徒たちは全国に避難して、北海道から長崎までバラバラに。ある日、誰がどこにいるのかを確かめながら、仲間の顔写真を大きな日本地図に貼り付けていると、生徒たちが口々に「遠いね」「どうやったら行けるの」など話し始めて、本当に離れてしまったということを実感して。そんな時、ある生徒が「でも、この地図の上の空はつながっているね」と言った言葉が心に響いたんです。その日以降、生徒たちのつぶやきを綴っていったものが「群青」の歌詞の核になっています。
西村)「群青」の歌詞の一部を紹介させていただきます。
「またね と手を振るけど 明日も会えるのかな」という歌詞。先生はその姿を見ていたのですね。
小田)小学校の校舎を間借りしていたので、小学生に迷惑をかけないように、遅くまで残っている生徒に「早く帰りなさい」と注意したんです。すると生徒から「明日も会えるかわからないのに」という言葉が返ってきたことが本当にショックで。自分が中学生の時にこんなことを考えたことはなかったなと思いました。
西村)私も小田先生と同じで、中学校のときそんなふうに考えたことはなかったです。当たり前のことが当たり前じゃないんですね。他に「群青」の歌詞を紡いだきっかけになったエピソードはありますか。
小田)震災前、青い空が赤く染まっていくまで話し込んでいる生徒たちを見たこと。みんなでバーベキューセットを持って、自転車をこいで海に行ったこと。その中に亡くなってしまった子もいました。そんな思い出や情景が歌詞になっています。空の青、夕日の赤、海の群青などの色が記憶に残っているので、意識したわけではなかったのですが、歌詞を見ると色彩感があって、記憶を呼び起こすものに仕上がったと思いました。
西村)「あの日見た夕陽 あの日見た花火 いつでも君がいたね」
「自転車をこいで 君といった海 鮮やかな記憶が 目を閉じれば、群青に染まる」
カラフルな色彩が脳裏に焼き付いているんですね。
生徒のみなさんたちが何気なく口にしていた言葉や思い出の数々を、なぜ合唱曲にしようと思ったのでしょうか。
小田)生徒たちが集まらない中でありますが、学校の式典や行事は通常通りに行われるので、卒業式のために卒業生は合唱を披露しなければならなくて。そのときに何を歌わせようかと考えていたんですが、どうしても子どもたちの状況や気持ちにぴったり沿う曲が見つからなかったんです。ほかにこれだけの災害を経験している中学生がいないのだから当たり前だということに、震災から2年経ってやっと気付いて。それなら彼らの言葉で作るのがベストだという考えに至りました。
西村)生徒のみなさんの気持ちに寄り添った歌を作ろうと思ったのですね。卒業式だけではなく、初めて大勢の人の前で披露したのが関西だったんですね。
小田)2013年3月(卒業式の2日前)に、京都府・長岡京市で開催された「東日本大震災復興支援コンサート」に呼んでいただいて合唱しました。本来発表する予定ではなかったのですが、私が曲を作るのが遅かったので、ステージの上で歌う機会を使って、楽譜を見ずに歌えるように覚えてもらおうと。主催者の方に、2日後に卒業式で歌おうと思っている歌があるので、ここで歌わせていただきたいとお願いしたんです。
西村)私はゴスペルグループで歌っているのですが、楽譜を見ながら歌うよりも覚えて歌った方が自分の心に歌詞が入っていきますよね。でも期間が短ければかなり大変ですよね。
小田)卒業式に楽譜を持って歌うわけにはいかないので、どうしても覚えて欲しかったんです。子どもたちも歌詞を覚えることによって、気持ちが入ったと思います。
西村)震災当時100人以上いた生徒が7人になってしまいましたが、2年間で何人か戻ってきたのですか。
小田)最終的には45人で卒業しました。
西村)長岡京市の「東日本大震災興支援コンサート」には何人で参加されたんですか。
小田)35~6人だったと思います。
西村)震災からまだ2年しかたっていないときに避難生活をしながら中学校生活を送っていたみなさんが、京都に来てコンサートに参加するのは、大変なことではなかったですか。
小田)原発の避難区域にいる子どもは、就職や結婚などが難しくなるのではと言われていたときでした。当時、修学旅行で関東方面に行ったときに、地元の方から、福島の生徒だとわかると「あんなところに住んでいるのか」と言われたことがあって、子どもたちがだいぶ傷ついてきたということがあったので。子どもたちを別の地域に連れていっていいものか葛藤しました。
でも子どもたちと相談して参加を決めて。生徒たちも目標を持ちにくい生活の中で、目標を持って頑張る機会をいただけたことがありがたかったです。
西村)「群青」を初めて歌ったときの生徒のみなさんの様子はいかがでしたか。
小田)私たちにとっては練習のようなつもりだったのですが、指揮をしている私のうしろからすすり泣く声が聞こえてきて。その声が大きくなっていくにつれて、子どもたちも涙ぐみながら歌っていました。自分たちは忘れられていない、応援してくれる人たちがたくさんいるんだ、とステージから会場を見て感じたそうです。
震災のあとは、思い通りにいかず悔しくて流す涙は何度も見てきたのですが、自分たちが受け入れられて安心したという涙は初めて見ました。
西村)勇気の涙に変わったんですね。南相馬市立小高中学校の平成24年度卒業生のみなさんが歌った「群青」は、その後 CD や合唱用の楽譜も販売されて、今では震災を語り継ぐ曲として全国で歌われています。
小田)卒業式の歌なので、地震とか津波とか、人が亡くなったという言葉を歌わせるのは、憚られるところがあって。あえて直接的な言葉は使わずに歌詞を作りました。そこにたくさんの人が共感してくれたのだと思います。
西村)今、新型コロナウイルスで思い通りにいかない生活を送る方も多いので、たくさんの人々の心に響いていくと思います。
福島県の中学校音楽教諭 小田美樹さん、ありがとうございました。