取材報告:西村愛キャスター
西村)能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市に取材に行ってきました。
神戸のNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り(HANDS)」が、輪島市・町野町(まちのまち)曽々木地区のキリコ祭りを支援するということで、わたしも参加してきました。町野町は約2000人が住む街でしたが、約8割の建物が元日の地震で倒壊し、多くの人が別の地域へ避難しています。
わたしが行ったのは町野町の北部、能登半島の先端にある曽々木地区。美しい海に面していて、とても静かなところです。40年ほど前は、家や民宿が立ち並び、海水浴に訪れる観光客で賑わっていたそうです。この曽々木地区は、地震で道路やトンネルが崩れて一時孤立していた地域です。先月の時点でも、倒壊した家が多く残っていて、壊れた家具を運び出す作業が行われていました。海沿いの道は工事をしているので、輪島市の中心部からは山の中を通って1時間近くかかります。非常に行きにくい場所なので、ボランティアの数もかなり少ないそうです。
8月17日、神戸からボランティア50人がやってきました。ほとんどは高校生や大学生です。この地区の自治会長・刀祢聡さんが出迎えました。
音声・刀祢さん)こんにちは。ようこそおいでくださいました。宿泊場所はこんなところしかありません、申し訳ないです。汗をかいて寝るかもしれませんけど我慢してください...。キリコを担ぎたい人いますか?ボランティアのみなさんのためにキリコを1本用意しています。どんどん担いでくださいね。「俺は力あるぞ!」という人は大きなキリコもかついでください。歓迎しています。
西村)自治会長の刀祢さんが「宿泊場所はこんなところしかありません」と言っていたのは、7月まで避難所になっていた場所で、冷房がないからです。キリコとは、切子灯籠のこと。白くて大きな長方形の灯篭の中にろうそくの明かりが灯されます。その下には、黒い漆塗りの担ぎ棒が前後に組み付けてあり、大勢の人で担ぎます。太鼓や笛の演奏に合わせて、行列が街の中を巡行していきます。能登のみなさんはお祭りが大好き。毎年夏から秋にかけて、能登地方の約200ヶ所の神社で祭りが行われ、キリコの数は約800台もあります。今年は元日の地震の被害が大きく、祭りを諦めたところがほとんどだそうです。この地域では、なぜお祭りを開催しようと思ったのか、自治会長の刀祢さんに話を聞きました。
音声・刀祢さん)地震発生当時は、祭りなんかできるわけがないと。でも関西方面から来てくれた大学生のボランティアの中に、地域の祭りに参加したいという子どもたちがいたんです。この子たちが来てくれたら、祭りができる!と思い、地域の人たちに話をしました。「ボランティアが来てくれるから、最小限の規模で祭りができる」と。反対する人がたくさんいましたが何とか説得してきょうを迎えました。
西村)今回参加したボランティアは、毎年1月17日に追悼式を行っている神戸のNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り(HANDS)」が呼びかけたメンバーです。神戸市中央区の東遊園地にある「希望の灯り」の前から出発して、バスに乗ってやってきました。神戸から来たボランティアの人たちはどんな思いで参加したのでしょうか。参加者に理由を聞きました。
音声・高校一年生)高校1年生、15歳です。学校の先生の紹介でこの企画を知って、来ました。能登の現状はニュースでしか知ることができないので、実際に現状を見て、市民の人たちと関わりを持つことで、学べることがあると思いました。
音声・関西大学4回生)22歳です。3月のはじめに能登のボランティアに初めて行きました。今回で5回目になります。
音声・西村)最初に来たとき、周りの様子はどうでしたか。
音声・関西大学4回生)2ヶ月に1回ぐらい来ていますが、3月と5月は復旧作業が見られませんでした。被害状況ひどく、人が全くいなくて、ボランティアも少なくて。
音声・西村)人がいないというのは、みなさんが避難しているからですか。
音声・関西大学4回生)2次避難しています。家が壊れていて、帰って来られない人が多くて。7月頭に来たときは、全壊した家屋を撤去しているトレーラーをみました。少しずつ復旧作業が進んでいると、ここ半年で感じています。
西村)阪神・淡路大震災の被災体験を聞いて育ってきた若い人が、「能登に行って現状を見たい」「何かお手伝いがしたい」と。震災を語り継ぐことが、ほかの被災地にもつながっていくんだな、とうれしくなりました。
お祭りは夜に行われます。キリコは、町のシンボル「窓岩」という巨大な岩がある曽々木海岸を出発し、神社に向かいます。出発前に、青年団団長、国田翔さん(31)がボランティアを含む担ぎ手に対して声をかけました。
音声・国田さん)団長の国田です。きょうは担ぎに来ていただいてありがとうございます!おそらく最後のキリコ出すことになるんで...
音声・担ぎ手たち)そんなこと言うな!来年もやろう!来年もやるぞ!
音声・国田さん)今年を盛り上げていきたい。肩合わせしたいので、身長順に並んでください。一番前、ここでお願いします!
西村)青年団団長の国田さんは始まる前から、「これで最後」と言っていてのでびっくりしたんですが、なぜ"最後"なのかは、お祭りの後に聞くことにしました。肩合わせというのは、身長の低い人から順に並ぶこと。わたしも担ぎ手に立候補して、キリコの横に行って、身長順に並びました。夜8時、いよいよ出発の時がやってきました。
音声・担ぎ手たち)前いいか!後ろいいか!せーの、ヨイショ!
♪笛・太鼓の音
西村)3台の大きなキリコが動き出しました。
わたしたちボランティアが担いだキリコは"子どもキリコ"と呼ばれるものです。小学校高学年~中学生が担ぐ一番小さいキリコですがそれでも高さはおよそ6m。ビルの2階ぐらいあって、大人30人ほどで担ぐ重さでした。キリコがとても重いので、担ぎ棒に座布団を巻き付けるんです。クッションがないと肩がかなり痛く、担ぐことができません。スタート地点から神社までは徒歩5分ほどの距離なのですが、キリコが重くて15分ぐらいに感じました。
倒壊した家が立ち並ぶ中、「ワッショイ!ワッショイ!」という掛け声とともに、大きなキリコが町を照らし、進んでいきます。1階が倒壊し、屋根が落ちてきている家がたくさんありました。
この祭りで各地に避難した人が帰ってきて再会し、お互いの無事を喜んでいる姿を見かけました。一番印象に残っているのは、太鼓を叩いている若い男性のもとに「久しぶりやな!」と言って声をかけた40代後半ぐらいの人。
「わぁ!元気やったんですね!」と抱き合って、お互い太鼓をたたき始めたんです。無事を喜び合って太鼓で会話しているかのようなシーン。その姿を見て思わず涙が出ました。
このキリコ祭りのようすを多くの人がさまざまな思いを抱えて見つめていました。祭りをじっと見つめるお年寄りたちの表情が忘れられません。その中の1人、正村智恵子さん(85)に話を聞きました。
音声・西村)元日の地震のあと、どこかに避難したのですか。
音声・正村さん)実習館に避難しました。息子が名古屋にいるので、2月いっぱい名古屋にいました。それから娘がいる徳島へ5ヶ月いて、8月6日に帰ってきました。
音声・西村)これからはどこにお住まいになるのですか。
音声・正村さん)仮設にいます。
音声・西村)帰って来ようと思ったのはなぜですか。
音声・正村さん)やっぱり生まれたところがいいです。落ち着きます。朝、運動のために歩くと挨拶はしますが、言葉がない。ここなら顔を知っているから落ち着きます。昔の通りになってほしいけれど、山はひどく崩れている。それ見ると、どうなるんやろうと思います。
西村)ほかにも、「お子さんのもとへ避難したけど帰ってきた」という声をたくさん聞きました。2次避難をすることで、安心して暮らすことができて良いと思っていたのですが、違うのですね。家族でも気を遣う。「不便でも友達がいて、美しい自然がある輪島が良い」と戻ってきたそうです。
祭りは夜11時近くまで続きます。
みなさんが楽しみにしていた花火大会がスタート。400発が上がりました。ついにクライマックスのシーンです。花火をバックに一番大きなキリコを動かします。高さおよそ13m、ビルの3階ぐらいの大きなキリコです。60人ほど集まらないと動かすことができない大きさ。威勢のいい掛け声とともにキリコが担がれ、大きな拍手が起こりました。花火をバックに大きなキリコが舞う姿は圧巻です。涙を流しながらキリコを見つめる人もいました。今回50人のボランティアを率いてきたNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り(HANDS)」の代表・藤本真一さんに、なぜこのような企画をしたのか聞きました。
音声・藤本さん)1月末から定期的に来ていますが、本当に街に変化がない。人が減っているようす見てきて寂しいと思いました。トイレは少し復旧しましたが、風呂もまともに入れないので、住み続けることができない。みなさん町をどんどん離れています。住めるようになれば良いのですが、何かきっかけを作りたいと思いました。「みんなで花火を見たい」という、地元の人たちの気持ちに応えたかった。「こんなことしてる場合じゃない」と思う人もたくさんいると思うのですが、少し立ち止まって振り返るきっかけは、絶対要ると思ったので、ささやかながらご支援させていただきました。
西村)今回のキリコ祭りの中心となったのは、地元の青年団長の国田さんです。国田さんは曽々木の出身ですが、今は輪島市の市街地に住んでいます。両親は曽々木に住んでいましたが、家は地震で大きな被害を受けました。
この祭りが始まる前に、「今回がキリコ祭りの最後になる」と言っていたのが気になって、その理由を聞きました。
音声・国田さん)少子高齢化で、自分たちの代以降の子どもたちが極端に少ないんです。
音声・西村)地震の前から少なかったのですか?
音声・国田さん)はい。上の世代の人に声をかけて、担いでもらっているのが現状です。
音声・西村)青年団は何人いるんですか?
音声・国田さん)現役は4人しかいません。「今年が最後になるかも」と集めたところもあります。今はこちらに住んでいなくて、親も自分の家に避難しています。祭りの期間に泊まれるように、仮に実家を直しただけで、ずっと住み続けられるような家ではない。来年以降はどうなるかは、まだわからないけど、この祭りをすることによって、何か地域の復興の力になればと思って頑張りました。
西村)祭りは感動的でしたが、地元の状況はとても厳しいと感じました。地震の前から若い人がいないそう。曽々木に帰ってきたお年寄りたちは、子ども世代が地元に帰ってこないとわかっているので、「自宅の再建を諦めた」「仮設住宅で最後まで暮らす」という声も多かったです。今年は奇跡的に祭りができたけれど、来年以降も続けられるかはわからないというのが現実なんですね。
一夜明けてボランティアが街を去るとき、地元の人たちが見送りに来てくれました。出発というときに、自治会長の刀祢さんがバスに乗り込んで、涙ながらに参加者に思いを伝えました。
音声・刀祢さん)お祭りなんか絶対できないと思っていたんですが、学生のボランティアさんの「担ぎたい」という声があったので、祭りをやろうと決めました。なかなか住民の理解を得られなかったのですが、何とか説得して。本当にみなさんのおかげです。ありがとうございました。能登の復興はまだまだです。帰られたら、みなさんこの地域の状況を伝えてください。わたしたちも努力しますが、まだまだみなさんの力を借りないと復興はできません。よろしくお願いします。
西村)目の前のことで精一杯で、先のことなんて考えられない。そんな中で行われた今年のキリコ祭り。被災して祭りができなかった地域の人も、今回の祭りを見に来て、「やっぱり祭りはいいな」とよろこんでいたそうです。刀祢さんは、「阪神・淡路大震災を経験した神戸から能登へ来てくれたことが大きなエールになった」と話します。
ネットワーク1・17はこれからも変わらず、能登のみなさんと連絡を取ったり、現地に足を運んで番組で現状を伝えていきます。