第1421回「元日の震度7~令和6年能登半島地震」
電話:映画監督 有馬尚史さん

西村)1日1日午後4時10分ごろ、石川県志賀町で震度7を記録する地震があり、北海道から九州にかけて広い範囲で揺れを観測しました。地震の規模はマグニチュード7.6と推定されています。気象庁は石川県能登地方に一時、大津波警報を発表し、輪島港では1.2m以上の津波を観測。兵庫県北部には津波警報、京都府には津波注意報が発表されました。兵庫県豊岡市と京都府舞鶴市でそれぞれ40cmの津波が観測され、震源から遠く離れた近畿地方でも津波が観測されました。能登半島の北部では、2007年に最大震度6強を観測する地震があり、ここ数年も大きな地震が続いていました。この一連の地震は、地下に存在する水の影響で、地下の断層が滑りやすくなっていたことが原因とみられています。現地の今の状況はどうなっているのでしょうか。
きょうは、現地で避難生活を続けている人に話を聞きます(1月5日収録)。能登半島でドキュメンタリー映画を撮影していて、今回の地震に遭い、現在、避難所で生活している映画監督の有馬尚史さんです。
  
有馬)よろしくお願いいたします。
 
西村)有馬さんは今どこにいますか。
 
有馬)避難所となっている石川県珠洲市蛸島町の蛸島小学校にいます。
 
西村)地震が起こった当日、1月1日のようすをおしえてください。
 
有馬)去年から何度か珠洲市に入り取材をしていました。今回は年末年始のようすを撮りに来ていました。復興の兆しが見えてきていて、元旦は神社やお寺も年越しムードで。忘年会や年始の食事会に誘われて参加したんです。「これから復興していくだろう」という気持ちで撮影していたところでした。
 
西村)そして、1月1日の午後4時10分頃に大きな地震がありました。そのとき有馬さんはどこにいたのですか。
 
有馬)わたしは撮影に協力をしてもらっている宿舎にいて、年越しから朝まで撮影続きだったため仮眠していました。最初に震度4~5の地震があって、目が覚めたんです。すぐに家を出る準備と撮影の準備をしていたところに震度7の地震が来ました。家の中のものがめちゃくちゃに倒れて、そこからどんどん揺れが強まり、家中のものが崩れて危険なのですぐに家を出ました。
 
西村)息つく間もない状況で、大きな揺れが襲ってきたのですね。
 
有馬)最初の揺れは「ちょっと強めかな」という程度だったのですが、震度7の揺れは想像を越えていました。身を整える余裕は全くなかったです。裸足で飛び出しました。
 
西村)そのとき、有馬さんはどんな体勢で揺れに耐えていたのですか。
  
有馬)出るときもフラフラでした。何とか出ることができたあとは床に這いつくばって揺れに耐えていました。窓ガラスが割れて道路に散乱していました。
 
西村)怪我はなかったですか。
 
有馬)幸い怪我はなかったです。
 
西村)近所の家はどんなようすでしたか。
 
有馬)向かいの家の人が出てくるところだったので、すぐに家のドアを開ける手伝いをしました。その人たちも恐怖に怯えていて、揺れが収まるまではパニック状態。小学校の校庭の小屋も傾いていました。
 
西村)それぐらい大きな揺れだったのですね。
 
有馬)去年の地震を経験している人たちは、「去年の比ではない」と言っていました。去年の地震でも崩れた家が何軒かあり、生き埋めになった人もいたのですが、今回の地震は、そのとき一番被害の大きかった家が街全体に広がっているような状況でした。
 
西村)去年の地震は最大震度6強を観測しましたが、今回の珠洲市の震度はいくつでしたか。
 
有馬)蛸島町の震度は7と発表されていました。6強と7の差はかなり大きかったようです。「7以上だ」という人もいて。この世の終わりのような揺れを感じました。最初の揺れが収まってすぐに震度7の揺れがきて、余震がすぐにきました。近所の人が「津波が来るぞ!」と車で逃げてきたので、わたしも車で逃げる段取りをして高台まで行ったのですが、途中の道がふさがっていて道路は地割れだらけ。車を擦りながら逃げました。
  
西村)車で逃げている人は多かったですか。
  
有馬)輪島は海から起伏のない街で、高台は山側に1か所のみ。徒歩では間に合わないので車で逃げる人が多かったです。
 
西村)高台にはどんな人が集まっていたのですか。
 
有馬)蛸島町は高齢者が多いのですが、高台には、子どもから大人、高齢者までたくさんの人が避難してきていました。
  
西村)地震の前の蛸島町は、どんな街だったのですか。
 
有馬)海がきれいな港町です。黒瓦が特徴的な木造の家が並ぶ古風で素敵な街でした。
 
西村)有馬さんが滞在している避難所の蛸島小学校はどんなようすですか。
 
有馬)5日午前現在、4日夕方からようやく電源車が来て、蛸島小学校のみ電気が通りました。上下水道はまだ通っていない状況で、給水車も来ていないので、持ち寄った水で何とかしのいでいる状態です。有志の人が届けてくれるものや県の物資も少し入ってきました。
 
西村)物資にはどんなものがありましたか。
 
有馬)食料や水、ウェットシートやオムツなどの衛生用品、衣服や毛布などです。
 
西村)小学校の避難所には、水や缶詰などの食料、毛布、災害用トイレなどは備蓄されていなかったのですか。
 
有馬)全くありませんでした。地震の揺れが落ち着いてから瓦礫からものを取り出し、持ち寄ったもので炊き出しをする人もいました。3日目ぐらいまでは、1日におにぎり2個ぐらいでしのいで、ほかに食べるものがある人は食べていました。トイレは全く使えないので、汚物を袋に貯めています。それは現在も続いています。
 
西村)避難所には何人ぐらい集まっているのですか。
 
有馬)約700人が小学校の体育館や各教室で過ごしています。車中泊を含めると、実際はもっといると思います。
  
西村)運動場で車中泊をしているのですか。
 
有馬)体育館や教室に入り切らない人が運動場で車中泊をしています。運動場は車で埋まっているので、別のところで車中泊している人もいます。暖房が効くので車中泊の方が良いという人も多いです。わたしは撮影機材の充電が必要なので車中泊をしています。
 
西村)車中泊をしていて不自由に感じることはありますか。
 
有馬)ガソリンが不足しています。潤沢に使うことができないので、寒くなってきたら起きてエンジンをつけて...を繰り返しています。体勢も苦しく、夜は冷えるのでなかなか寝付けません。
 
西村)毛布の配布など、寒さ対策はされていないのですか。
 
有馬)物資が届き始めてからは毛布も配られましたが、最初は毛布がなかったので、車のエアコンでなんとかしのいでいました。
  
西村)避難所の体育館はどんなようすでしたか。
 
有馬)人がひしめきあっていて、隣と隣の隙間もない状態。昨日の夕方までは電気がきていなかったので、車の電源から引っ張ってきた1本のライトで薄暗く照らしていていました。
 
西村)電源車がやってきて、今は明かりがついているのでしょうか。
 
有馬)昨日の夜に電源車がきたので、学校全体が明るくなりました。
 
西村)被災者のみなさんの反応はどうでしたか。
 
有馬)「電気つきましたね!」と声をかけたら「電気ついてた?」という反応で、それどころではなさそうな雰囲気でした。今朝から電気がきて、電気のありがたみを感じています。
 
西村)余震が続く不安もある中、みなさんどんな暮らしをしているのでしょうか。
 
有馬)今は1日2回の炊き出しをする中で、衛生面等の問題をみんなで共有して解決しています。物資が届いたらそれを仕分けして。落ち着く暇がないです。
 
西村)役割分担をしてみなさんで動いているのですね。家に帰って片付けしている人もいますか。
 
有馬)日中は家に戻る人もいます。片付けというより、避難所生活に使えそうなものを取りにいっています。全壊している家がほとんどなので、片付けするというレベルではないです。
 
西村)潰れてしまった家の下から使えるものを探しているのですね。毛布やお菓子など...
 
有馬)台所に食べ物があるという人がいて、屋根の上を登って食料を取りに行く手伝いをしました。いろんなものが足りていない状況です。わたしにできることはこうやって発信していくことだと思って動いています。
 
西村)今足りないものは何ですか。
 
有馬)水が足りていません。食料は徐々に入ってきていますが、約700人いるので1ヶ月もたないと思います。ガソリンも不足しています。蛸島小学校には電源車がきましたが、もう1か所の避難所にはまだ電源車がきていません。電源確保のためにガソリンが必要です。歯ブラシ、アルコール除菌シート、マスクなど衛生面で必要なものも不足しています。衛生用品があると感染症を防ぐことができます。体調が悪い人の対応するのも被災者。みんなが被災者なのでいつかもたなくなると思います。
 
西村)支援団体はまだ入ってきていない状況ですか。
 
有馬)少しずつ入ってきていますが大人数の団体はまだ入ってきていません。珠洲市全体でたくさんの被害がありましたが、街にいるわたしたちは今何が起きているのかわかっていません。電波が悪く、電話がやっとつながる状況なので全く情報がつかめないんです。外部からの連絡もしづらいと思うのですが、何とかうまく情報を提供する手段があれば。親族がいる人は外部からの情報を伝えてあげてください。みなさん全く情報がない中、手探りで生きています。
 
西村)電話はつながるのですね。
 
有馬)はい。インターネットはつながりにくいです。
 
西村)親族や友達がいる人は、電話をしてあげると安心するかもしれないですね。
 
有馬)情報だけでも提供できれば何か変わるような気がします。
 
西村)きょうは、現地で避難生活を続けている映画監督の有馬尚史さんにお話を伺いました。