第1446回「能登半島地震半年 輪島の今」
オンライン:柚餅子総本家中浦屋 代表 中浦政克さん

西村)元日に発生した能登半島地震から明日で半年。地元の海産物や野菜が並ぶ観光名所「輪島朝市」は、能登半島地震に伴う大規模な火災で壊滅状態になりました。
きょうは、輪島市内に4店舗を構え、柚餅子をはじめ、伝統的な和菓子を作り続けてきた老舗の菓子店「中浦屋」の社長 中浦政克さんに今の輪島の状況について聞きます。
 
中浦)よろしくお願いいたします。
 
西村)「中浦屋」は、いつごろ創業したのですか。
 
中浦)はい。明治43年に創業し、今年の9月8日で114年目を迎えます。わたしで四代目です。
 
西村)ずっと輪島や全国のみなさんに愛されてきたのですね。代表的な商品は「丸柚餅子」だそうですね。どんな商品ですか。
 
中浦)「丸柚餅子」は柚子を丸ごと使った柚餅子です。柚子の中をくり抜いて、味付けした餅を詰めて半年間寝かせて作ります。全国のみなさんに出荷しています。
 
西村)手間暇をかけた商品なのですね。
 
中浦)手作りでしか作れない商品です。
 
西村)賞味期限はどれくらいですか。
 
中浦)そのままなら賞味期限は20日間ですが、餅が硬くなっても加熱すると約1~2年は食べられます。
 
西村)防災の備蓄にも役立ちそうなお菓子ですね。中浦さんは、地震が起こった1月1日午後4時10分はどこにいましたか。
 
中浦)自宅のリビングに家内と2人の子ども、母と一緒にいました。
 
西村)お正月ということもあって、4時ならのんびりしていたのではないですか。
 
中浦)まさに今からおせちをいただこうとテーブルに料理を広げているところでした。
 
西村)そんなときに大きな地震が起こったのですね。朝市通りが火事になった状況は見ていたのですか。
 
中浦)わたしたちは、発災15分後には高台の中学校に避難しました。スタッフも家族も全員無事でした。揺れよりも津波が怖かったので、高台に逃げました。山から町を見下ろすと、煙が上がっているのが見えて、店は大丈夫かという不安に駆られました。余震が落ち着いたところで山から降りて、火災現場を確認しに行きました。
 
西村)それは何時ぐらいでしたか。
 
中浦)18時過ぎであたりは暗くなっていました。非常に寒かったです。
 
西村)朝市通りの店の近くまで行ったときはどんなようすで、どんな気持ちになりましたか。
 
中浦)その時間帯は、川べりが燃えていて、まだ朝市通りや市街地全般は火災になっていませんでした。火災の被害に遭われた人は、大変だと思いますが、自社の物件は大丈夫だろうということで一旦帰りました。
 
西村)そこからどんどん火が回っていったのですね。
 
中浦)山手から見ていると、どんどん赤い火が大きくなっていきました。
 
西村)お店はどうなったのでしょうか。
 
中浦)わたしは、家族が安心して避難所でいられることを確認して、21時頃に1人で高台を降りました。朝市があった本町通はほとんどが焼けてしまって、中浦屋の朝市店が全焼したことを確認しました。最初は怖くて火に近づけなかったのですが、近くまで行くと、自分の家を見守っている知人もたくさんいて。非常に残念で寂しく、いたたまれない気持ちになりました。
 
西村)「中浦屋」のほかのお店や工場は大丈夫でしたか。
 
中浦)工場は半壊以上の被害を受けているので、取り壊しが決まっています。本店は建物が傾斜しているので、このまま使うことはできないと判断。本町通りにあった工場に隣接する店舗は大家さんの判断になりますが、使いづらい状況です。今使えているのは1店舗のみです。
 
西村)中浦さんは、どこで避難生活を送ってどんな活動をしていたのですか。
 
中浦)発災当日は中学校に避難していました。翌日からは自宅に帰って、片付けながら生活をしていました。母と家内は余震が危険なので、金沢に避難をしている時期もありました。冷蔵庫に眠っている商品はなるべく早く食べないといけないので、1月5日から地域の被災者に配りました。
 
西村)お菓子を受け取ったみなさんはどんなようすでしたか。
 
中浦)プリンを最初に配りました。能登の酪農家の生乳を使った高級なプリンで人気商品なんです。被災者のみなさんは、「こんなときにこんな高級なプリンが食べられるなんて!」と喜んでくれました。
 
西村)疲れや不安がある中、愛情がこもった美味しいプリンを食べて、みなさん心がほぐれたでしょうね。
 
中浦)今でも「あのときプリンありがとうね」と声を掛けてくれる人がたくさんいます。
 
西村)今は、お菓子作りはどうしているのですか。
 
中浦)工場が全く使えない状況なので、輪島での製造は全くできていません。チーズを作っていた金沢の工房で、限定数ですがプリンの製造を再開しています。しかし、本格的な製造再開にはいたっていません。工場の建設が不可欠です。
 
西村)東日本大震災でつながった人から支援を受けた話を聞きました。
 
中浦)東日本大震災のときに、陸前高田の「おかし工房木村屋」さんに支援をしました。そのつながりから、ギタリストである息子さんがチャリティーCDで寄付をしてくれたり、弊社のお菓子の製造を請け負ってくれたりと温かい支援をしていただいています。
 
西村)助け合いの輪がつながったのですね。
 
中浦)本当ありがたいことです。
 
西村)被災して事業を断念するという人も多くいると聞きましたが、中浦さんは前を向いて歩み続けているのですね。
 
中浦)事業を停止する、諦めるということは一度も考えたことはないです。
 
西村)明日で能登半島地震の発生から半年になります。現在の輪島朝市周辺の状況はどうなっていますか。公費解体や瓦礫の撤去は進んでいますか。
 
中浦)発災から半年間、時間が止まったような状況でしたが、やっと公費解体が始まりました。朝市が開催されていた本町商店街も瓦礫の撤去が始まっています。
 
西村)全焼した「中浦屋」のお店はどんな状況ですか。
 
中浦)燃えたことを確認しただけで、次のことは考えられていません。
 
西村)瓦礫もそのままで公費解体も始まっていないのですね。
 
中浦)順次解体されていくと思いますが、立ち入り禁止区域になっているので、まだ入っていません。
 
西村)ニュースを見ていて、なぜこんなに公費解体が遅いのかと思っていました。中浦さんは、今の状況をどんなふうに感じていますか。
 
中浦)3~4ヶ月前に公費解体が始まっていれば、被災者の気持ちもずいぶん変わっていたと思います。市外に出て行ってしまった人も出ていかずに済んだのではないかと。
 
西村)なぜこんなに復旧が遅くなってしまったのだと思いますか。
 
中浦)2007年にも能登半島地震がありました。そのときに学んだことを生かせなかった。行政と民間が連携し、それぞれの立場の得意な分野を生かしていくという姿勢を平時から持っていくことが必要だと思います。今回は行政がひとり相撲を取って、結果的になかなか復旧に向かえなかったのではないでしょうか。
 
西村)ライフラインはいかがですか。
 
中浦)輪島市内は、ほとんど電気と水道が通っています。しかし、報道と実際の暮らしにはギャップがあります。水道の本管は通っていても、家の中への引き込みができていなかったり、水道管が破損していたりすることも。全員が通常の生活を送ることはできていません。
 
西村)輪島がこれから復興していくために今後どんな支援が必要でしょうか。わたしたちにもできることはありますか。
 
中浦)ありがとうございます。復興には経済的な援助が必要です。未だに全く収入がなく貯蓄だけで生活している住民もいます。仕事がない人もいます。個人事業主はこれから事業を再開していくことになります。観光の街なので、「観光で輪島を訪れる」「輪島で製造した商品を購入する」などの支援をしていただけたらと思います。
 
西村)わたしも輪島を訪ねたいと思います。最後にリスナーに伝えたいことはありますか。
 
中浦)全国の皆さんにご支援をいただいております。ありがとうございます。これからも輪島をぜひ応援してください。想いを寄せていただきながら、輪島に訪れてもらえたらありがたいです。どうぞよろしくお願いいたします。
 
西村)きょうは輪島の老舗の菓子店「中浦屋」の社長 中浦政克さんにお話を伺いました。