第1478回「阪神・淡路大震災30年【7】~被災地発・多言語ラジオ放送の30年」
ゲスト:FMわぃわぃ総合プロデューサー 金千秋さん

西村)阪神・淡路大震災のシリーズ7回目は、神戸市長田区に生まれたコミュニティメディア「FMわぃわぃ」の30年をお届けします。「FMわぃわぃ」が放送を始めたのは、震災発生から2週間後の1995年1月30日。これまでどのように歩んできて、これから何を目指していくのか。「FMわぃわぃ」に発足当初から関わり、現在は総合プロデューサーを務める金千秋さんにスタジオにお越しいただきました。
 
金)よろしくお願いいたします。
 
西村)「FMわぃわぃ」は、どのように始まったのですか。
 
金)30年前は携帯がないので、友達を探すのも大変でした。神戸・長田は在日コリアンが多く、つながりの深い大阪・生野の人たちが友達や親戚を避難所に探しに来ていました。張り紙にキム・パク・リーなどの名前を探しても見つけることができずに困っていた人がたくさんいました。当時、被災者はラジオを一生懸命聞いていたので、「ラジオで情報を呼びかけたら良いのでは」と、大阪・生野から来た人たちが気付いて。大阪・生野の在日系FM局「FMサラン」の送信機で、民団(在日本大韓民国民団)の支部から「ヨボセヨ!どこにいますか!」と声を届けたのが最初です。"ヨボセヨ"とは"ハロー"のような意味。「ヨボセヨ」と呼びかけたので「FMヨボセヨ」と呼ばれるようになりました。
当時、長田のケミカルシューズの会社でベトナム人や日系の南米人がたくさん働いていました。その人たちは日本語が分からないし、防災訓練も受けたことがない、避難所も知らない。そこで、当時、ベトナム人の支援活動をしていたカトリックたかとり協会がベトナム語の放送を始めたんです。"友愛"=ベトナム語で「ユーメン」と名付けた「FMユーメン」は、震災から3か月後の4月16日に始まり、外国人への発信だけではなく、被災している日本人にも話を聞いて発信していきました。そして半年後の1995年の7月17日に2つの局が合併。「FMヨボセヨ」のYと「FMユーメン」のYが一緒になって、「FMわぃわぃ」ができました。

 
西村)そうだったのですね。「FMわぃわぃ」は"みんなでワイワイ楽しもう"という意味だと思っていました。
 
金)そのような意味もあります。
 
西村)外国人は言葉がわからないから「自分はここにいますよ」という張り紙を出すことができなかったのですね。
 
金)そうですね。1923年の関東大震災のときは、在日コリアンは「韓国人と分かったらどうしよう...」という不安もありました。言葉がわからないから何が起こっているのかわからない。外国人の小さな声を取材するのではなく、本人たちが声を出して発信していきました。カトリックたかとり協会が場所を提供してくれたことも大きかった。最初は無認可でしたが、地域の声を伝える発信こそがコミュニティメディアだということで、正式な認可を得るようになりました。
 
西村)プロのアナウンサーが喋るのではなく、市民のみなさんが思いを込めて届けたからこそ、広がっていったのですね。金さんは、いつから「FMわぃわぃ」に関わったのですか。地震発生時はどこにいて、どのような状況だったのですか。
 
金)わたしは、長田区ではなく須磨区にいました。西国街道沿いの築100年以上の木造の古い家にいました。大黒柱があるような大きな家。活断層の上にあったのか、瓦屋根、土塀、蔵などが倒れて全壊しました。
 
西村)ケガはなかったですか。
 
金)あちこちに擦り傷はありました。上からいろんなものが落ちてきて。近所では大黒柱の下敷きになって亡くなった人が何人もいました。
 
西村)そんな大変な状況の中、ラジオは聞いていたのですか。
 
金)駐車場で地域のみんなでカーラジオを聞いたりテレビを見たりしていましたね。1週間~10日ほど経って、仲間のようすを民団に見に行った夫がトランジスタラジオを持って帰ってきたんです。「ラジオがはじまった」と。
 
西村)持ち運びできるラジオですね。アンテナをのばして聞くラジオ。
 
金)聞いてみようとラジオのスイッチを入れたら、アリランが流れてきて。1月29日のことでした。放送開始の前日に試験放送を流していたんです。ラジオは民団がみんなに配ってくれたものでした。
 
西村)アリランは在日コリアンにとってどんな歌ですか。
 
金)誰もが知っている民族音楽です。
 
西村)母国の言葉で、慣れ親しんだ歌なのですね。
 
金)今は、K-POPがテレビやラジオから流れますが、 当時、韓国の言葉や音楽がラジオから流れることはなかった。わたしは日本籍ですが、夫は在日コリアンの2.5世。彼は自分たちの集まりでアリランを聞くことはありますが、ラジオで聞くことはまずありません。日本の公共放送からアリランが流れたということは、"在日コリアンが認められた"という感覚になったのでしょう。滅多に泣かない夫が真っ暗な中で、ラジオ聞きながら泣いているのを見てびっくりしました。それほど隠れて暮らしていたのだな、と思いました。
 
西村)そんな人がたくさんいたのですね。金さんは、どのような経緯でラジオへ関わっていったのですか。
 
金)最初は、マイク1本とCDデッキがある民団へボランティアに行って、その日の炊き出しや配給を読みあげていました。
 
西村)放送を始めたときのみなさんの反応は。
 
金)下を見ながら「今日の炊き出しは〇〇です」と、ただマイクの前でしゃべっているだったので、どこに聞こえているのかもわからなくて、最初はラジオをやっている感覚はなかったです。1階でキムチチゲや焼肉の炊き出しをしていたのですが、ある時、炊き出しをしていた人たちが2階に上がってきて「千秋さん、日本人に"鍋に入っているものもらっていいですか"と言われた!」とうれしそうな顔で報告されたことがありました。いつも日本人に支援されて、住まわせてもらっているコリアンが日本人に支援できたことがうれしかったのでしょう。
 
西村)ラジオが防災において果たす役割は、どんなことだと思いますか。
 
金)「FMわぃわぃ」はその後もさまざまな被災地に支援に行きました。豪雨災害があった和歌山でリスナーに言われたことがあります。雨の中、閉じ込められている時に、ラジオからいつものアナウンサーが、「大丈夫ですか」と呼びかけてくれたと。「不安なときに知っている人の声が聞こえてきて、すごく安心した」と言われました。不安な時に誰かが自分に声をかけてくれる、そんな声の力は大きいと思います。
 
西村)ラジオを聞く人が少なくなってきていると言われますが、ラジオが与える役割は大きいのですね。
 
金)テレビは見ないといけないけれど、ラジオは耳で聞くだけでいい。自分に言ってくれているという感覚がするのだと思います。
 
西村)「FMわぃわぃ」は今年30周年を迎えます。これからどんなことを目指したいですか。
 
金)何かを目指してやってきたわたしたちではないので、いつも出たとこ勝負。〇〇のために...〇〇があるから...とこれからも続いていくのだと思います。
 
西村)きょうは、神戸市長田区で生まれたコミュニティメディア「FMわぃわぃ」の30年について伺いました。ゲストは「FMわぃわぃ」総合プロデューサー金千秋さんでした。