第1477回「阪神・淡路大震災30年【6】~足湯ボランティアの30年」
ゲスト:CODE海外災害援助市民センター 事務局長 吉椿雅道さん

西村)30年前に発生した阪神・淡路大震災。発災後、神戸の被災地には、全国から自発的に多くの支援者が続々と集結し、「ボランティア元年」と言われました。そこで生まれたのが「足湯ボランティア」。たらいにお湯を張って足を温め、被災者の話に耳を傾ける「足湯ボランティア」は、その後全国的に広まり、多くの被災地で行われています。
きょうは、30年前、神戸の被災地で「足湯ボランティア」を始めたCODE海外災害援助市民センターの吉椿雅道さんにお越しいただきました。
 
吉椿)よろしくお願いします。
 
西村)30年前のボランティアといえば、炊き出しや力仕事をイメージしますが、足湯を提供することになったのはなぜですか。
 
吉椿)1週間後に被災地に入り、当初は炊き出しや倒壊した家屋から貴重品を出すボランティアをしていました。福岡に住んでいたのですが、兵庫区に親友が住んでいたので、神戸にはよく来ていたんです。親友のアパートが被災して電話がつながらなくて心配で。3日後に電話がつながって無事だったのですが、神戸が大変なことになっているので、ボランティアに行こうと。
 
西村)そのときに見た神戸はどんな景色でしたか。
 
吉椿)西宮北口から神戸市内まで自転車でボコボコの道を走りました。そのとき見た景色は今でも忘れません。家屋が倒壊して、人々がさまよい歩いていました。埃もすごかった。その中を自転車で駆け抜けていくときは、まるで別世界にいるようでした。
 
西村)吉椿さんは当時何歳でしたか。
 
吉椿)26歳です。初めての災害ボランティアだったので、被災地の空気に圧倒されました。意気込んで来たのはいいけど、あの光景を見たときに「何ができるんだろう...」と。東洋医学のマッサージや整体の仕事をしていたので、何か役に立てればと思っていたのですが、避難所に入ったら空気に圧倒されました。みなさん毛布をかぶって雑魚寝をしていて。風邪気味で咳込んでいる人もいました。
 
西村)どこの避難所に行ったのですか。
 
吉椿)兵庫区の避難所です。東洋医学をやっていたので、声をかけて、手のマッサージや風邪のツボ押しをしていました。炊き出しや貴重品を取り出すボランティアもしていました。そうこうしてる中、京都から先輩が来て、「寒いし足湯をやろうか」ということに。当時、兵庫区の山手の方はライフラインが早く復旧したんです。僕は、山手の中国人の留学生の家に泊まっていたので、そこでお湯を沸かして、避難所に持ってきて足湯を始めました。
 
西村)足湯に入ってくれた人はどんな反応でしたか。
 
吉椿)長蛇の列になって。当時は風呂も入れなかったので、せめて足だけでも温めたいと並んでくれました。お湯に足をつけてもらって、手のマッサージもやりました。最初はどのように声をかけて良いのかわからなかったのですが、みなさん「兄ちゃんどっから来たの?」と声をかけてくれました。僕の破れたジーンズを見て、「兄ちゃん、ジーンズボロボロやから買ったろか」と言ってくれた人も(笑)。ボランティアの僕らに気を使ってくれるなんて...とびっくりしました。80歳くらいのおばあちゃんは、「戦争も体験して、この年でこんな震災にあうなんて...」とポロポロ涙を流していました。
 
西村)足湯で体が温まって、心もほぐれてくるのですね。
 
吉椿)そんな効果を期待していたわけではないのですが、みなさん、自然と語り出してくれましたね。手や声の温かさを感じることで、いろいろな思いを一瞬でもはき出せたのだと思います。
 
西村)周りも大変な状況だと、なかなか本音を語れないですものね。
 
吉椿)被災者同士では話せないこともあると思います。僕らみたいに外から来た兄ちゃんになら、ポロっと言えるのかもしれません。僕らは被災者が語る言葉を"つぶやき"と呼んでいます。ひとりひとりが語った言葉から支援を考えていくことが大切です。
 
西村)30年前の避難所では、吉椿さん以外のボランティアはいましたか。
 
吉椿)4人の仲間とはじめて、約50人まで増えました。当時、ボランティアセンターはなかったので、僕らは街を歩いて声をかけました。地域の公民館でも足湯をやりました。半壊状態の自宅で避難している人のところに、お湯を持っていって足湯をやったことも。
 
西村)30年前の映像を見ていると、おにぎりを配っている人もいましたよね。ほかに自主的なボランティアをしている人はいましたか。
 
吉椿)瓦礫の片付けや炊き出しをする人、避難所で物資を配っている人もいました。
 
西村)みなさんがそれぞれできることをやるスタイルだったのですね。ボランティアと被災者の関係はどうでしたか。
 
吉椿)物資を届けていく中で、顔を覚えてもらいながら、少しずつ関係性を作っていきました。
 
西村)この30年で日本の災害ボランティアはどう変わったと思いますか。
 
吉椿)ある程度のスキルを身につけた専門性の高いボランティアも増えました。良い面もたくさんある一方で、「ボランティアは資格や専門性がないとできない」と思う人も多い。昨年の能登の水害でボランティアを募集したときは女性の申し込みはほとんどありませんでした。
 
西村)それはなぜですか。
 
吉椿)水害は泥かき作業が多く、女性は役に立たないと思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。
 
西村)「わたしが行っても足手まといになってしまうのでは」と思ってしまいます。
 
吉椿)そんなことはありません。実際に大学生の女性や80代の男性、知的障害を持った人も来ました。やれることはなんでもあります。80歳のおじいちゃんは、現地の80代のおばあちゃんと話をしました。そんなふうに、お話ボランティアもできます。女性なら掃除など、やることはいっぱいあります。誰もができるボランティアの可能性や価値を伝えていかなければならないと改めて思います。
 
西村)ボランティアセンターができたことで、大きな変化はありましたか。
 
吉椿)ボランティア初心者にとっては、ボランティアセンターがあると安心ですが、一方でシステム化されていくと、「瓦礫の片付けだけ」などやることが固定化されているのを感じます。阪神・淡路大震災のときは、多様なボランティアがあって、みんながいろんなことを考えながら公助の隙間を埋めていました。
 
西村)今後のボランティアのあり方についてどう思いますか。
 
吉椿)ボランティアのハードルを下げることが大事。僕らのような現場に入っているNPO、NGOができることをどんどん提案していきたいです。ボランティアは、自主性や自発性が大事なので、ひとりひとりが持っている力を活かせる仕組みが必要だと思います。
 
西村)大変なこともあると思いますが、吉椿さんはなぜ30年もボランティアを続けてこられたのでしょうか。
 
吉椿)現場で被災者に力をもらっているからです。いろんなことを教えてもらっています。もし僕が被災したら、こんなに温かくボランティアを受け入れることができるだろうかといつも思います。人間のたくましさややさしさを毎回教えてもらっています。だから続けられているのだと思います。
 
西村)ボランティアを経験したことがないという、リスナーに伝えたいことはありますか。
 
吉椿)きっかけは何でも良いんです。「能登に行って美味しいもの食べたい」「キレイな景色を見てみたい」とか。行ってみたら、人に出会って、また行ってみたいなと思う。ボランティアは、誰でもできるものなので、みなさんその一歩を踏み出してみてください。
 
西村)吉椿さんが続けている「やさしや足湯隊」には、若い世代がたくさん参加しています。現在、何人ぐらいの人が参加しているのですか。
 
吉椿)延べ200人を超えています。これまでに約25回、毎月派遣しています。夏休みや春休みはほぼ毎週派遣しています。
 
西村)初めてボランティアに参加する人もいるのですか。
 
吉椿)ほとんどが初参加です。僕らみたいに慣れている人よりも初めて来た人の方が新しい発想を持っています。初めて来た学生さんは、仮設住宅で被災者に声をかけるときに、「大阪から来ました!」と大阪のお土産を持っていくことで、「実は私の親戚も大阪にいるのよ」などと話を広げる工夫をしていました。聞けば当たり前のことなんですけど、ハっとさせられましたね。
 
西村)わたしも今年は、ぜひ足湯隊にチャレンジしたいなと思います!今も参加者は募集していますか。
 
吉椿)はい。ホームページやFacebook等で発信しているので、ぜひご覧ください。
 
西村)きょうは、阪神・淡路大震災30年のシリーズ6回目、足湯ボランティアの30年と題して、CODE海外災害援助市民センターの吉椿雅道さんにお話を伺いました。