第1474回「阪神・淡路大震災30年【3】~がんばろうKOBE」
ゲスト:俳優 堀内正美さん

西村)阪神・淡路大震災の発生から今月17日で30年になります。誰もが一度は聞いたことのある「がんばろうKOBE」というスローガンは、俳優の堀内正美さんが、当時のラジオ番組で「がんばろうよ、神戸」と呼びかけたことがきっかけとなりました。また堀内さんは、震災発生当初からいち早く被災した人たちの支援を行い、東遊園地にある犠牲者を追悼する「1・17希望の灯」の設置にも取り組みました。
きょうは、堀内正美さんに30年前のあの日のことをお聞きします。
 
堀内)よろしくお願いいたします。
 
西村)阪神・淡路大震災の当時、堀内さんはおいくつでしたか。
 
堀内)44歳でした。
 
西村)あれから30年がたち、1月17日が近づいてきました。当時のことを思い出しますか。
 
堀内)未だにご遺族、震災で亡くなられたご家族の相談を受けるので、僕にとっては30年前も今も変わりません。
 
西村)阪神・淡路大震災の発生当時、堀内さんはどこで何をしていましたか。
 
堀内)神戸市北区の新興住宅地に住んでいました。ちょうど神戸に来て11年目でした。
 
西村)5時46分、神戸市北区の自宅でどんなふうに地震を感じましたか。
 
堀内)家族4人で寝ていたら、地底から突き上げられて、ドーンと体が浮くような感覚がありました。何か爆発したのかなと。すると南西から巨大な鉄の玉がゴロゴロと迫ってくるような音がして、その音がどんどん近づいてきて、家の下に来たら、家がバリバリと揺れました。そのときに地震だと思いました。とにかく逃げ道を確保しようと動きました。
 
西村)ご家族は無事でしたか。
 
堀内)家族は無事でした。自宅周辺は震度6ぐらい。死ぬかと思うくらいの恐怖でした。
 
西村)周りの景色はどのようになっていましたか。
 
堀内)新しい家が多かったので、町内のようすは変わっていませんでしたが、地面のコンクリートはひび割れていました。
 
西村)神戸市長田区のようすも見えましたか。
 
堀内)長田区の町が山間から見えました。火災で白い煙が数本上がっていました。友人が長田区にたくさんいるので、とにかく行かなければ、と向かいました。想像を絶する光景に出会って、これは夢じゃないかと思いました。ほっぺたをつねって、嘘だろうと涙があふれました。俳優はドラマのとき、目尻や目頭から涙を流すのですが、涙って目頭から目尻までナイアガラの滝のように流れるんです。
 
西村)そんな涙流したことないです...。
 
堀内)茫然自失としているときに「何をぼーっとしているんだ!早く手伝え!」と怒鳴られました。みんな倒壊している家から人を助け出しているんです。僕は何をしていいのかわからなかった。寒かったので、僕は手袋やマフラー、コートを身につけていましたが、助けている人たちは浴衣やステテコ姿。靴も満足にはいていませんでした。
 
西村)裸足で飛び出してきたのですね。
 
堀内)倒壊した家から出てきて、近隣の人を助けようとして。手は泥だらけで血を流していました。そこに加わって一緒に救助活動をしました。
 
西村)お手伝いをしたとき、どんな気持ちでしたか。
 
堀内)「助けて!助けて!」といろんな声が聞こえました。とにかくみんなでやるしかない。そんな中、どうしても助けられない人もいました。
 
西村)それが震災当日。その後はどうしたのですか。
 
堀内)自宅でご飯を炊いて作ったおにぎりや缶詰を集めて届けました。19日の昼ぐらいまで個人的に動いていました。僕は須磨海岸にあったラジオ関西で早朝番組のパーソナリティを週1回やっていました。ラジオ関西では、アナウンサーではない人がマイクの前で喋っていて。当時のラジオには、リクエスト電話というものがあって、そこに安否情報がくるんです。リスナーはラジオ局の電話番号は覚えているんです。
 
西村)"電リク"で毎日電話をかけていたからですね。
 
堀内)「息子がいない」「わたしは今、〇〇小学校の体育館にいます」「〇〇さん、お母さんが〇〇にいますよ」などの昼夜を問わず届く安否情報をマイクで発信し続けていました。ラジオ局に着くとビルもスタジオもぐちゃぐちゃ。震災当日のアナウンサーに「堀内さん絶対来ちゃダメ」と言われていました。いつ崩れるかわからなくて危険だと。ラジオは、被災者へ情報を冷静にきちんと流していたので、そこまでひどいと思わなかった。13階建ての2階にあった4つスタジオの内、3つのスタジオがぐちゃぐちゃでした。1つのスタジオで何とか収録をしました。リクエスト電話がガンガン鳴っていました。建物は危険で怖かったですが、マイクの前に立ち続けました。
 
西村)被災した人の声を聞き、マイクの前で喋るということを続けたのですね...。
 
堀内)夕方ぐらいから夜の11時ぐらいまでずっと。
 
西村)堀内さんは、みなさんにどんな言葉をかけたのですか。
 
堀内)電話が5~6台あるところで電話を受けるのですが、かけてくる人たちは、なかなか電話を切れないんですよ。やっとつながった電話だから。「わかりました!お伝えしますね」と言っても切れない。僕が「とにかくがんばりましょう。怖いけどね。1人じゃないから、みんなで頑張りましょうね!」と言うと、「わかりました。がんばります!」と電話が切れるんです。「"がんばりましょうね"と言うと電話が切れるよ」とほかの電話を受けている人に伝えました。それから「がんばりましょうね」と声をかけると電話が切れるようになったんです。みんな無意識のうちに、前向きな姿勢があるのだと思いました。「がんばろう」は、そういう言葉なのだと気づきました。マイクの前で、「みなさん、神戸はこのまま沈没するわけじゃない。必ず全国から支援に来てくれるからそれまでがんばりましょう。1人じゃない。見ず知らずの人でも隣の人と手をつないでください。わたしたちの町なんだからがんばりましょう」とマイクの前で言い続けました。
 
西村)それが「がんばろうKOBE」というスローガンにつながっていったのですね。
 
堀内)僕がラジオを通して発信したから、僕が生み出したような言葉になっていますが、町ではみなさんが「がんばりましょうね」という言葉を使っていたと思います。
 
西村)"がんばれ"KOBEじゃないんですね
 
堀内)"がんばろう"です。「ともに忍耐して努力しよう」と無意識のうちにみなさんが使っていた言葉だと思います。
 
西村)「がんばろうKOBE」はオリックスも掲げていましたね。阪神・淡路大震災はボランティア元年と言われています。どんなお手伝いをしたのですか。
 
堀内)僕は、被災者からダイレクトにかかってくる電話を受けていたから、被災者がどんなものを必要としているかがある程度わかっていました。「食べ物が欲しい」「寒い」「精神的に苦しい」などです。ラジオ関西はエリアが近畿圏なので、そこだけで流していてもしょうがない。そのような情報を全国のネットワークに流してもらいました。僕は自分の特性として"つなぐ"ことができる。できることをやろうと北区にスペースを借りて、「がんばろうKOBE」という名前をつけ、被災者同士が自らみんなで助け合う場所をつくりました。
 
西村)悲しみに暮れる毎日を送るだけではなく、1人に1人役割があって。
 
堀内)復旧・復興に向かって長いプロセスになるから、できることを探せるようにしました。「がんばろうKOBE」のスペースには被災地が必要としている情報(「米が欲しい」「お湯が欲しい」「ブルーシートが欲しい」など)を貼り出しました。そのスペースに来た人たちが自分たちでニーズとシーズを結びつけて、支援できる仕組みを作りました。行政が何かをしてくれるのを待つという人もいましたが、行政も被災しています。
 
西村)具体的にはどんな活動がありましたか。
 
堀内)ずっと電話番をしている主婦の人は「わたしは電話が好きなんです。家では主人にいつも怒られるんです。長電話で...」と言っていました。
 
西村)そういうことでも役に立つわけですね。お手伝いになるし、心の支えにもなる。ボランティアは誰でもできるのですね。
 
堀内)そこが一番大事。仮設住宅は当たる人と当たらない人が出てくる。それでギクシャクしますとね。そのとき僕は、引っ越しプロジェクトを作りました。仮設住宅に当選した人の荷物をみんなで運ぶんです。
 
西村)それなら私でもできそう!
 
堀内)最初は「自分は当たってないのになぜ運ばなければならないの?」と言われました。でもそこでお手伝いをしたら、いずれ自分が当たったときに誰かがお手伝いしてくれます。支給される美味しくない弁当も汗を流せば、美味しくなる。待っていても始まらない。
 
西村)動ける人は動いていくことが希望へとつながって、自ら希望を生み出していくきっかけになるのですね。そんなかたちを堀内さんがコーディネートしたのですね。
 
堀内)仮設住宅に入ったら、役所が被災者の面倒を全部見なければならないという前提でしたが、僕はそうではないと思いました。住まいは変わっても、ここから一歩踏み出さなければならない。みんなの意見をまとめて役所にお願いし、できないことはボランティアがやる形で自治会作りもしました。
 
西村)みんなができることを持ち寄ると大きな輪になり、希望になる。これは30年経った今も同じです。わたしたち1人1人が心に留めておきましょう。
きょうは、俳優の堀内正美さんにお話を伺いました。