オンライン:いわき湯本温泉「古滝屋」16代当主 里見喜生さん
西村)きょうは福島県いわき市の老舗温泉旅館「古滝屋」の16代目当主で、旅館の中に資料館をつくるなど、原子力災害を伝える活動を続けている里見喜生さんにお話を聞きます。
里見)よろしくお願いいたします。
西村)「古滝屋」どんな温泉旅館ですか。
里見)東北の最南端にあるいわき湯本温泉には15件ほどの旅館があります。「古滝屋」は、その中のひとつで、掛け流しの温泉にこだわる温泉旅館です。創業元禄8年、今年で320年目になります。
西村)どんな人が来るのですか。
里見)主に首都圏から70%、東北各地から30%。関西、九州の人は、震災後にボランティアに来てくれたのをきっかけに、今も繰り返し訪れてくれています。
西村)東日本大震災当日は、お客さまは泊まっていたのですか。
里見)200人の予約があったのですが、実際にたどり着いたお客さまは50人ほどでした。
西村)50人は地震が発生する前にたどり着いたのですか。
里見)旅館は、15時チェックイン開始で震災があったのは14時46分なので、ちょうど移動中の人が多かったようです。
西村)必死の思いで旅館までたどり着いたのですね...。
里見)そのようですね。電話、電気、水道、ガスが一緒にストップしてしまいました。連絡手段がなく、戻ってしまったお客さまも多かったようです。
西村)震災当時、里見さんは何歳でしたか。
里見)42歳でした。「古滝屋」で仕事をしていました。
西村)震災に遭った「古滝屋」は、その後どうなったのでしょうか。
里見)地震によってエレベーターの軸がずれたり、壁に損傷があったりしたのですが、階段などを使えば何とかお客さまの受け入れは可能でした。しかし、その後、「古滝屋」から50km北にある福島第1原子力発電所で水素爆発が連鎖的に起きて、それによって約4000人のキャンセルが出ました。原子力発電所のある沿岸部の双葉郡には、7万人が住んでいたのですが、そのうち約2万5000人がいわきに緊急避難しました。みなさん、急な強制避難で住む場所がないので、小中学校の教室や体育館で過ごしていました。僕は、炊き出しや水の運搬、原発事故によって外で遊べない子どもたちのお世話などのボランティアをしていました。
西村)そういった活動の中で、里見さんは震災後、「Fスタディーツアー」という取り組みを始めたとのこと。それは、震災後いつ頃からスタートしたのですか。
里見)2011年11月です。全国からボランティアに来てくれた僕の友人・知人を、津波現場や当時まだ不明だった原子力災害の被災地を自分の車で案内したのがきっかけです。その後、その人たちから「津波の状況や原発の状況を、有償できちんと伝えた方が良い」「ニュースや新聞などでも情報を得ることはできるけど、実際に見るとそれ以上に感じることがある」とう言葉を受けて、正式に僕がワゴン車でガイドをはじめたのが「Fスタディーツアー」のはじまりでした。
西村)どんなところを回るのですか。
里見)2011年は主に津波の現場を案内していたのですが、少しずつ原子力の災害があったエリアを訪れることが出来ました。地震や津波を語る語り部は増えてきたのですが、原子力災害については、口をつぐむ人か多かった。僕が原子力災害に特化したガイドをしていこうと、双葉郡に訪れることにしました。
西村)どんな人が語り部として参加しているのですか。
里見)主に僕がガイドをしながら車で案内していますが、主婦や元学校の先生など、いろいろな人が語り部ガイドとして活躍しています。
西村)なぜ原発の話になると口をつぐむ人が多いのでしょう。
里見)この14年間、毎日のように原子力災害で生活が一変してしまった人の話を聞いていますが、身近な人、近所、親戚に原子力関係で勤めている人が多いです。一概に放射能や原発について、自分の口からは言い辛い人が非常に多いです。
西村)スタディーツアーの参加者の反応はいかがですか。
里見)今まで約6000人を案内してきましたが、みなさん「来てよかった」と言ってくれます。原子力災害については何も情報がないし、今までも勉強したこともなかったと。わたしたちは、当たり前のように電気を使っていますが、その電気がどのようにして作られて、どこで発電されているのか全く知らない。福島に来ることによって、これだけの距離のある場所から電気が届いていること、そして原子力発電所のある町が、今回の災害で人が住めない状態になっている現状にショックを受ける人がとても多いです。
西村)「Fスタディーツアー」に加え、もうひとつ里見さんが取り組んでいるものに、「原子力災害考証館 furusato」があります。
里見)この資料館には、公的な資料館では提示されてないもの、こぼれ落ちているもの、原子力災害によってつらい思いをしている人々の大切にしているもの、表には出しづらい数字的なもの、裁判的な資料などを展示しております。
西村)原子力災害考証館はどんな場所にあるのですか。
里見)「古滝屋」の9階のお客さまが利用する一室にあります。約20畳のスペースです。
西村)旅館の中の和室に資料が並べられているのですね。どんなものが並んでいるのですか。
里見)原子力災害と一言に言っても、なかなか表現するのは難しいのですが、災害に遭った人々とのご縁で展示をしています。原発事故によって数年間人が住めない状況となった浪江町の2014年の街並みを写した写真と、2020年に同じ場所で写した写真を比較して展示しています。震災から3年後の2014年は、強制避難指示が出ていたので、人が住んでいません。建物は並んでいるのですが、全く人の気配が感じられません。2020年の写真を見ると、建物が全くない状況になっています。2020年までの6年間で帰ることを諦めた人々が家を壊し始めて、町の姿が一変しているのです。それを写真によって伝えています。
西村)他にはどんな展示がありますか。
里見)それ以外には大熊町の津波で行方不明になってしまった家族の遺品を展示しています。原子力災害放射能の影響で捜索が打ち切りになり、探し続けられなかったのです。
西村)資料館は、旅館の中の一室にあるので、家族で訪れて、みんなで考えることもできそうですね。
里見)資料を見て終わりではなく、できるだけ対話をしたいと思っています。対話をすることで、立場を経た感想や、資料を参考に描く未来についてなど、それぞれの考え方を共有できたらと思っています。
西村)公的な施設の展示とは、どこが違いますか。
里見)公的な資料館には、学芸員がいて、展示物を管理していますが、考証館には、ガラスのショーケースがあるわけでもないので、持ち主が直接内容を変えたり、アップデートしたりしています。ですから、被災者の声をそのままの表現でみなさんに伝えることができます。あるとき、考証館の部屋を覗いてみると、子どもたちが畳に寝転がって資料を見ていました。畳の上にあぐらをかいて、隅でお菓子やご飯を食べている子も。朝から夕方まで6~7時間ほどずっと資料を見ていた人もいました。それぞれの思う形で資料を見てもらえるのが考証館の良いところだと思っています。
西村)国も脱・原発政策を方針転換して、今は原子力発電の最大限の活用を示しています。東日本大震災から14年を迎える中、今はどんな思いでいますか。
里見)福島に住んでいる人は、土や四季折々の大地とともに生きていて、それを誇りに思って暮らしています。そんな場所が放射能まみれになって、追い出されることがどれだけつらい事か。発電の方法はいろいろあります。世界一の地震大国で、地震が起きたときに甚大な被害が起きてしまう原子力に頼るというのはどうなのでしょう。僕が原子力災害を14年間経験して思うのは、大事な順位があるのではないかということ。一番大事なものは命。人間以外の生き物たちともきちんと共生して暮らしていけたらと思っています。
西村)里見さん、ありがとうございました。きょうは、福島県いわき市の老舗温泉旅館古滝谷の16代目当主で原子力災害を伝える活動を続けている里見喜生さんにお話を伺いました。