第1483回「東日本大震災14年【2】石巻市出身・映像作家の思い」
オンライン:映像作家 佐藤そのみさん

西村)東日本大震災の津波で、児童や教職員84人が犠牲になった石巻市市立大川小学校。震災後の大川地区や、そこで生きる人々の心の変化を子どもの視点で描いた2本の映画「春をかさねて」と「あなたの瞳に話せたら」が、大阪で上映されています。撮影されたのは東日本大震災から8年後の2019年。監督は大川小学校に通っていた妹を亡くした遺族でもある、映像作家の佐藤そのみさんです。遺族として取材を受ける立場だった佐藤さんが「描かれるよりも、描きたい」と自分の体験をもとに撮った映画への想い、東日本大震災から14年たった今感じていることについて、お聞きします。
  
佐藤)よろしくお願いいたします。
  
西村)佐藤さんはどのような思いでこの映画を制作したのですか。
  
佐藤)わたしは東日本大震災の2年前の12歳の頃から、地元大川を舞台にした映画を撮ることが夢でした。その後、地震が起きて、映画に撮りたかった風景や人々は津波で流されてしまいました。わたしは大川小学校で2歳下の妹も亡くしてしまいました。それでも「東北で震災を経験したわたしだからこそ、描けることがあるかもしれない」と思って、夢は消えなかった。早く「遺族や被災者という肩書きから逃れて自由になりたい」という気持ちがあったのですが、逃れようとしても余計に苦しくなってしまって。一度正面から故郷や震災に向き合わなければ、次の人生に進めない気がしたんです。映画というものを使って、一度故郷や震災に正面から向き合うために、この2作品が必要でした。それと、大人になるにつれて、震災直後の大切な感覚が薄れていくのが怖かったという気持ちもあります。震災後は本当に大変だったし、めまぐるしく日常が変わっていったのですが、14歳の頃は、その中で必死に生きようとしていました。けれど、大人になってその感覚がだんだんなくなってしまった。その感覚を忘れる前に、故郷の風景とともに作品を残しておきたかったんです。
  
西村)なぜ大人になるにつれて、その感覚が薄れていったのですか。
 
佐藤)街並みが変化して、わたしも年齢を重ねて。わたしは大学に入ると同時に上京したので、故郷の景色を見ることがありませんでした。東京には、東北で震災を経験した人はほとんどいませんでした。
 
西村)東京の友達と震災の話をすることはありましたか。
 
佐藤)ありませんでした。わたしから喋ってしまうと、その場の空気を悪くしてしまう気がして。極力自分からは震災のことは話さないようにしていたんです。でも震災後の経験が、その後の私を作ってくれたということは、一番大事な核の部分なので、忘れたくないと思っていました。そして、大学を休学して、「春をかさねて」から作り始めました。大学にいながらではとても作品に向き合えないと思ったので。
 
西村)大学では映像関係の勉強をしていたのですよね。
 
佐藤)はい。映画学科でみんな映画を作っていました。4年生になると卒業制作があるのですが、そのタイミングで休学をはじめました。みんなに震災の話ができなかったのに、ましてや震災の映画を作るためにみんなを巻き込むことはできないと思って。みんなは面白いエンタメ作品を作りたいのに、被災地に連れて行って、暗い話を撮るのにつき合わせるのは申し訳ないと。1年間休学して、脚本を書いたり、アルバイトで資金を貯めたり、地元の石巻に帰ってキャスト探しをしました。休学中の最後の3月に何とか作品が完成。結局、大学の友達に撮影を手伝ってもらったんですけどね。いろんな人の手を借りながら、2019年の3月に「春をかさねて」が完成しました。
 
西村)キャストは石巻で探したとのこと。地元の人がたくさん出ているのですね。
 
佐藤)ほとんどが地元の人です。東京から来たボランティア役は関東の人ですけど。プロの俳優さんはほとんど出ていなくて、演技経験がない地元の人がたくさん出ています。
 
西村)震災当時のお話も聞かせてください。当時、佐藤さんは何年生でしたか。
 
佐藤)当時、わたしは大川中学校の2年生でした。その日の午前中は、3年生の卒業式で、午後から家に帰ってきていました。1階の部屋で趣味だったギターを弾いていたときに大きな揺れが起こりました。最初、地震だと気づかないぐらいものすごい音がして。何か爆発が起こったのかというくらい衝撃的な縦揺れで、立っていられないぐらいの大きな揺れが長く続いて。体感10分以上続いていたと思います。それが少し収まってから、家にいたおじいちゃん、おばあちゃん、お兄ちゃん、ひいおばあちゃんと一緒に5人で近くの高台に避難しました。わたしたちの家は、内陸側で川の河口からは離れた場所にあったので、自宅は無事でした。両親もそれぞれの職場にいて無事でした。でも大川小学校に通っていた2歳下の小学6年生の妹だけは、ほかの児童や先生と一緒に、大川小学校で津波の犠牲になってしまいました。それがわかったのは3月13日のことです。
 
西村)2日後に妹さんが犠牲になったことを知ったのですね。妹さんと最後に交わした言葉は覚えていますか。
 
佐藤)3月11日の朝に「おはよう」と妹に言われたのですが、わたしは機嫌が悪くて、無視をしたのが最後です。
 
西村)どんな妹さんだったのですか。
 
佐藤)心優しくて天使みたいな人でした。例えばクラスに悲しい思いをしている子がいたら、その子のそばにそっといてあげられるような。おとなしいのですが着実に努力をしていて、勉強や習っていたピアノや水泳もコツコツ努力して、いつの間にかうまくなっているような。
 
西村)努力家さんだったのですね。そのみさんは、若い時期も遺族として気丈に取材にも答えていましたが、心の中ではどんなふうに感じていましたか。
 
佐藤)わたしは表に出るのが好きではなかったのですが、求められたら断れなかった。断り方がわからなかったんです。断ったら嫌われてしまうと思って。取材の依頼が来たら答えていたんですけど、14歳のとき、まわりの生き残った子どもたちは、テレビや新聞の取材に答えている子もいれば、家族と一緒に断っている子もいました。周りの子たちに取材が殺到していたので、その子たちを守る意味でも、わたしが出なくてはと思って、依頼が来たら応じるようにしていました。
 
西村)取材を受けて、自分の話した言葉が記事になり、テレビやラジオで伝わったとき、どんなふうに感じましたか。
 
佐藤)自分が撮られたものを見たとき、自分ではないみたいだと思っていました。「かわいそうな子」「亡くなった妹の分も生きる立派なお姉さん」などとすごく美しく切り取られていて。それはわたしじゃないと思っていました。多くの人が見たい"被災地の子どものイメージ"に当てはめられているように感じていました。
 
西村)3月11日、震災から今年で14回目の春を迎えます。今の思いを聞かせてください。
 
佐藤)取材の経験を通して、切り取られてしまうことは、仕方がないことだと諦めるようになっていきました。自分が本当に言いたいことは、自分で主張しなければ届かないと。映画「春をかさねて」「あなたの瞳に話せたら」は6年前に作ったものです。「遺族は悲しみを抱えて、過去を背負って生きるもの」という、ステレオタイプな見方を押し付けられることへの反発・葛藤もあったのですが、制作や上映を通して、そのような気持ちとも良い距離を取れるようになってきました。今は自分の過去や他人の視線を気にせずに、好きなように生きられていると思います。震災直後は自分の存在をすごく否定していたのですが、今は肯定できるようになってきました。地元の人たちにも、少しでもあの日から良い距離をとって、今が一番幸せだと思えていたらうれしいです。亡くなった人たちもそれを望んでいると思います。
 
西村)リスナーの皆さんに、伝えたいことはありますか。
 
佐藤)わたしの撮った映画は、震災や大川小学校津波事故について触れた映画ではあるのですが、誰か大切な人を失った悲しみ、人が生きていく中での葛藤や人間関係の衝突、その先の幸福についてなどを描いています。普遍的で、みなさんにもどこか共感していただける部分があるのではと思っています。ぜひあまり気負わずに見に来てください。
 
西村)2本の映画には大川小学校の校舎が出てきます。大川小学校についての思いも聞かせてください。
 
佐藤)わたしは遺族として、大川小学校の中に入って撮ることができたので、中に入れない人たちにも、校舎の中を見せたいという気持ちもあって撮りました。この校舎は、現在震災遺構として保存されています。訪れるとわかるのですが、津波の爪痕があのときのまま残っています。映画を通して関心が深まれば、ぜひ現地を訪れてみてださい。大川小学校で子どもを亡くしたお父さんお母さんたちが校庭に立って、見学者に向けて語り部をしています。映画の中にもいろいろな形で登場しているので、それも見てほしいです。震災前はそこに普通に街があって、色鮮やかな校舎と緑豊かな風景がありました。子どもたちと先生たちが賑やかに学校生活を送っていた場所なんです。今は全く想像がつかないと思うのですが、わたしは震災前の風景をよく覚えています。難しいかもしれないけど、少しでもそんな風景を想像してもらえたらうれしいです。
 
西村)今の思いをまっすぐに届けてくださって、ありがとうございました。
きょうは、映像作家の佐藤そのみさんにお話を伺いました。