第1472回「阪神・淡路大震災30年【2】両親を亡くした書道家~父から継いだもの」
取材報告:新川和賀子ディレクター

西村)先週から阪神・淡路大震災30年の特集をお送りしています。
きょうは、震災でご家族を亡くした遺族を取材したディレクターがお伝えします。新川和賀子ディレクターです。
 
新川)よろしくお願いいたします。震災で両親(父・幸助さん73歳、母・範子さん64歳)と義理の弟を亡くした、野原久美子さんを取材しました。野原さんは、書道家の野原神川さんとしても活動しています。野原さんは震災当時39歳。野原さんと家族が地震にあったのは神戸市東灘区本山中町で、多くの家屋が崩れた地区です。JR摂津本山駅から東に徒歩10分ほどのところです。30年前の11月17日の朝、一人暮らしのマンションで野原さんは下から突き上げるような揺れを感じました。地震とは思わなかったそうです。外に出て、鉄筋コンクリートの丈夫なマンションが傾いているのを見て、これはただ事ではないと近所の木造家屋に住む両親のもとに向かいました。
 
音声・野原さん)実家のひと筋手前ぐらいからもう家がないんです。ほとんどみんな崩れていて。古い住宅地だったので。崩れていて、何もないから遠くから自分の家がないのがよくわかったんです。そのときにもう両親は亡くなっていると思いました。そこから両親と近所に住む妹の家族のもとへ行きました。妹の子ども2人は助かったのですが、妹の主人と妹は生き埋めになりました。
 
新川)まさかの光景が目の前に広がっていて、すぐに両親が亡くなっていると思ったのですね。
 
西村)このときの思い、その後の状況を聞いています。
 
音声・新川)その光景を見たときはどんな思いでしたか。
 
音声・野原さん)涙も出なかった。自分で直視できなかった。これは夢の中の出来事じゃないかって。周りに泣いている人もいなかったし、みんな淡々と静かだったんです。それが気持ち悪いですよね。悲惨な出来事が起きているにも関わらず、周りがすごく静かで。普通だったら泣いている人や叫んでいる人がいるははずなのに。夢みたいな感じでした。泣かなかったというか、泣けなかった。両親は絶対助かっていないと思っているから、生きている妹と妹の主人を助けたいのに誰も来ない。自分でやるしかない。アパートの大家さんが電ノコを持ってきてくれて、床をはぎました。近所のお兄さんが手伝ってくれて2~3時間かかったかな。
 
音声・新川)その間に生き埋めになっている妹さん夫婦に声をかけましたか。
 
音声・野原さん)ずっと声をかけていました。水が欲しいと言っているから、水を探しに行って。2~3時間たって妹たちを救助しました。担架がないのでどうしたと思います?近所の壊れた家に入って、ふすまを持ってきたんです。申し訳ないけどね。3人ぐらいで近所の本山第三小学校に2人を運んで。その時、天気が良すぎてね。天気の良さと下で起こっている悲惨さのアンバランスがわたしの中で、非常に記憶に残っています。こんなんやったら雨降ってた方がマシって。あの日は天気が良かった。雲一つなくてね。しばらくして、クリーニング屋さんの車で2人を甲南病院に連れて行きました。中は戦争のようでした。ストレッチャーに乗っている人はまだまし。地べたにダンボールをひいて寝ている人もいっぱいいて。妹はストレッチャーに乗ってはいたのですが廊下にいました。妹の主人は病室のベッドとベッドの間にストレッチャーを入れて。人で一杯でした。廊下で手術をしているんです。その間にも余震がきて、みんな怖がっていました。甲南病院は山の上にあるので下がよく見えるんです。火事があちこちでおこっていました。
 
新川)混乱する病院の中で、妹さんの夫は水が飲みたいとずっと言っていたそうで、野原さんはそっと氷を口に含ませてあげたと話していました。地震の翌朝に妹さんの夫は亡くなりました。妹さんは命が助かりましたが、病院は自家発電も水もないので、機能が成り立たなくなり、転院を迫られました。野原さんは行くあてがなく、自衛隊のヘリで相生市の病院へ運ばれました。野原さんはヘリに乗れないので自転車と電車で向かったそうです。
 
西村)妹さん夫妻のお子さんはどうなったのですか。
 
新川)小学生のお子さん2人は親戚に預けられたということです。2~3日経ってから下敷きになった両親のもとへ向かったそうですが、混乱の中で、何日後のことだったのか野原さんもはっきりと覚えてないそうです。近所の人から聞き、遺体安置所になっていた小学校に行って両親と対面しました。
 
音声・野原さん)2人の遺体を確認しました。わたし1人だったので、手当や布団をかけることもしていなかったのですが、ほかのみなさんは棺桶に遺体が入っていました。うちの両親だけ入ってない。自分で(棺桶に)入れろということなんです。簡易の棺桶を自分で作って。それを聞いたとき、父は74、母は63で亡くなって、「棺桶にも入れてもらえないのか。この人たちの人生は何だったのか」と呆然としました。そうしたら周りの人が、「僕たちがやってあげる」とやってくれました。だからわたしは棺桶に入れてないんです。寂しい人生やな、最後がこれかと。悔しかった。天災に対して怒りが出てきて。何も悪いことせずに生きてきたのに棺桶にも入れてもらえなかった。今はこうして喋りながら泣いていますがそのときは悔しくて。周りの人が良くしてくれて良かったと思います。
 
音声・新川)棺桶に入れてくださった人は...。
 
音声・野原さん)多分同じように両親や子どもを亡くした人たちです。直接の知り合いではありません。
 
西村)簡易の棺桶を自分で作って自身の手で入れたのですね...。
 
新川)呆然とする中で、同じ境遇の人たちに助けられたと。震災で亡くなられた1人1人にこのような悔しさや怒りがあったのだろうと想像しました。
 
西村)30年前の出来事ですが、昨日、今日起こったことのように怒りが伝わってきますね。
 
新川)野原さんは、両親に生かされた命だと思っています。それは地震前日の出来事に関係しているそうです。
 
音声・野原さん)一つ間違ったらわたしも亡くなっていました。わたしも実家に帰る日だったんです。17日に。両親が風邪をひいてしまって。いつもは母が張り切って料理を作ってくれるのですが、父が「風邪ひいてるから久美子は帰ってくるな」と言われて。わたしは「ご飯どうしたらいいの」って。だけどそれで助かった。わたしは母と一緒に寝ていただろうから、一緒に亡くなっていると思います。だから助けてくれたのかなと思います。その代わり、父の代わりにわたしが「人のために何かやらないと」という使命感を託されたような気がします。父は災害があったら、一番にボランティアをしている人でした。わたしたちのことよりも、ほかの人のことを大事に考える人。それがわかっているから父の代わりに私が何かしないと。父ができないのならわたしがやらんとあかんやんって。
 
西村)つらい思いをされて、わたしたちに語ってくださるのは大変なことだと思います。お父さんお母さんからの思いやパワーがあるから今に至っているのですね。
 
新川)実家で一緒に自分も命をなくしていたかもしれない。野原さんはその後、実家の跡地に自宅を再建しました。震災から数年後に会社を辞めて、書道家として活動を始めました。野原神川さんとして活動しています。野原神川さんは、その後全国で起きる災害に心を痛め、被災地への支援活動も行うようになりました。東日本大震災の後には、手書きの年賀状を送る活動を始めて、熊本地震や各地の被災地に毎年何百枚もの年賀状を手書きで書いています。その中の何人かとは今もやり取りをしています。おばあちゃんから孫へバトンタッチして続けている人も。
 
西村)温かなつながりですね。
 
新川)被災地の仮設住宅で書道教室も開いています。書と絵組み合わせた「踊書(ようしょ)」という独自の表現で、作品作りをしていて、震災についての思いや自身で詠んだ短歌を作品にすることもあるそう。作品の売り上げを被災地に寄付するチャリティー展覧会も続けています。先月も個展を開催して、売り上げは能登半島地震の被災地へ寄付するそうです。震災30年に向けて、書ではなく、立体の作品作りもしています。4年間かけて書道教室の生徒さんから集めたラップの芯で「あの日から30年」という文字を形どった大きなモニュメントを作りました。年明けから東灘区のギャラリーや自宅のアトリエで展示予定です。写真に撮ったポスターが1月中にJR摂津本山駅で展示されます。この作品に当時のことや震災を知らない世代への思いを込めたといいます。
 
音声・野原さん)震災から30年。復興をするのに時間がかかった人もいるし、すぐ復興した人もいる。いろんな人の気持ちを表現するために、表面を凹凸をつけて、30年の重みを出したかった。私もいろいろあったし、ほかの人もいろいろあったのではないかなと思って。阪神・淡路大震災という言葉を出したくなかったんです。"あの日"は神戸の震災だということを覚えておいてほしい。「あの日って何のこと?」と言う人が出てきてもいい。小さい子が「あの日って何のこと?」と言ったら、お母さんが「30年前に地震があったんだよ」と話ができたら会話になります。だから書かなかったんです。
 
西村)震災を語り継ぐきっかけになるんですね。
 
新川)"あの日"という言葉に気持ちを込めたということです。野原さんは今でも寝る前には怖くて不安になるそうです。30年前の揺れの記憶は、今でも強く残っているということです。災害が増えている中で、若い人たちのためにも地震の対策は必要だと話していました。自身の経験を胸に、書道や作品で表現しながら伝え続けています。
 
西村)きょうは、新川和賀子ディレクターからの取材報告でした。