第1471回「阪神・淡路大震災30年【1】~震災の日に生まれた命」
ゲスト:会社員の中村翼さん

西村)阪神・淡路大震災の発生から来月17日で30年となります。ネットワーク1・17では、きょうから震災30年を考えるシリーズを始めます。第1回は、「震災の日に生まれた命」。1995年1月17日に神戸で生まれ、来月30歳となる中村翼さんにスタジオに来ていただきました。
 
中村)よろしくお願いいたします。
 
西村)生まれたときのことを両親からどのように聞いていますか。
 
中村)大学の卒業論文を作るときに話を聞きました。出産予定日は地震発生の1週間後だったそうです。前日の1月16日に小さな余震があったのですが、まさかあんなに大きな地震が起こるとは思っていなかったと。寝ていると下からドンと突き上げる音とともに揺れが激しくなり、マンション10階の自宅は激しく揺れました。何が起こったかわからない中、父はお腹が大きい母の上に覆いかぶさり、そのまま母を守りながら揺れに耐えました。幸いにも家具の下敷きにならず、怪我もなく揺れが収まりました。真っ暗な中、手探りで玄関を開けて外に出たら、目の前の長田区が火事になっていました。母は「火事や!」と叫んだのですが、父は冷静に避難を開始。エレベーターは止まっていたので、階段で1階まで降りたそうです。
 
西村)出産1週間前でお腹が大きいお母さんは、地震でパニックになっている中、着の身着のままで...。
 
中村)後々聞いたら、その瞬間は僕がお腹にいることを忘れていたそうです。もうとにかく逃げるのに必死で。なんとか1階まで降りて、凍えながら、すぐ近くの小学校に避難をしました。地域住民も続々と避難をしてきました。
 
西村)逃げるとき、街はどんなようすだったのでしょう。建物が崩れた瓦礫の中を避難したのですか。
 
中村)そのへんの記憶はあまりないと言っていました。
 
西村)そこまで覚えてないですよね...。逃げるのに必死ですもんね。
 
中村)しばらくその避難所にとどまっていたのですが、母は異変を感じ、トイレに行くと破水していたそうです。父親に相談をして、通院していた三宮の病院に行くことに。何も持たずに出てきていて車の鍵がないので、父は余震の中、もう一度マンションに戻りました。
 
西村)また10階まで階段を駆け上がったのですね。
 
中村)マンションがいつ崩れるかわからない、死ぬかもしれないという恐怖心と戦いながら。母は、車で避難をしてきていた挨拶もしたことがないおばさんに声をかけられ、暖かい車内にいさせてもらったそうです。父は命からがら車の鍵を取って戻ってきて、車で三宮に向かいました。普段なら車で30分あれば着く場所ですが、信号も止まって交通も麻痺していたので、病院まで3時間もかかったそうです。
 
西村)いつ生まれてもおかしくない状況の中、3時間もかかったなんて、長かったでしょうね。お母さんの体は大丈夫だったのですか。
 
中村)陣痛の波はあったけど、移動しているときは耐えられたと。車の窓から見える神戸の街に絶句したそうです。父は、なかなか進まないので、交通整理をしていたおまわりさんに状況を伝え、歩道に誘導してもらったそうです。
 
西村)そんな中、無事に病院にたどり着いてどうなったのですか。
 
中村)病院も被災していて瓦礫だらけの状態。すぐには診てもらえずに、しばらく待っていたのですが、波が激しくなり限界が来て、先生に声をかけて見てもらったそう。中は真っ暗で分娩室なんてありません。簡易的に作った場所で懐中電灯を照らしながら、産む準備に入りました。
 
西村)懐中電灯の明かりを頼りに分娩が始まったのですね。
 
中村)自然分娩では余震の恐怖とあせりもあり、なかなか生まれなかったので、吸引分娩に切り替えました。それでなんとか地震発生12時間後の午後6時21分に僕が生まれました。
 
西村)翼さんの産声を聞いたとき、お父さんとお母さんはホっとしたでしょうね。
 
中村)泣いたと言っていました。でも父はすぐに安心感が恐怖心に変わったそうです。「自分が守らなければ」という使命感や責任感があったのだと思います。生まれたばかりの僕は、産湯もつかれずにそのまま毛布にくるまれていたそうです。
 
西村)寒い中、停電もしていて...。
 
中村)そのうち病院に避難勧告が出て、移動しなければいけなくなり、北区にある母親の兄弟の家に行って、産湯につかり一晩過ごしました。翌日、僕と母は近くの病院に入院して、父とおばあちゃんは実家の片付けに戻りました。
 
西村)その赤ちゃんが今こんなに立派になって、来月30歳になるのですね。今の話を聞いたのは21歳ぐらいとのこと。そのときはどう思いましたか。
 
中村)何度か"奇跡の子"として、メディアに取り上げてもらったときに、両親の話を部分的には聞いていたのですが、一貫した話を聞いたことはありませんでした。いろいろな人に助けてもらった話を初めて聞くことができ、両親はすごく大変な思いをしながら、僕を守るために必死になってくれたのだと知りました。そこで命の尊さや助け合いの必要性を感じ、両親の強い意志や責任感などいろんなことを初めて知ったんです。これは僕でとどめてはいけないと思いました。時が経つにつれて、震災を知らない世代もどんどん増えていきます。今後も災害が起こる中で、このような貴重な体験は伝えていかないといけない。取材を通して、その日に生まれたことに意味があるとは思っていました。物心ついてないときからカメラをむけられ、小学校の入学式にもテレビカメラが入っていました。小学校5年生から中学3年生の夏まで、岐阜県に転校し、高校に入学するために神戸に戻ってきたときがちょうど震災から15年目の節目の年で。取材を受け、当時の状況をテレビで知る中で、思春期にいろんな情報を抱え込んでいました。
 
西村)そんな葛藤がある中で、21歳のときに卒業論文をきっかけに両親から話を聞いて、今に至っているのですね。語り部活動がつながって、中村翼さんの経験が絵本になるそうですね。
 
中村)絵本「ぼくのたんじょうび」は、大学時代のゼミの恩師の発案です。防災教育をテーマに掲げたゼミで、子どもたちと触れ合う機会もあり、今の語り部としての活動にもつながっています。自分の話をする中で、何か形にしたいという想いはあって。先生のつながりで神戸市の子ども絵画教室「アトリエ太陽の子」に絵を依頼。僕がどんな人物なのかを知ってもらうために、絵画教室に通う子どもたちの前で初めて話をさせてもらいました。
 
西村)「アトリエ太陽の子」で話をしたとき、子どもたちはどんな反応でしたか。
 
中村)とても意識高く、真剣に聞いてくれたので話がいがありました。聞きながら全員がメモをとってくれて、質問もありました。
 
西村)どんな質問がありましたか。
 
中村)「お父さんやお母さんはどんな気持ちだったと思いますか?」などです。真剣に聞いてくれて、達成感がありました。そこから絵本作りがスタートしました。
 
西村)子どもたちの絵を見て、どのように感じましたか。
 
中村)僕が想像していた子どもの絵とは違って、絵画展に並ぶような絵で。魂が伝わってくる絵がシーンごとに描かれていたんです。「僕の話だけでここまで描けるんだ」という感動と驚きがありました。
 
西村)来年1月で震災から30年、翼さんは30歳になります。これからどんなふうに生きていきたいですか。
 
中村)当時、地震を経験した人も高齢になってきています。阪神・淡路大震災を受け継ぐキーパーソンになるのは、僕みたいな震災を知らない世代。僕たちが立ち上がらないと、だんだん風化していく一方です。僕は、震災の日に生まれたのでそうなって欲しくない。これからも受け継いでいかないといけないと思います。
 
西村)どんなことを伝えていきたいですか。
 
中村)「命を守る」という両親の責任感や想いがあって、今僕はここにいます。助け合いや命の尊さを大事にして、子どもたちにもそれを伝え、受け継いでいきたいと思っています。
 
西村)きょうは、震災の日に生まれた中村翼さんのお話を聞いていただきました。