第1482回「東日本大震災14年【1】3.11あの日を忘れない~南三陸町職員の慰霊碑設置」
電話:元南三陸町 副町長 遠藤健治さん

西村)2011年3月11日午後2時46分三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生し、北海道、東北、関東の沿岸を大津波が襲いました。防災の拠点として津波に備えていたはずの宮城県南三陸町防災対策庁舎にも16.5mの津波が押し寄せ、住民を避難させようと最後まで庁舎に残った職員など合わせて43人が犠牲となりました。震災から14年となる今年3月、町役場には東日本大震災で犠牲になった職員の慰霊碑が設置されます。
きょうは、この慰霊碑の設置に尽力された元副町長の遠藤健治さんにお話を聞きます。
 
遠藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)震災当時の状況を教えてください。
 
遠藤)あの日は、定例議会の開会中に地響きとともに激しい揺れが始まりました。揺れが収まるのを待って、防災服に着替えて、防災対策庁舎の2階の防災対策本部に向かいました。地震発生から3分後の揺れの大きさは震度6弱で、6mの大津波警報が発表されました。これは想定されていた宮城県沖地震とほぼ同じでしたが、その後、25分後には想定を大きく超える10m以上の大津波警報に引き上げられました。防災無線で町民に避難を呼びかけていたときに、庁舎の駐車場に津波が押し寄せてくるのを確認。全員で3階の屋上に避難しましたが、まもなく屋上の高さを超える津波が襲いかかってきて、建物全体が津波に飲み込まれてしまいました。わたしは屋上につながる階段の手すりに捕まって必死に耐えて、命をつなぐことができましたが、屋上へ避難した職員54人のうち、水が引いた後に屋上に残っていたのは、たった10人で、結果的に生き伸びたのは11人です。1人は屋上から流されている途中に畳に捕まり、庁舎の海側にある病院の建物によじ登って命をつないだのです。残念ながら43人が犠牲になりました。
 
西村)遠藤さんは手すりに捕まったから助かったのですか。
 
遠藤)津波に飲み込まれたのですが、頑丈な手すりが壊れなかったので引き潮にも耐えられました。助かった2人は、津波の襲来を観察するために、屋上の中央にあるアンテナの棒によじ登っていて濡れずにすみました。わたしや町長も含む残り8人は、1度津波に飲み込まれましたが、頑丈な階段の手すりにつかまっていたので、外に放り出されませんでした。翌朝、明るくなった屋上から見た街は、瓦礫に埋もれていて、街が消えたのかと思いました。「なぜ、どうして」という思いと、悔しさでいっぱいでした。
 
西村)津波がひいたのはどれぐらい後でしたか。
 
遠藤)津波はずっと続きます。地震発生から約47分後に16.5mの一番大きな津波が市街地を襲って、屋上を大きく超えました。しかし屋上を超えたのはその1回だけ。生き残った10人は命をつなぐためにポールに何回もよじ登りました。大変寒い日で、体は濡れていて、手はかじかんで、なかなかステンレスのポールにうまく登れないのですが、何回も必死に登りました。幸い、屋上を大きく超える津波は1回のみで、あとは朝まで津波が上げ下げしていました。夕方になり、このままでは低体温で命を落としてしまうので、3階まで津波がこなくなったことを確認して、階段のがれきを除去しながら、3階まで下りました。ポールに捕まっていた職員がたまたまライターを持っていたので、瓦礫を集めて火を灯して、その火を囲みながら夜を過ごしました。翌朝、建物から降りて近くの高台の小学校までみんなで走りました。
 
西村)遠藤さんはどんな思いで震災の復興にあたっていましたか。
 
遠藤)防災対策庁舎で亡くなった職員は33人ですが、それ以外の場所でも避難誘導等で命を落とした職員がいます。本来なら復旧・復興業務の先頭に立って、活躍するはず彼らの悔しさを胸に刻みながら、彼らの分まで頑張ろうと自分に言い聞かせながら業務にあたっていました。生き残った職員のみんなが同じ思いだったと思います。
 
西村)今月9日、犠牲になった職員の名前が刻まれた慰霊碑が町役場に設置されます。14年経った今、どのような経緯で慰霊碑が設置されることになったのですか。
 
遠藤)殉職した仲間のことを何らかの形に残したいと、同じ思いを持つ仲間と以前から語り合ってきましたが、復興事業の進捗状況、家族を失った遺族の複雑な心境を考えると、慰霊碑の具体的な取り組みについて、躊躇せざるを得ない状況でした。
 
西村)遺族からはどんな声が届きましたか。
 
遠藤)今回の震災で、わたしたちの町では831人の尊い命が失われました。町で犠牲になった人の名前を記した書物を震災復興記念公園に収めることになっていたのですが、みなさんそれぞれの防災対策庁舎に対する思いがあったと思います。そんな中、昨年7月に旧防災対策庁舎が震災遺構として、町管理のもとで恒常的に保存活用されることに。それを一つの契機に今まで思い続けてきたものをやろうということで、仲間に呼びかけ今日に至ります。
 
西村)14年という月日が経って、遺族の気持ちに変化はありましたか。
 
遠藤)最愛の家族を失った遺族の気持ちは癒えることはないと思いますが、お互いが前を向いて生活を再建しようとしています。震災の関連復興事業もほぼ完了して、新しい町で新しい生活が始まっています。今回の事業にあたって、刻銘碑に名前を刻銘することについて、遺族に意向を伺ってきましたが、ほどんどの遺族から同意をいただきました。同意書の中には、感謝の言葉を添えていただいています。その言葉に後押しされながら今頑張っています。
 
西村)慰霊碑には、どんな文字が刻まれているのですか。
 
遠藤)片面には遺族の同意を得られた職員の名前、もう片面には、今回の震災からの学びや教訓を得て、災害に強い町作りにつないでほしいという思いを込めて、「あの日を忘れない」というタイトルを刻んでいます。
 
西村)慰霊碑が作られていく過程を見守っていて、今どのような気持ちですか。
 
遠藤)今回この事業をやるにあたり、亡くなった職員たちと長い時間まち作りをともにしてきた多くの職員、退職した職員に声をかけました。みなさんに温かいお心寄せと賛同をいただいています。たくさんの人たちが仲間を追悼したいという思いを持っていたのだと確認できてうれしく思っています。
 
西村)いよいよ来週9日に慰霊碑の除幕式が行われます。
 
遠藤)町の防災活動を担っている職員たちも参加してもらいます。慰霊碑を作った思いを未来につなげてほしいですね。背負い込んできた荷をやっと下ろせるという想いです。
 
西村)わたしたちも手を合わせに行くことはできますか。
 
遠藤)もちろんです。役場の広場の一角なので、平日・祝祭日構わず、誰でも立ち寄れることができます。ぜひ訪れてください。
 
西村)きょうは、元南三陸町副町長の遠藤健治さんにお話を伺いました。