第1476回「阪神・淡路大震災30年【5】~何を伝える?どう伝える?」
取材報告:亘佐和子プロデューサー

西村)きょうは、番組プロデューサーの亘佐和子さんと一緒にお送りします。
 
亘)よろしくお願いします。
 
西村)阪神・淡路大震災30年のシリーズ5回目のテーマは「何を伝える?どう伝える?」。震災を経験していない若い世代へ、震災の記憶と教訓をどう語り継ぎ、次の災害に生かしていくのかを考えます。亘さんは「語り継ぎ」というと、どんな伝え方があると思いますか。
 
亘)わたしは、「何を伝えるか」を考えていきたいと思っています。30年前の1月17日に起こったことは、そこにいた人しか伝えられないかもしれないけれど、それを聞いた人が自分のフィルターを通して伝える内容もすごく意味のあることだと思います。
 
西村)わたしは当時中学生で大阪にいたので被災はしていません。でもこの番組でいろんな人の話を聞いて、高齢化で亡くなる人が多くなっている今、わたしもお手伝いをしたいと思いました。わたしは被災していませんが、去年から「震災を読みつなぐ会KOBE」で朗読で伝える活動に参加しています。小中学校などで、阪神・淡路大震災に関する詩や絵本の朗読を行っている団体です。自分たちで朗読するだけではなく、児童・生徒にも朗読をしてもらって、震災と向き合うきっかけ作りをしています。40~80代の22人のメンバーが参加しています。代表の下村美幸さんは、「災害の記憶を風化させてはいけない」という思いからこの団体を発足させ、今年で20周年を迎えました。1/14(火)、小学校で行われた出前朗読にはじめて参加してきました。
 
亘)はじめてだったのですね。
 
西村)神戸市西区にある神戸市立枝吉小学校の震災集会です。「震災を読みつなぐ会KOBE」では、10年以上この学校で出前朗読を行っていて、ずっと引き継ぎが行われて、ご縁がつながっているそう。代表の下村さんは長年この学校に通っているので、児童からも声をかけられて、子どもたちとハイタッチを交わしていました。体育館に集まったのは、歌や朗読の発表した4年生と5年生の児童と保護者約100人。ほかの児童は、教室で中継を見るリモート授業となりました。この日わたしが読んだのは「伝えよう」という詩。この作品は、神戸市の人権課が子どもたちに残したい言葉を募集した「子どもたちへのメッセージ集2010」に掲載されています。震災から15年目のときに寄せられた詩です。詩を読んでみますね。
 
伝えよう
 
あの日がくると知っていたら
あの地震が起きると知っていたら
大好き
ありがとう
ごめんなさい
意地を張らずに言えたのに
毎日感謝を伝えたのに
 
一緒に暮らしていると あまりに身近すぎると
いつでも言えるから いつでもよいと思っていた
でもあの日を過ぎて おばあちゃんに「明日」は来なかった
 
十五年も経ったのに 言えなかったたくさんの言葉が
雪のように心に降り積もってまだ溶けないでいる
 
だから
照れ臭くても 喧嘩してても 一緒でも 遠くにいても
相手にきちんと伝えて欲しい
大好き ありがとう ごめんなさい の言葉を
大切な人に伝えて欲しい
大切な人に必ず「明日」が来るとは限らないのだから
あの日 地震で亡くなっていった多くの人に
伝えられなかった思いの分まで

 
亘)"おばあちゃんに「明日」は来なかった"のところにドキッとさせられました。子どもたちはどんなようすで聞いていましたか。
 
西村)真剣な眼差しで静かにこちらをじっと見つめて聞いてくれていました。被災経験のないわたしでも、伝えることができたのでしょうか。この日、体育館で聞いてくれていた4年生の女の子が感想を話してくれました。
 
音声・女の子)普段言えないこと、言いづらいことはあると思うけど、それを言わずに、地震が起きて、言いたかったことを言えないままその人が亡くなったら後悔する。(言いたいことを)言えるときに言った方がいいと感じました。これからも身近な人にいろんなことを伝たえられたらと思います。
 
西村)うれしい言葉をいただきました。被災したみなさんの思いを読みつないで、これからも届けていきたいと思います。「震災を読みつなぐ会KOBE」は1/26(日)に「朗読でつづる震災手記のつどい」を兵庫県立美術館KOBELCOミュージアムホールで開催します。午後1時30分開演。入場無料。わたしも出演します。みなさまぜひお越しください。続いては、亘さんのリポートです。
 
亘)わたしは震災でお子さん2人を亡くした米津勝之さんの話をします。米津さんは、芦屋市で被災しました。当時小学1年生だった長男・漢之(くにゆき)くんと、幼稚園に通っていた長女・深理(みり)ちゃんを亡くしました。米津さんはいろいろな学校で子どもたちに震災を語っています。子どもたちと対話をして、子どもたちの声から米津さん自身が新たな気づきを得ています。だから語る内容は年を経て変化していきます。1/15(水)に芦屋市立山手小学校の1年生に米津さんが話をしたときのようすを紹介します。リスナーのみなさんも子どもたちと一緒に考えてみてください。
 
音声・米津さん)きょうは、みんなに見てもらいたいものがあります。これは何ですか。
 
音声・子ども)ランドセル!
 
音声・米津さん)誰の?
 
音声・子ども)くにゆきくん!
 
音声・米津さん)そうやな。くにゆきは、当時、精道小学校の1年1組でした。これはくにゆきが背負っていたランドセルです。ランドセルの中は、30年前の1月16日の時間割のままになっています。これはくにゆきが使っていた筆箱。鉛筆は1月16日に削ったままになっています。1月17日が普通にくると思って前の日に削ったまま。ここで考えてほしい。この筆箱の時間はどうなってる?
 
音声・子ども)めっちゃ時間経ってる!
  
音声・米津さん)時間たってるよな?でも筆箱の時間は?変わってないよな。それってどういうこと?
 
音声・子ども)そのまま!
 
音声・米津さん)そう!そのまま。筆箱の時間は止まってんねん。30年前の1月17日から。

  
西村)小学1年生と対話していますね。
 
亘)そうですね。たくさん手があがっていました。「1年生には難しいかな?」と思いながら見ていたのですが、子どもたちの真剣な表情に圧倒されて感動しました。このランドセルの話には続きがあります。筆箱の時間は止まっているのですが、ランドセルの時間は止まらなかったんです。
 
西村)どういうことですか。
 
亘)1年生で亡くなったくにゆきくんは、ランドセルを9~10ヶ月しか背負えなかったけど、ランドセルはボロボロになっている。米津さんはそれを子どもたちに見せます。なぜこんなボロボロになっているのか。震災の後に生まれた弟の凛(りん)くんが6年間このランドセルを背負ったからです。りんくんが小学校に入るときに、「新しいランドセルを買う?お兄ちゃんが使っていたランドセルを背負う?」と米津さんがりんくんに聞いたら、りんくんは、「お兄ちゃんの使う」と答えました。その話は、「にいちゃんのランドセル」という本になり、歌にもなりました。りんくんがランドセルを使い終わったあと、再び亡くなったくにゆきくんの教科書や筆箱を入れました。
米津さんはさらに子どもたちに問いかけます。「このランドセルには何が入っている?」と。クラスで話し合って何が入っているか考えて、お手紙をくださいと。くにゆきくんが1年間背負えなかったランドセル。そのあとに生まれた弟のりんくんが6年間背負ったランドセル。くにゆきくんとりんくんのいろいろな想いがそこには詰まっています。米津さんの話が終わったあと、「ランドセルを見せてほしい!」と、校長室まで追いかけてきた子どもたちがいました。米津さんはランドセルを見せてあげました。中には、当時の教科書が入っていて、「自分たちが今使っている教科書と同じだ!」と話していました。
 
西村)30年の時が近づいたのですね。
 
亘)このような対話を踏まえて、子どもたちはこのランドセルの意味を考えると思います。リスナーのみなさんもぜひ、「このランドセルには何が入っている?」という問いについて考えてみてください。災害で人が突然亡くなるということの残酷さ。亡くなった人の思いを受け継いで生きること。いろんなことを考えさせられます。語り継ぐというのは、一方的な作業ではなく、語り手と受け手のキャッチボールの積み重ねの中で立ち上がって育っていくものだと、米津さんの授業を聞いて思いました。
 
西村)私も大切にしたいです。
 
亘)米津さんは東日本大震災で被害を受けた東北でも語り部をしています。全国トップクラスの実力を持つ音楽部がある岩手県立不来方高校とも交流を重ねてきました。不来方高校の音楽部員が全国ツアーを行うのですが、2月24日(月・祝)に西宮市民会館でファイナルコンサートを行います。
 
西村)西宮に来るのですね!
 
亘)米津さんも特別出演します。不来方高校と阪神・淡路大震災の被災地である兵庫県立神戸高校の合唱部が一緒に「兄ちゃんのランドセル」「幸せはこべるように」を歌います。入場無料。関心のある人はぜひ聴きに行ってください。そして、災害や復興、語り継ぐことについて思いをめぐらせていただきたいと思います。
 
西村)ありがとうございました。亘佐和子プロデューサーのリポートでした。

第1475回「阪神・淡路大震災30年【4】~地震火災」
オンライン:元神戸市消防局長 鍵本敦さん

西村)阪神・淡路大震災の発生から17日で30年になります。当時、神戸市では大規模な火災が発生しました。地震が原因とみられる火災は285件にのぼり、119番が鳴り止むことはなかったそうです。なぜここまで大規模な火災が起きてしまったのか。震災当時、長田消防署に勤務していた元神戸市消防局長の鍵本敦さんにお聞きします。
 
鍵本)よろしくお願いいたします。
 
西村)もうすぐ阪神・淡路大震災の発生から30年になります。地震発生当時のことを教えてください。
 
鍵本)当時、神戸市消防局の長田消防署で勤務をしていました。32歳で消防指令になって2年目の年でした。1月16日の9時半から1月17日の9時半まで、24時間の当直勤務中に地震にあいました。朝5時頃に消防署の2階の仮眠室で、朝まで仮眠をとろうとゴロンと寝転んでいたときです。突然ドーンという衝撃音がして、消防署にトラックが突っ込んできたのかと思いました。その後、強烈な横揺れがあり、室内のロッカーがスーッと滑っていきました。大きな地震はほとんど経験したことがなかったので、震度7の揺れにど肝を抜かれました。
 
西村)すぐ外に出たのですか。
 
鍵本)地震の揺れが強烈だったので、建物の中にいるのは危険と判断。揺れが収まってから、部隊と一緒に消防車両で庁舎の外に出ました。
 
西村)そこにはどんな景色が広がっていましたか。
 
鍵本)真っ赤な炎が燃え盛っていました。約200平米が爆発したように燃えていました。普通の火災なら徐々に火が大きくなって、15分後くらいに外へ火が噴き出しますが、すぐに火があがっていました。最初は2ヶ所の現場に消防車を分散させ火を消そうとしましたが、信号も消えていて真っ暗でした。
 
西村)まだ明け方のことでしたものね。
 
鍵本)通常の火災現場は騒然となっているものですが、すごく静かでした。突然の地震で、みなさん着の身着のままに避難していました。何人か人は見えましたが、車も通っていなくて、町が死んでしまったようでした。火災現場の近くの女性が「お父さんが家の下敷きになっているので助けてください!」と言っていたのを覚えています。
 
西村)消防署には何件ぐらいの通報が来ましたか。
 
鍵本)取りきれないぐらいです。当時は118回線の電話を受ける体制を整えていましたが、電話は鳴り止みませんでした。
 
西村)そんな中で鍵本さんはどうしたのですか。
 
鍵本)長田消防署の当直責任者という立場で現場を回りました。長田消防署のポンプ車5台をフル稼働して、早期に火災を抑えようと動きました。既に10件以上の火事が起こっていました。延焼危険度の高い地域から早く消火しなければなりません。市場や商店街など家と家の間の距離が小さいところは、普段でも延焼危険度が高いので、早く消火しないと手がつけられなくなります。
 
西村)火を消すときには水は使えたのですか。
 
鍵本)断水していて水道消火栓が使えないので、地面の下の防火水槽の水で消火活動をせざるを得ない状況でした。
 
西村)水は足りたのでしょうか
 
鍵本)名古屋や静岡あたりには、地震に対応する防火水槽がたくさんありましたが、「神戸には地震があまりこない」と行政も市民も思っていたので、防火水槽が少なかった。川、海、学校のプールなど町中のありとあらゆる水を求めて、ポンプ車を移動させて消火しなければなりません。非常に厳しい条件の中で消火活動にあたりました。
 
西村)海や川からの給水は対策されていたのですか。
 
鍵本)以前から大きな工場火災などでは、消防艇で海の水を陸へ引っ張っていました。実際の現場を経験したこともあります。
 
西村)普段から訓練はしていたのですか。
 
鍵本)実践がありました。神戸は海に面しているのでそのようなノウハウはありました。
 
西村)消火しているときも、目の前には倒壊した家の下敷きになっている人々がいたのですよね。
 
鍵本)消火活動をしながら、近隣で救助ができそうな場面があれば救助活動にも携わりました。ほとんどの木造の家屋の2階が1階に落ちてしまっていて、簡単に救出できる現場はほとんどありませんでした。重機がないと救助できない状況。消火をしていたら、「こっちの救助に来てくれ!」と引っ張りだこになっていました。
 
西村)30年前の震災の教訓をこれからに活かしていかなければなりません。鍵本さんはどのように考えますか。
 
鍵本)長田区は地震による火災の影響が特に大きかったエリアです。同時多発の火災が起こり、消防隊の数より上回る火災件数があったので、消防隊だけではどうしようもありません。消防団や地域の自主防災組織にも初期消火をお手伝いしてもらわなければなりません。
 
西村)わたしたちがこれからできることはありますか。
 
鍵本)地震が起こったときに、まず火を出さないということが大事です。
 
西村)そのためにはどんな備えをしたら良いですか。
 
鍵本)建物が壊れて火が出ているパターンが多いので、まずは耐震化が大切です。今の新築の建物は、すべて耐震化されていますが、耐震補強をして家が潰れないようにするのが大前提。それによって火事も閉じ込めも防ぐことができます。そして、火災を起こさないことも大事。日本の電化製品は、転倒すると電気が遮断されます。関東大震災などの教訓を踏まえて改良されています。阪神・淡路大震災では、町のいたるところでガス漏れが起こっている中、電気による通電火災が注目されました。
 
西村)通電火災とは、どのようにして起こるのですか。
 
鍵本)大規模な停電が起こると、電力会社が停電エリアを探るために1~2分後に電気を通します。変電所に近いエリアから順番に送電して、停電エリアを探るメカニズムがあるそうです。そのときにブレーカーの電線が不安定な状況になっていたら、ガスに引火して燃えてしまいます。停電後の復旧作業の際、それぞれの家の電化製品の状況がわからない中、電気を通してしまうと、ストーブの上の布団や洗濯物に引火して火事になることも。地震が起こると家の中の電気を遮断する感震ブレーカーをつけておけば、通電火災を防ぐことができます。
 
西村)我が家の実家は古いので、改めて確認しておきたいと思います。鍵本さんが震災の教訓を未来に生かしたいことは何ですか。
 
鍵本)30年経って教訓の伝承は課題となっています。日本はどこで地震が起こってもおかしくありません。市民1人1人、企業が日本は地震国であるいうことを自分ごととして捉えてほしい。さまざまな備え、周りとの連携をしていきましょう。日本人全員が未来への責任として、過去の大きな自然災害を伝承することが、国民の未来への責務と言えると思います。
 
西村)ありがとうございました。阪神・淡路大震災30年のシリーズ4回目は、元神戸市消防局長の鍵本敦さんにお話を伺いました。

第1474回「阪神・淡路大震災30年【3】~がんばろうKOBE」
ゲスト:俳優 堀内正美さん

西村)阪神・淡路大震災の発生から今月17日で30年になります。誰もが一度は聞いたことのある「がんばろうKOBE」というスローガンは、俳優の堀内正美さんが、当時のラジオ番組で「がんばろうよ、神戸」と呼びかけたことがきっかけとなりました。また堀内さんは、震災発生当初からいち早く被災した人たちの支援を行い、東遊園地にある犠牲者を追悼する「1・17希望の灯」の設置にも取り組みました。
きょうは、堀内正美さんに30年前のあの日のことをお聞きします。
 
堀内)よろしくお願いいたします。
 
西村)阪神・淡路大震災の当時、堀内さんはおいくつでしたか。
 
堀内)44歳でした。
 
西村)あれから30年がたち、1月17日が近づいてきました。当時のことを思い出しますか。
 
堀内)未だにご遺族、震災で亡くなられたご家族の相談を受けるので、僕にとっては30年前も今も変わりません。
 
西村)阪神・淡路大震災の発生当時、堀内さんはどこで何をしていましたか。
 
堀内)神戸市北区の新興住宅地に住んでいました。ちょうど神戸に来て11年目でした。
 
西村)5時46分、神戸市北区の自宅でどんなふうに地震を感じましたか。
 
堀内)家族4人で寝ていたら、地底から突き上げられて、ドーンと体が浮くような感覚がありました。何か爆発したのかなと。すると南西から巨大な鉄の玉がゴロゴロと迫ってくるような音がして、その音がどんどん近づいてきて、家の下に来たら、家がバリバリと揺れました。そのときに地震だと思いました。とにかく逃げ道を確保しようと動きました。
 
西村)ご家族は無事でしたか。
 
堀内)家族は無事でした。自宅周辺は震度6ぐらい。死ぬかと思うくらいの恐怖でした。
 
西村)周りの景色はどのようになっていましたか。
 
堀内)新しい家が多かったので、町内のようすは変わっていませんでしたが、地面のコンクリートはひび割れていました。
 
西村)神戸市長田区のようすも見えましたか。
 
堀内)長田区の町が山間から見えました。火災で白い煙が数本上がっていました。友人が長田区にたくさんいるので、とにかく行かなければ、と向かいました。想像を絶する光景に出会って、これは夢じゃないかと思いました。ほっぺたをつねって、嘘だろうと涙があふれました。俳優はドラマのとき、目尻や目頭から涙を流すのですが、涙って目頭から目尻までナイアガラの滝のように流れるんです。
 
西村)そんな涙流したことないです...。
 
堀内)茫然自失としているときに「何をぼーっとしているんだ!早く手伝え!」と怒鳴られました。みんな倒壊している家から人を助け出しているんです。僕は何をしていいのかわからなかった。寒かったので、僕は手袋やマフラー、コートを身につけていましたが、助けている人たちは浴衣やステテコ姿。靴も満足にはいていませんでした。
 
西村)裸足で飛び出してきたのですね。
 
堀内)倒壊した家から出てきて、近隣の人を助けようとして。手は泥だらけで血を流していました。そこに加わって一緒に救助活動をしました。
 
西村)お手伝いをしたとき、どんな気持ちでしたか。
 
堀内)「助けて!助けて!」といろんな声が聞こえました。とにかくみんなでやるしかない。そんな中、どうしても助けられない人もいました。
 
西村)それが震災当日。その後はどうしたのですか。
 
堀内)自宅でご飯を炊いて作ったおにぎりや缶詰を集めて届けました。19日の昼ぐらいまで個人的に動いていました。僕は須磨海岸にあったラジオ関西で早朝番組のパーソナリティを週1回やっていました。ラジオ関西では、アナウンサーではない人がマイクの前で喋っていて。当時のラジオには、リクエスト電話というものがあって、そこに安否情報がくるんです。リスナーはラジオ局の電話番号は覚えているんです。
 
西村)"電リク"で毎日電話をかけていたからですね。
 
堀内)「息子がいない」「わたしは今、〇〇小学校の体育館にいます」「〇〇さん、お母さんが〇〇にいますよ」などの昼夜を問わず届く安否情報をマイクで発信し続けていました。ラジオ局に着くとビルもスタジオもぐちゃぐちゃ。震災当日のアナウンサーに「堀内さん絶対来ちゃダメ」と言われていました。いつ崩れるかわからなくて危険だと。ラジオは、被災者へ情報を冷静にきちんと流していたので、そこまでひどいと思わなかった。13階建ての2階にあった4つスタジオの内、3つのスタジオがぐちゃぐちゃでした。1つのスタジオで何とか収録をしました。リクエスト電話がガンガン鳴っていました。建物は危険で怖かったですが、マイクの前に立ち続けました。
 
西村)被災した人の声を聞き、マイクの前で喋るということを続けたのですね...。
 
堀内)夕方ぐらいから夜の11時ぐらいまでずっと。
 
西村)堀内さんは、みなさんにどんな言葉をかけたのですか。
 
堀内)電話が5~6台あるところで電話を受けるのですが、かけてくる人たちは、なかなか電話を切れないんですよ。やっとつながった電話だから。「わかりました!お伝えしますね」と言っても切れない。僕が「とにかくがんばりましょう。怖いけどね。1人じゃないから、みんなで頑張りましょうね!」と言うと、「わかりました。がんばります!」と電話が切れるんです。「"がんばりましょうね"と言うと電話が切れるよ」とほかの電話を受けている人に伝えました。それから「がんばりましょうね」と声をかけると電話が切れるようになったんです。みんな無意識のうちに、前向きな姿勢があるのだと思いました。「がんばろう」は、そういう言葉なのだと気づきました。マイクの前で、「みなさん、神戸はこのまま沈没するわけじゃない。必ず全国から支援に来てくれるからそれまでがんばりましょう。1人じゃない。見ず知らずの人でも隣の人と手をつないでください。わたしたちの町なんだからがんばりましょう」とマイクの前で言い続けました。
 
西村)それが「がんばろうKOBE」というスローガンにつながっていったのですね。
 
堀内)僕がラジオを通して発信したから、僕が生み出したような言葉になっていますが、町ではみなさんが「がんばりましょうね」という言葉を使っていたと思います。
 
西村)"がんばれ"KOBEじゃないんですね
 
堀内)"がんばろう"です。「ともに忍耐して努力しよう」と無意識のうちにみなさんが使っていた言葉だと思います。
 
西村)「がんばろうKOBE」はオリックスも掲げていましたね。阪神・淡路大震災はボランティア元年と言われています。どんなお手伝いをしたのですか。
 
堀内)僕は、被災者からダイレクトにかかってくる電話を受けていたから、被災者がどんなものを必要としているかがある程度わかっていました。「食べ物が欲しい」「寒い」「精神的に苦しい」などです。ラジオ関西はエリアが近畿圏なので、そこだけで流していてもしょうがない。そのような情報を全国のネットワークに流してもらいました。僕は自分の特性として"つなぐ"ことができる。できることをやろうと北区にスペースを借りて、「がんばろうKOBE」という名前をつけ、被災者同士が自らみんなで助け合う場所をつくりました。
 
西村)悲しみに暮れる毎日を送るだけではなく、1人に1人役割があって。
 
堀内)復旧・復興に向かって長いプロセスになるから、できることを探せるようにしました。「がんばろうKOBE」のスペースには被災地が必要としている情報(「米が欲しい」「お湯が欲しい」「ブルーシートが欲しい」など)を貼り出しました。そのスペースに来た人たちが自分たちでニーズとシーズを結びつけて、支援できる仕組みを作りました。行政が何かをしてくれるのを待つという人もいましたが、行政も被災しています。
 
西村)具体的にはどんな活動がありましたか。
 
堀内)ずっと電話番をしている主婦の人は「わたしは電話が好きなんです。家では主人にいつも怒られるんです。長電話で...」と言っていました。
 
西村)そういうことでも役に立つわけですね。お手伝いになるし、心の支えにもなる。ボランティアは誰でもできるのですね。
 
堀内)そこが一番大事。仮設住宅は当たる人と当たらない人が出てくる。それでギクシャクしますとね。そのとき僕は、引っ越しプロジェクトを作りました。仮設住宅に当選した人の荷物をみんなで運ぶんです。
 
西村)それなら私でもできそう!
 
堀内)最初は「自分は当たってないのになぜ運ばなければならないの?」と言われました。でもそこでお手伝いをしたら、いずれ自分が当たったときに誰かがお手伝いしてくれます。支給される美味しくない弁当も汗を流せば、美味しくなる。待っていても始まらない。
 
西村)動ける人は動いていくことが希望へとつながって、自ら希望を生み出していくきっかけになるのですね。そんなかたちを堀内さんがコーディネートしたのですね。
 
堀内)仮設住宅に入ったら、役所が被災者の面倒を全部見なければならないという前提でしたが、僕はそうではないと思いました。住まいは変わっても、ここから一歩踏み出さなければならない。みんなの意見をまとめて役所にお願いし、できないことはボランティアがやる形で自治会作りもしました。
 
西村)みんなができることを持ち寄ると大きな輪になり、希望になる。これは30年経った今も同じです。わたしたち1人1人が心に留めておきましょう。
きょうは、俳優の堀内正美さんにお話を伺いました。

第1472回「阪神・淡路大震災30年【2】両親を亡くした書道家~父から継いだもの」
取材報告:新川和賀子ディレクター

西村)先週から阪神・淡路大震災30年の特集をお送りしています。
きょうは、震災でご家族を亡くした遺族を取材したディレクターがお伝えします。新川和賀子ディレクターです。
 
新川)よろしくお願いいたします。震災で両親(父・幸助さん73歳、母・範子さん64歳)と義理の弟を亡くした、野原久美子さんを取材しました。野原さんは、書道家の野原神川さんとしても活動しています。野原さんは震災当時39歳。野原さんと家族が地震にあったのは神戸市東灘区本山中町で、多くの家屋が崩れた地区です。JR摂津本山駅から東に徒歩10分ほどのところです。30年前の11月17日の朝、一人暮らしのマンションで野原さんは下から突き上げるような揺れを感じました。地震とは思わなかったそうです。外に出て、鉄筋コンクリートの丈夫なマンションが傾いているのを見て、これはただ事ではないと近所の木造家屋に住む両親のもとに向かいました。
 
音声・野原さん)実家のひと筋手前ぐらいからもう家がないんです。ほとんどみんな崩れていて。古い住宅地だったので。崩れていて、何もないから遠くから自分の家がないのがよくわかったんです。そのときにもう両親は亡くなっていると思いました。そこから両親と近所に住む妹の家族のもとへ行きました。妹の子ども2人は助かったのですが、妹の主人と妹は生き埋めになりました。
 
新川)まさかの光景が目の前に広がっていて、すぐに両親が亡くなっていると思ったのですね。
 
西村)このときの思い、その後の状況を聞いています。
 
音声・新川)その光景を見たときはどんな思いでしたか。
 
音声・野原さん)涙も出なかった。自分で直視できなかった。これは夢の中の出来事じゃないかって。周りに泣いている人もいなかったし、みんな淡々と静かだったんです。それが気持ち悪いですよね。悲惨な出来事が起きているにも関わらず、周りがすごく静かで。普通だったら泣いている人や叫んでいる人がいるははずなのに。夢みたいな感じでした。泣かなかったというか、泣けなかった。両親は絶対助かっていないと思っているから、生きている妹と妹の主人を助けたいのに誰も来ない。自分でやるしかない。アパートの大家さんが電ノコを持ってきてくれて、床をはぎました。近所のお兄さんが手伝ってくれて2~3時間かかったかな。
 
音声・新川)その間に生き埋めになっている妹さん夫婦に声をかけましたか。
 
音声・野原さん)ずっと声をかけていました。水が欲しいと言っているから、水を探しに行って。2~3時間たって妹たちを救助しました。担架がないのでどうしたと思います?近所の壊れた家に入って、ふすまを持ってきたんです。申し訳ないけどね。3人ぐらいで近所の本山第三小学校に2人を運んで。その時、天気が良すぎてね。天気の良さと下で起こっている悲惨さのアンバランスがわたしの中で、非常に記憶に残っています。こんなんやったら雨降ってた方がマシって。あの日は天気が良かった。雲一つなくてね。しばらくして、クリーニング屋さんの車で2人を甲南病院に連れて行きました。中は戦争のようでした。ストレッチャーに乗っている人はまだまし。地べたにダンボールをひいて寝ている人もいっぱいいて。妹はストレッチャーに乗ってはいたのですが廊下にいました。妹の主人は病室のベッドとベッドの間にストレッチャーを入れて。人で一杯でした。廊下で手術をしているんです。その間にも余震がきて、みんな怖がっていました。甲南病院は山の上にあるので下がよく見えるんです。火事があちこちでおこっていました。
 
新川)混乱する病院の中で、妹さんの夫は水が飲みたいとずっと言っていたそうで、野原さんはそっと氷を口に含ませてあげたと話していました。地震の翌朝に妹さんの夫は亡くなりました。妹さんは命が助かりましたが、病院は自家発電も水もないので、機能が成り立たなくなり、転院を迫られました。野原さんは行くあてがなく、自衛隊のヘリで相生市の病院へ運ばれました。野原さんはヘリに乗れないので自転車と電車で向かったそうです。
 
西村)妹さん夫妻のお子さんはどうなったのですか。
 
新川)小学生のお子さん2人は親戚に預けられたということです。2~3日経ってから下敷きになった両親のもとへ向かったそうですが、混乱の中で、何日後のことだったのか野原さんもはっきりと覚えてないそうです。近所の人から聞き、遺体安置所になっていた小学校に行って両親と対面しました。
 
音声・野原さん)2人の遺体を確認しました。わたし1人だったので、手当や布団をかけることもしていなかったのですが、ほかのみなさんは棺桶に遺体が入っていました。うちの両親だけ入ってない。自分で(棺桶に)入れろということなんです。簡易の棺桶を自分で作って。それを聞いたとき、父は74、母は63で亡くなって、「棺桶にも入れてもらえないのか。この人たちの人生は何だったのか」と呆然としました。そうしたら周りの人が、「僕たちがやってあげる」とやってくれました。だからわたしは棺桶に入れてないんです。寂しい人生やな、最後がこれかと。悔しかった。天災に対して怒りが出てきて。何も悪いことせずに生きてきたのに棺桶にも入れてもらえなかった。今はこうして喋りながら泣いていますがそのときは悔しくて。周りの人が良くしてくれて良かったと思います。
 
音声・新川)棺桶に入れてくださった人は...。
 
音声・野原さん)多分同じように両親や子どもを亡くした人たちです。直接の知り合いではありません。
 
西村)簡易の棺桶を自分で作って自身の手で入れたのですね...。
 
新川)呆然とする中で、同じ境遇の人たちに助けられたと。震災で亡くなられた1人1人にこのような悔しさや怒りがあったのだろうと想像しました。
 
西村)30年前の出来事ですが、昨日、今日起こったことのように怒りが伝わってきますね。
 
新川)野原さんは、両親に生かされた命だと思っています。それは地震前日の出来事に関係しているそうです。
 
音声・野原さん)一つ間違ったらわたしも亡くなっていました。わたしも実家に帰る日だったんです。17日に。両親が風邪をひいてしまって。いつもは母が張り切って料理を作ってくれるのですが、父が「風邪ひいてるから久美子は帰ってくるな」と言われて。わたしは「ご飯どうしたらいいの」って。だけどそれで助かった。わたしは母と一緒に寝ていただろうから、一緒に亡くなっていると思います。だから助けてくれたのかなと思います。その代わり、父の代わりにわたしが「人のために何かやらないと」という使命感を託されたような気がします。父は災害があったら、一番にボランティアをしている人でした。わたしたちのことよりも、ほかの人のことを大事に考える人。それがわかっているから父の代わりに私が何かしないと。父ができないのならわたしがやらんとあかんやんって。
 
西村)つらい思いをされて、わたしたちに語ってくださるのは大変なことだと思います。お父さんお母さんからの思いやパワーがあるから今に至っているのですね。
 
新川)実家で一緒に自分も命をなくしていたかもしれない。野原さんはその後、実家の跡地に自宅を再建しました。震災から数年後に会社を辞めて、書道家として活動を始めました。野原神川さんとして活動しています。野原神川さんは、その後全国で起きる災害に心を痛め、被災地への支援活動も行うようになりました。東日本大震災の後には、手書きの年賀状を送る活動を始めて、熊本地震や各地の被災地に毎年何百枚もの年賀状を手書きで書いています。その中の何人かとは今もやり取りをしています。おばあちゃんから孫へバトンタッチして続けている人も。
 
西村)温かなつながりですね。
 
新川)被災地の仮設住宅で書道教室も開いています。書と絵組み合わせた「踊書(ようしょ)」という独自の表現で、作品作りをしていて、震災についての思いや自身で詠んだ短歌を作品にすることもあるそう。作品の売り上げを被災地に寄付するチャリティー展覧会も続けています。先月も個展を開催して、売り上げは能登半島地震の被災地へ寄付するそうです。震災30年に向けて、書ではなく、立体の作品作りもしています。4年間かけて書道教室の生徒さんから集めたラップの芯で「あの日から30年」という文字を形どった大きなモニュメントを作りました。年明けから東灘区のギャラリーや自宅のアトリエで展示予定です。写真に撮ったポスターが1月中にJR摂津本山駅で展示されます。この作品に当時のことや震災を知らない世代への思いを込めたといいます。
 
音声・野原さん)震災から30年。復興をするのに時間がかかった人もいるし、すぐ復興した人もいる。いろんな人の気持ちを表現するために、表面を凹凸をつけて、30年の重みを出したかった。私もいろいろあったし、ほかの人もいろいろあったのではないかなと思って。阪神・淡路大震災という言葉を出したくなかったんです。"あの日"は神戸の震災だということを覚えておいてほしい。「あの日って何のこと?」と言う人が出てきてもいい。小さい子が「あの日って何のこと?」と言ったら、お母さんが「30年前に地震があったんだよ」と話ができたら会話になります。だから書かなかったんです。
 
西村)震災を語り継ぐきっかけになるんですね。
 
新川)"あの日"という言葉に気持ちを込めたということです。野原さんは今でも寝る前には怖くて不安になるそうです。30年前の揺れの記憶は、今でも強く残っているということです。災害が増えている中で、若い人たちのためにも地震の対策は必要だと話していました。自身の経験を胸に、書道や作品で表現しながら伝え続けています。
 
西村)きょうは、新川和賀子ディレクターからの取材報告でした。

第1471回「阪神・淡路大震災30年【1】~震災の日に生まれた命」
ゲスト:会社員の中村翼さん

西村)阪神・淡路大震災の発生から来月17日で30年となります。ネットワーク1・17では、きょうから震災30年を考えるシリーズを始めます。第1回は、「震災の日に生まれた命」。1995年1月17日に神戸で生まれ、来月30歳となる中村翼さんにスタジオに来ていただきました。
 
中村)よろしくお願いいたします。
 
西村)生まれたときのことを両親からどのように聞いていますか。
 
中村)大学の卒業論文を作るときに話を聞きました。出産予定日は地震発生の1週間後だったそうです。前日の1月16日に小さな余震があったのですが、まさかあんなに大きな地震が起こるとは思っていなかったと。寝ていると下からドンと突き上げる音とともに揺れが激しくなり、マンション10階の自宅は激しく揺れました。何が起こったかわからない中、父はお腹が大きい母の上に覆いかぶさり、そのまま母を守りながら揺れに耐えました。幸いにも家具の下敷きにならず、怪我もなく揺れが収まりました。真っ暗な中、手探りで玄関を開けて外に出たら、目の前の長田区が火事になっていました。母は「火事や!」と叫んだのですが、父は冷静に避難を開始。エレベーターは止まっていたので、階段で1階まで降りたそうです。
 
西村)出産1週間前でお腹が大きいお母さんは、地震でパニックになっている中、着の身着のままで...。
 
中村)後々聞いたら、その瞬間は僕がお腹にいることを忘れていたそうです。もうとにかく逃げるのに必死で。なんとか1階まで降りて、凍えながら、すぐ近くの小学校に避難をしました。地域住民も続々と避難をしてきました。
 
西村)逃げるとき、街はどんなようすだったのでしょう。建物が崩れた瓦礫の中を避難したのですか。
 
中村)そのへんの記憶はあまりないと言っていました。
 
西村)そこまで覚えてないですよね...。逃げるのに必死ですもんね。
 
中村)しばらくその避難所にとどまっていたのですが、母は異変を感じ、トイレに行くと破水していたそうです。父親に相談をして、通院していた三宮の病院に行くことに。何も持たずに出てきていて車の鍵がないので、父は余震の中、もう一度マンションに戻りました。
 
西村)また10階まで階段を駆け上がったのですね。
 
中村)マンションがいつ崩れるかわからない、死ぬかもしれないという恐怖心と戦いながら。母は、車で避難をしてきていた挨拶もしたことがないおばさんに声をかけられ、暖かい車内にいさせてもらったそうです。父は命からがら車の鍵を取って戻ってきて、車で三宮に向かいました。普段なら車で30分あれば着く場所ですが、信号も止まって交通も麻痺していたので、病院まで3時間もかかったそうです。
 
西村)いつ生まれてもおかしくない状況の中、3時間もかかったなんて、長かったでしょうね。お母さんの体は大丈夫だったのですか。
 
中村)陣痛の波はあったけど、移動しているときは耐えられたと。車の窓から見える神戸の街に絶句したそうです。父は、なかなか進まないので、交通整理をしていたおまわりさんに状況を伝え、歩道に誘導してもらったそうです。
 
西村)そんな中、無事に病院にたどり着いてどうなったのですか。
 
中村)病院も被災していて瓦礫だらけの状態。すぐには診てもらえずに、しばらく待っていたのですが、波が激しくなり限界が来て、先生に声をかけて見てもらったそう。中は真っ暗で分娩室なんてありません。簡易的に作った場所で懐中電灯を照らしながら、産む準備に入りました。
 
西村)懐中電灯の明かりを頼りに分娩が始まったのですね。
 
中村)自然分娩では余震の恐怖とあせりもあり、なかなか生まれなかったので、吸引分娩に切り替えました。それでなんとか地震発生12時間後の午後6時21分に僕が生まれました。
 
西村)翼さんの産声を聞いたとき、お父さんとお母さんはホっとしたでしょうね。
 
中村)泣いたと言っていました。でも父はすぐに安心感が恐怖心に変わったそうです。「自分が守らなければ」という使命感や責任感があったのだと思います。生まれたばかりの僕は、産湯もつかれずにそのまま毛布にくるまれていたそうです。
 
西村)寒い中、停電もしていて...。
 
中村)そのうち病院に避難勧告が出て、移動しなければいけなくなり、北区にある母親の兄弟の家に行って、産湯につかり一晩過ごしました。翌日、僕と母は近くの病院に入院して、父とおばあちゃんは実家の片付けに戻りました。
 
西村)その赤ちゃんが今こんなに立派になって、来月30歳になるのですね。今の話を聞いたのは21歳ぐらいとのこと。そのときはどう思いましたか。
 
中村)何度か"奇跡の子"として、メディアに取り上げてもらったときに、両親の話を部分的には聞いていたのですが、一貫した話を聞いたことはありませんでした。いろいろな人に助けてもらった話を初めて聞くことができ、両親はすごく大変な思いをしながら、僕を守るために必死になってくれたのだと知りました。そこで命の尊さや助け合いの必要性を感じ、両親の強い意志や責任感などいろんなことを初めて知ったんです。これは僕でとどめてはいけないと思いました。時が経つにつれて、震災を知らない世代もどんどん増えていきます。今後も災害が起こる中で、このような貴重な体験は伝えていかないといけない。取材を通して、その日に生まれたことに意味があるとは思っていました。物心ついてないときからカメラをむけられ、小学校の入学式にもテレビカメラが入っていました。小学校5年生から中学3年生の夏まで、岐阜県に転校し、高校に入学するために神戸に戻ってきたときがちょうど震災から15年目の節目の年で。取材を受け、当時の状況をテレビで知る中で、思春期にいろんな情報を抱え込んでいました。
 
西村)そんな葛藤がある中で、21歳のときに卒業論文をきっかけに両親から話を聞いて、今に至っているのですね。語り部活動がつながって、中村翼さんの経験が絵本になるそうですね。
 
中村)絵本「ぼくのたんじょうび」は、大学時代のゼミの恩師の発案です。防災教育をテーマに掲げたゼミで、子どもたちと触れ合う機会もあり、今の語り部としての活動にもつながっています。自分の話をする中で、何か形にしたいという想いはあって。先生のつながりで神戸市の子ども絵画教室「アトリエ太陽の子」に絵を依頼。僕がどんな人物なのかを知ってもらうために、絵画教室に通う子どもたちの前で初めて話をさせてもらいました。
 
西村)「アトリエ太陽の子」で話をしたとき、子どもたちはどんな反応でしたか。
 
中村)とても意識高く、真剣に聞いてくれたので話がいがありました。聞きながら全員がメモをとってくれて、質問もありました。
 
西村)どんな質問がありましたか。
 
中村)「お父さんやお母さんはどんな気持ちだったと思いますか?」などです。真剣に聞いてくれて、達成感がありました。そこから絵本作りがスタートしました。
 
西村)子どもたちの絵を見て、どのように感じましたか。
 
中村)僕が想像していた子どもの絵とは違って、絵画展に並ぶような絵で。魂が伝わってくる絵がシーンごとに描かれていたんです。「僕の話だけでここまで描けるんだ」という感動と驚きがありました。
 
西村)来年1月で震災から30年、翼さんは30歳になります。これからどんなふうに生きていきたいですか。
 
中村)当時、地震を経験した人も高齢になってきています。阪神・淡路大震災を受け継ぐキーパーソンになるのは、僕みたいな震災を知らない世代。僕たちが立ち上がらないと、だんだん風化していく一方です。僕は、震災の日に生まれたのでそうなって欲しくない。これからも受け継いでいかないといけないと思います。
 
西村)どんなことを伝えていきたいですか。
 
中村)「命を守る」という両親の責任感や想いがあって、今僕はここにいます。助け合いや命の尊さを大事にして、子どもたちにもそれを伝え、受け継いでいきたいと思っています。
 
西村)きょうは、震災の日に生まれた中村翼さんのお話を聞いていただきました。

第1470回「いのちを守る方法」
オンライン:危機管理アドバイザー 国崎信江さん

西村)地震や台風などの自然災害だけではなく、事件や事故に遭うなど、わたしたちの命が脅かされる危険は常に身近に潜んでいます。もしものときに落ち着いて自分の命を守る行動ができますか。特に子どもは親や大人がいつも近くにいるとは限りません。登下校時や放課後など、子どもだけでいるときに命の危険が迫ったらどうすれば良いのでしょうか。
きょうは、危機管理アドバイザーの国崎信江さんに、子どもはもちろん、大人にも役に立つ「いのちを守る方法」を教えてもらいます。
 
国崎)よろしくお願いいたします。
 
西村)災害や犯罪から命を守る方法について教えてください。
 
国崎)わたしが監修した「いのちをまもる図鑑」の中から紹介します。どんな場面でも命を守るために最も大切なのは「知識と想像力」。"今ここで非常事態が起きたらどうしたら良いのか"を常に考える習慣をつけてほしいです。
 
西村)「もし今ここで震度7の大きな地震が起きたら...」という風に。
 
国崎)仕事帰り、買い物中、友達と食事、自宅で料理中...さまざまな場面で、「もし今地震が起きたら...」と考える癖をつけてください。楽しいことをしているときは、悪いことはあまり考えないと思いますが、どんなときでもちょっとした瞬間に考える癖をつけておくだけで、何か起きても慌てずに行動することができます。「ブロック塀の近くにいるから離れよう」など、一瞬で動くことができるかで生死を分けることがあります。人間はイメージしていないことは行動できません。考えることが苦にならないようなところまで習慣化しておくことによって、自分の命を守る力がつきます。大人が子どもを守るだけはなく、子どもが自分で自分の命を守ることができる力を育てていくことが重要です。
 
西村)命を守る方法をいくつか教えてください。
 
国崎)「いのちをまもる図鑑」は子ども向けとはいえ、保護者からも「知らないことが多くて参考になった」という声をたくさんいただいています。大人にも役立つ"命を守るため"のさまざまな方法を紹介します。まずは、自然災害から命を守る方法です。3択で答えてください。
●西村さんが家にいたら、突然大地震が来ました。どうしますか?
①テーブルの下に潜る ②テレビをつけて震度を見る ③廊下に逃げる

 
西村)リスナーの皆さんは何番だと思いますか。正解は?
 
国崎)③廊下に逃げる、です。テーブルは、4本足が固定されているかが重要。テーブルが床に固定されていなければ、大きな地震で激しく動いてテーブルそのものが凶器になります。下に潜るより、むしろ離れた方が安全という場合も。「廊下に逃げる」が正解ですが、廊下にも条件があります。廊下に何も置いていないということが大事。避難動線上の廊下に家具やお歳暮のダンボールがたくさん置かれていると、そこに逃げたらものが倒れてきたり、足を取られて転んだりすることがあります。廊下に物が置かれていないなら③が正解になります。
 
西村)額縁に入っている絵が飛んでくることもありそうですね。
 
国崎)そういうところを一つ一つチェックして、自宅の中でどこが安全かを確認しておきましょう。次の質問です。
●公園で遊んでいたら、急に雷の音がしてきました。どこに逃げますか。
①大きな木の下 ②公衆トイレの中 ③公衆トイレの軒下

 
西村)よく漫画やドラマの中で、建物の軒下で雨が止むのを待つシーンを見ますよね。
 
国崎)正解は、②公衆トイレの中、です。雷から命を守るためには、鉄筋コンクリートの建物の中が安全です。ただし、壁から1m以上は離れてください。壁にもたれたり壁に触れたりすると、建物の中に雷が落ちたときに壁から感電してしまうということがあります。風呂やキッチンで水に触れるのも危険です。水道管を通って電気に触れて感電してしまうことがあるからです。電気製品も電線を通って感電してしまうということがあるので触れないようにしてください。固定電話は、雷が鳴っているときは、親機で話をしないでください。
 
西村)心配になって、実家に電話してしまいそうです...。
 
国崎)電話線を通じて感電してしまう恐れがあり、受話器を耳に当てていると非常に危険。子機や携帯電話なら大丈夫です。建物の軒下や木の下は、雷が飛んでくるので危険です。車の中や建物の中に避難してください。
 
西村)雷は恐ろしいですね。大切なことを教えていただきました。このような話は、幼い頃からよく聞いていますが、一歩踏み込んだ話は知らなかったので勉強になりました。
 
国崎)もうすぐ冬休みです、災害だけではなく、子どもを狙う犯罪にも気をつけてください。休みになると子どもだけで過ごす時間が多くなり、子どもが狙われることもあります。子どもが道を歩いているときに「猫がいなくなって困っているから探してほしい」と話しかけられたら。また、子どもがエレベーターに1人で乗っているときに「どこ行くの?」「遊びに行かない?」と話しかけられたら。こんなときにどうしたら良いのかを家族で話し合っておきましょう。
 
西村)「猫がいなくなったから探して欲しい」と4歳の娘が言われたら、猫が大好きなのでついて行ってしまいそうです。
 
国崎)優しい心につけこむ人もいます。子どもの好きなもので騙すのです。いい人か悪い人かは見た目ではわかりません。一つ覚えておいてほしいのは、「本当に困っている大人は子どもに頼らない」ということ。
 
西村)確かにそうですね。道を聞くなら、大人の人を探して聞きますよね。
 
国崎)大人は自分で解決する方法を知っています。スマートフォンの地図アプリを見て自分で調べることができます。猫を探すなら、警察や保健所に聞きます。本当に困っていることは子どもに頼まないので、頼みごとをしてくる大人は怪しいと思ってすぐにその場から立ち去り、保護者や先生に必ず報告してください。エレベーターでは知らない人となるべく2人きりにならないようにしましょう。もし知らない人が乗り込んできたら、「ちょっと思い出した!」という風にさりげなく降りる、操作盤パネルのある逃げやすい入口の近くに立つ、などを心がけてください。
 
西村)子どもと一緒にエレベーター乗ったときには必ず伝えようと思います。大人も気をつけたいですね。
きょうは、危機管理アドバイザーの国崎信江さんに、命を守る方法について教えていただきました。

第1469回「津波シェルター付き防災住宅とは」
ゲスト:防災アナウンサー 奥村奈津美さん

西村)南海トラフ地震の備えとして、在宅避難の重要性が高まっています。
きょうは、災害から命を守る家作りについて考えます。スタジオに防災アナウンサーの奥村奈津美さんをお迎えしました。
 
奥村)よろしくお願いいたします。
 
西村)災害から命を守る家作りについて、まずは家の中でできることを教えてください。
 
奥村)津波や土砂災害、火災などの被害があった場合、自宅に住み続けることができれば、家の中で避難生活を送ることになります。多くの人は在宅避難をすることになるので、家に住み続けられる準備をすることが重要です。
 
西村)何から準備したら良いのでしょうか。
 
奥村)まずは家が地震で壊れないようにしておくことが基本。1981年6月よりも前に建てられた家は、大きな揺れによって壊れてしまう恐れが高いです。そのような家は、揺れたら家の外に避難をしなければ、家の下敷きになってしまいます。能登半島地震の調査結果では、旧耐震基準(1981年6月1日よりも前に建てられた家)の家だけではなく、新耐震基準で建てられた家も7割以上が被害を受けていて、20年くらい前に建てられた家でも、倒壊して住めなくなってしまった例も多くありました。
 
西村)それは驚きです。
 
奥村)まずは自宅がいつ建てられたものなのか、地震に耐えられるのかを確認してほしいです。
 
西村)耐震基準を満たしていた場合、さらに準備することはありますか。
 
奥村)大きな災害が起こると、電気・ガス・水道・通信が寸断されてしいます。それらが使えなくなっても過ごすことができる準備をしておきましょう。一番困るのがトイレ。災害用トイレは備蓄しておいてください。普段と同じ生活を継続するために普段使っているものを一つ多く買う「プラ1備蓄」をおすすめしています。同じものを2個買って、1個使ったら1個買い足す。そうすると家に同じものが1個以上は必ずある状態になります。必要なものがなくなって困ることが少なくなります。
 
西村)ローリングストックですね。我が家も買い足しておこうと思っていても忘れてしまって。全然ローリングできていないです...。
 
奥村)使ったことがないものは合わないこともあるので、おすすめは、普段使っているものを「プラ1備蓄」すること。
 
西村)子どもは好き嫌いも激しいですし。
 
奥村)普段食べないものは食べませんよね。
 
西村)食べ慣れている好きなものをストックするのは良いですね。
 
奥村)乳幼児やアレルギーがある人、高齢者は、2週間分の備蓄が必要です。
 
西村)ストックをする場所も必要ですね。大掃除の時期に断捨離して、スペースを作って、みんなで一緒に買い物に行くと良いですね。
 
奥村)どうせ使うものなので、多めに買っておきましょう。
 
西村)安くなっているタイミングで買うのも良いですね。カセットコンロも必要ですね。他にもありますか。
 
奥村)災害用トイレは、1週間分ぐらいは各家庭で備蓄しておきましょう。普段使っていない物を買うのは抵抗がある人は、子どもがいる場合は、サイズアウトしたオムツを捨てずに取っておく。ペットがいる場合は、ペットシートが凝固剤の代わりになります。ゴミ袋に液体を固めるものを入れて、災害時にトイレとして活用する方法をおすすめします。
 
西村)事前に実験しておくとよさそう。
 
奥村)一度ライフラインが寸断されている想定で暮らしてみると、どんなものが必要なのか見えてきますよ。
 
西村)家族や一人暮らしの人は友達とやってみるのも良いですね。
 
奥村)子どもたちは楽しんでやってくれると思います。我が家では、実際に24時間ライフラインが寸断された想定で生活してみました。
 
西村)24時間もやったんですか!すごいですね。
 
奥村)5歳の息子はもう1回やりたいと言っています(笑)。
 
西村)どんなことをしたのですか。
 
奥村)電気は使わずに、夜はヘッドライトをつけて過ごして。料理はカセットコンロとボンベで作りました。災害用トイレも実際に使ってみました。
 
西村)息子さんは、災害用トイレを使ってみて、どんな反応をしていましたか。
 
奥村)不思議そうに覗いていました。
 
西村)「こういうふうに固まるんだ...」と、理科の実験みたいに楽しめるかもしれないですね。
 
奥村)いろんな学びになると思います。普段いかに恵まれた環境で暮らしているのかを感じられると思います。
 
西村)台風で停電したときに、当時5歳の息子がパニックになってしまったことがあります。どうやって楽しい時間にするか、すごく苦労しました。
 
奥村)普段体験してないことには、子どもは対応しきれません。例えば、子どもに夜に読み聞かせをするときに、部屋を真っ暗にしてヘッドライトで読んでみる。夕方暗くなってきたら、ヘッドライトを子どもに渡して、宝探しのように片付けをするとか。
 
西村)面白いですね。家でできることをたくさん教えていただきましたが、津波リスクが高い場所に家がある場合は、さらに対策が必要ですよね。
 
奥村)南海トラフ地震では、数分で津波が押し寄せるエリアがあります。揺れている途中に避難しなければ助からないような場所も。そのようなエリアに住んでいる人におすすめしたいのが、津波シェルターがある家です。
 
西村)どんな家ですか。
 
奥村)屋上にある突起のようなペントハウスに空気だまりができて、その中でしばらく過ごすことができます。
 
西村)屋上のペントハウスは何でできているのですか。
 
奥村)特殊な構造になっていて、工場で作られた「壁式鉄筋コンクリートパネル組⽴造」という鉄筋コンクリートの家です。コンクリートの家の上に同じコンクリートでできたペントハウスが建っています。
 
西村)元々ある家にペントハウスを追加するのではなく、最初から建てるということですね。
 
奥村)そうです。「壁式鉄筋コンクリートパネル組⽴造」は、関東大震災の教訓を受けて作られたメイドインジャパンの工法。強くて重くて揺れないという特徴があります。
 
西村)津波や地震に耐えられる丈夫なつくりなのですね。津波シェルターには何人ぐらい入ることができるのですか。
 
奥村)4人が入って、8時間ぐらい過ごすことができる空気が確保できます。
 
西村)空気だまりとはどういうことですか。
 
奥村)東日本大震災で3m以上の津波が押し寄せた地域にも「壁式鉄筋コンクリートパネル組立造」の家がたくさん建っていたのですが、流されずにとどまって津波を受け止めた実績があります。そのような頑丈な家も2階まで津波の跡が残っていたのですが、1階の天井近くに飾られていた額縁が無傷で、濡れていなかった。そこに百年住宅というハウスメーカーが注目。1階部分に濡れていない額縁があるということは、ここに"空気だまり"ができたのではと考え、津波シェルターを考案したのです。
 
西村)上の方に空気が溜まっていたから、津波の水が流れずに額縁が無事だったということですね。
 
奥村)湯舟で洗面器をひっくり返すと、洗面器の中に空気が入ってポコっと浮かびあがりますよね。それと同じ現象を家の中に作ります。屋上の扉は、船舶で利用するような密閉度の高いものになっています。下から水が上がってきても、その空間には空気だまりができて、しばらく過ごすことができます。
 
西村)家族4人で屋上のペントハウスで8時間滞在できるということですが、どんどん水が上がってくるのは怖いですね。
 
奥村)数分で津波が押し寄せてしまうエリアの場合は、外に避難しても高台まで間に合うかわかりません。静岡県では既に130個ほどの津波シェルター付きペントハウスの住宅が建っています。
 
西村)実際にそのような対策をしている人もたくさんいるのですね。でも津波が来るところには、新しく家を建てない方がいいのではないかと思います...。
 
奥村)そこに住まざるを得ない、代々受け継いだ土地を守らなければならない人も多くいます。日本はいつどこで地震が起きてもおかしくない。水害のことも考えると、全くリスクのない土地を探す方が難しいような状況です。「壁式鉄筋コンクリートパネル組立造」のような頑丈な建物なら、土砂災害や地震でも壊れずに命を守ることができます。どのような家を選ぶかによって、命を落とすリスクを下げることはできると思います。
 
西村)木造住宅を新しく建てるのと比べるとどれぐらい高いのでしょうか。値段のことも教えてください。
 
奥村)30坪なら約3000万円程度。メーカーによってもかわりますが、木造住宅と比べてそこまで高いわけではありません。コンクリートの住宅は長く持ちます。百年住宅の場合は100年保証があります。長く住むことを考えると、建て替えるよりは費用は安く済むと思います。+25万円でシェルターを付けることができます。
 
西村)南海トラフ地震に向けての対策が必要ですね。家の中でやれることもたくさん教えてもらいました。最後にリスナーにメッセージをお願いします。
 
奥村)一生懸命働いて建てた家で自分や家族の命を失うことはあってはならないこと。日本はさまざまな技術が開発されて、耐震面が強化されていますが、一方で古くから住んでいる家を建て替えることが難しい場合もあります。今回は家についての話をしましたが、耐震ベッドや耐震テーブルなど命を守る空間を作れるようなものは、ほかにもあります。地震が起きても逃げられる場所を確保できるように、命を守る対策を進めてください。
 
西村)きょうは、防災アナウンサーの奥村奈津美さんにお話を伺いました。

第1468回「命を守る"口腔ケア"」
ゲスト:兵庫県保険医協会 副理事長 足立了平さん

西村)来年の1月17日で発生から30年になる阪神・淡路大震災。この地震の震災関連死のうち、約4分の1が肺炎によるもので、その多くが誤嚥性肺炎とみられています。誤嚥性肺炎の主な原因は、口の中の汚れです。
きょうは、多くの被災地で被災者の口腔ケアにあたってきた兵庫県保険医協会 副理事長 足立了平さんをスタジオにお迎えしました。
 
足立)よろしくお願いいたします。
 
西村)足立さんは阪神・淡路大震災の避難所でも医療活動をしていたそうですね。当時のようすを教えてください。
 
足立)当時も被災者に一般的な治療は提供していました。ただ、口腔ケアのような予防活動はできていませんでした。災害関連死の肺炎と口の中の細菌との関係が当時はわかっていなかったからです。医学的にも証明されていなかった。後に肺炎と口腔ケアとの関係がわかってきて、「あのとき口腔ケアをすれば、肺炎が防げたのではないか」という反省のもとに、災害時の口腔ケアの重要性を伝えています。
 
西村)阪神・淡路大震災当時も断水で水が不足していたので、歯磨きは十分できていなかったのですね。
 
足立)極端な水不足で、歯磨きどころではないという人も多かったと思います。
 
西村)誤嚥性肺炎という病気は、どんな病気なのか教えてください。
 
足立)口の中の細菌を含んだ唾液が気管に入って肺で増殖し、肺炎を起こす病気です。体力が落ちているときに細菌が増えやすくなります。元気なお年寄りはあまり肺炎を起こすことはありませんが、災害時に体力が落ちると肺炎を起こしやすくなります。口の中が汚れている人ほど、肺炎を起こしやすいです。高齢者の肺炎の8割は誤嚥性肺炎だと言われています。
 
西村)飲み込む力が弱くなってくることも関係していますか。
 
足立)はい。高齢者は、病気や加齢によって飲み込む力が弱くなります。
 
西村)阪神・淡路大震災の避難所では、歯ブラシなどの歯磨きグッズは配られていたのでしょうか。
 
足立)日用品は配られていました。しかし、歯を磨く意識があるのかが問題。口腔ケアが命を守るということはあまり知られていません。阪神・淡路大震災当時はわたしたち医師も知りませんでした。世界で初めて「口腔ケアで肺炎が予防できる」という論文が発表されたのは、震災から4年後の1999年です。
 
西村)誤嚥性肺炎を予防することが大事ですね。個人レベルでできることを教えてください。
 
足立)病気や加齢によって起こる嚥下能力の低下を改善することは難しいですが、口腔ケアで口の中の細菌を減らすことは普段の努力でできます。肺炎を起こすのは、口の中の菌。口腔ケアをして、細菌を減らしておくことと、しっかり噛んで食べて栄養をつけておくことも大事です。災害のときに入れ歯を持ち出せなくて、硬い物が噛めずに栄養が下がる人も多い。入れ歯を外さずに寝る人もいて、そうすると夜間に口の中の細菌が増えてしまいます。動物にとって歯がなくなるということは、死を意味します。
 
西村)まずは歯をしっかりと守ることですね。口腔ケアについて、国で取り組んでほしいことはありますか。
 
足立)避難所の水場の環境の改善です。日本の避難所は世界レベルで見ると劣悪だとよく言われますが、水場もその一つ。使い勝手のいい洗面所があれば、口腔ケアをしやすくなります。避難所の環境作りは、自助や共助では難しいので、国がしっかりと考えてほしいですね。
 
西村)歯磨きをしやすい環境が必要ということですね。
 
足立)人前で入れ歯を外して磨きにくい高齢者も多いと思います。自衛隊が運動場の真ん中に水場を作ってくれていましたが、明かりがなくて屋根がないので、雨天時や夜間は水場に行かない人が多かったです。もっと近くに水場を作って、ダンボールで仕切ってプライバシーを守って、人に見られない状態を作らなければなりません。避難所の運営は男性が関わっていることが多いので、ジェンダーの視点が抜けていることも。水場については、歯科医療関係者でなければ、提言が難しいと思います。
 
西村)足立さんは、輪島ではどんなところで被災者支援を行っていたのですか。
 
足立)輪島の避難所を回って環境整備や肺炎の予防について啓発活動を行っていました。ある中学校では、避難場所が校舎と体育館にわかれていたのですが、水場は全て校舎にありました。体育館にいる人は、一旦外へ出て、靴を履いて、校舎に行って歯磨きや洗顔をしなければなりませんでした。
 
西村)それは面倒くさいですね。
 
足立)日中はよくても、夜は不便なので、水場に行かずにそのまま寝てしまう人も多かったです。20mほどの距離でしたが、大きな距離だと感じました。
 
西村)歯磨きやがおろそかになってしまった人がたくさんいたのですね。
 
足立)「歯磨きをしなくても死ぬことはないだろう」という考えがベースにあると思います。口腔ケアをしっかりしておかないと肺炎になってしまうということが、高齢者には浸透していません。
 
西村)具体的にはどんなケアをしたら良いですか。
 
足立)通常の歯磨きで構いません。入れ歯の掃除は重要です。しかし「貴重な水を歯磨きや入れ歯を洗うのに使うなんて...」と忖度する人が多いです。
 
西村)周りの人の目も気になりますね。
 
足立)支援物資で水がたくさん届いても、水は貴重だから保存しておかなければいけないと思ってしまうんです。
 
西村)目隠しがあって1人の空間があれば、周りに気を使うことなく水を使って歯磨きをすることができますよね。
 
足立)歯磨きは人権です。日本人は「被災したら多少の不便は我慢すべき」という風潮がある。わたしたちは、被災前と同じ生活をする権利を持っています。そこはしっかりと国に考えてえてもらいたいですね。
 
西村)支給される物資の中に、マウスウォッシュや水を使わずに歯磨きができるグッズはありますか。
 
足立)たくさんありますが使い方がわからないという人も多いです。歯間ブラシは都会では一般的ですが、慣れていない高齢者も。グッズの使い方を指導する歯科衛生士が巡回、常駐することが必要だと思います。
 
西村)誤嚥性肺炎で命を落とさないために、平時からやっておくといい備えを教えてください。
 
足立)大きなポイントは備えない防災(フェーズフリー)。普段使いのものを災害時にも使えるように備えておくことです。普段からしっかりと口のメンテナンスをしておくことは非常に重要です。サバイバル状態になっても「噛める口・飲める口」を作っておきましょう。そのためには歯をしっかり残すこと。歯磨きを毎日することはもちろん、3~4ヶ月に一度、歯科医院でメンテナンスをして、口のケアを普段からしておきましょう。
 
西村)わたしたちが子どものときは、虫歯ができたら歯科医院に行く感覚でした。普段から歯科医院でメンテナンスをすることも大事なのですね。普段から使える口腔ケアグッズで、おすすめのものがあれば教えてください。
 
足立)水がないときも使えるウェットティッシュは便利です。指に巻いて歯を磨くものです。歯ブラシがないときに代用することができます。ほかに水がなくても磨ける液体歯磨きなどの口腔ケアグッズを防災バックの中に入れておきましょう。口腔ケアは、歯周病や虫歯の予防だけではなく、肺炎から命を守り、災害関連死を防ぐことにつながります。
 
西村)兵庫県保険医協会 副理事長 足立了平さん、ありがとうございました。

第1467回「輪島朝市の被害から考える『地震火災』」
オンライン:東京大学 教授(日本火災学会) 廣井悠さん

西村)元日の能登半島地震では、輪島朝市で大規模な火災が発生し、約250軒が焼失しました。大きな被害が出た原因はどこにあるのか。地震や津波で火災が発生したとき、どう対応すればよいのか。
きょうは、輪島朝市の火災現場を調査した東京大学 教授 廣井悠さんにお話を伺います。
 
廣井)よろしくお願いいたします。
  
西村)震災前は多くの観光客が訪れて賑わっていた輪島朝市。地震後の火災で250件も焼失してしまいました。輪島朝市の出火原因は何だと思いますか。
 
廣井)出火原因は、詳しくわかっていません。総務省消防庁の消防研究センターが調べていますが、電気が原因である可能性が高いとのことです。近年の地震火災の約半分が電気によるものです。電気器具の転倒による出火、配線の損傷による出火などさまざまな原因がありますが、厳密には不明です。
 
西村)なぜこんなに被害が広がったのでしょうか。
 
廣井)2つ理由があると思います。1つは燃えやすい市街地だったということ。輪島朝市通り付近は木造の建物が密集していました。木造密集市街地は、火災が起きると非常に燃え移りやすくなります。
 
西村)木造の建物の中には、住宅兼店舗もあったのですか。
 
廣井)住宅や店舗、小さな工場兼住宅もあったと思います。
 
西村)火災が起こった当時、そこに住んでいた人もいたのですね。
 
廣井)2つ目の原因は、地震や津波の影響。大きな地震が起きると、建物自体が燃えやすくなります。大きく揺れると建物の外壁が剥がれて防火性能を失ってしまいます。瓦がずれるとヒビが入りやすくなります。窓が壊れると火の粉が入りやすくなります。地震の揺れによって、木造密集市街地が建物倒壊によってさらに燃えやすくなった可能性があります。もう1つは、消火活動が困難だったこと。地震によって、水道管が壊れると、消火栓から取水することができません。電柱が地震の揺れで倒れて邪魔をしてしまって、数少ない防火水槽からも取水できなかった事例もあります。消防が消火栓と防火水槽から取水できなかったことが大きな原因。さらに津波の影響もあります。輪島朝市通りは、津波浸水が懸念される地域でした。当時、大津波警報が出ていて危険で、海水を取水することができなかった。消火栓も防火水槽も海水も使えない状況でした。隆起の影響で川の水位が低下して川の水を使うことも困難でした。避難を優先して、初期消火や早期の火災の覚知もできていなかったと思われます。燃えやすい市街地だった上に、地震や津波の影響、消火活動や火災の覚知が難しかったことが原因だと思います。
 
西村)大津波警報が出たら一目散に逃げないといけませんよね。被災者は避難時のようすについて、どのように話していましたか。
 
廣井)多くの人がすでに逃げていたということです。大津波警報が出たら、津波の危険性がある場所にいる人は逃げないといけないので、仕方ないと思います。津波警報の影響で、初期消火や火災の覚知ができなかったのは仕方がないことです。そのような場所の火災の防災対策について、課題が浮き彫りとなりました。
 
西村)どうしていったら良いと思いますか。
 
廣井)津波の影響があるころと津波の影響が少ないところで切り分ける必要があると思います。輪島の朝市通り付近の火災が教えてくれたことは、津波・火災・地震のリスクがある場所の防災の難しさ。地震が起きると鎮火対応が難しいので、5ヘクタールくらいはすぐに燃える火災が起こり得るのです。きちんと初期消火をしなければならないと思います。
 
西村)でも逃げながら初期消火することは難しいですよね。
 
廣井)そうですね。津波が来るところと津波の来ないところは切り分けて考える必要があります。
  
西村)能登半島地震の輪島朝市の火災は、みなさんがすぐに逃げてしまったから、消防への通報もできなかったということですか。
 
廣井)その可能性はあります。
 
西村)阪神・淡路大震災のときは、長田の町が火災で大きな被害を受け、東日本大震災でも津波火災がたくさん発生しました。今後、首都直下地震や南海トラフ巨大地震が起きたら、地震火災や津波火災が起こる可能性はありますか。
 
廣井)はい。地震時にも火災が起きるということを認識することが重要です。
 
西村)地震火災が起こると家の中はどのように燃えて、どのような被害が出るのでしょうか。
 
廣井)火災が起きた場合、わたしたちが消すことができる時間は非常に短いです。個人が消火器などで火を消すときは、自分の背の高さや天井に着火するまでの時間しか対応できません。極めて短い時間の中で、消化対応をしなければなりません。大きな揺れが起きた後は、部屋の中はぐちゃぐちゃで、可燃物と火源が接触しやすい状態。そんな中ですぐに火災を見つけなければ対応が難しくなります。
 
西村)火が出やすい場所はどんなところですか。
 
廣井)台所や暖房器具を使っている部屋は火が出やすいと思います。
  
西村)「鍋を火にかけていたら火を止める」「逃げる前に元栓を閉めるな」どの確認が大切ですね。
 
廣井)難しいかもしれませんが、緊急時速報が鳴ったらすぐに火を消すことは重要ですね。揺れているときに火を消そうとすると火傷してしまう可能性もあるので、まずは身の安全を確保して、ある程度揺れが収まったら、火の元を確認しましょう。
 
西村)初期消火はどのようにすれば良いですか。
 
廣井)まずは火災を見つけることが重要。自宅だけではなく、町内会や自主防災組織と手分けして、火災を見つける。火災が見つかったら、大声で知らせる。1人でできることには限りがあるので、火災対応は周りの人みんなで対応することが必要です。
 
西村)津波がすぐくる地域なら、一目散に逃げないといけないので難しそうですね...。
 
廣井)命を守ることが一番重要。津波のリスクも火災のリスクもある海沿いの木造密集市街地は、直後の対応は難しいので、感震ブレーカーを設置したり、火災に強い街の構造にしたりという事前対策は有効だと思います。事前対策ぐらいしかやることはないと思います。津波が来る場所は、津波から命を守ることを優先。一方で、津波のリスクがない場所では、初期消火ができるので、事前にいざというときに動ける組織を作っておくことが重要。津波のリスクによって、対応が違うことが改めてわかりました。
 
西村)大事なポイントがわかったのですね。火災からの逃げ方のポイントはありますか。
  
廣井)まず大きな公園などの広い場所に逃げる。風上の広い場所に、広い道路を使って、延焼している場所を避けて逃げてください。木造密集市街地の建物の中にいた場合は、まず広い道路に逃げる。火災で怖いのは、火災の同時多発です。関東大震災のときは、火に囲まれて、逃げる場所を失った人がたくさん亡くなりました。都市部では、できるだけ広い道路に逃げて、広い場所に行く逃げ方が良いとされています。ぜひ知っておいてください。
 
西村)大切な逃げ方を教えていただきました。
きょうは、地震火災について、東京大学 教授 廣井悠さんにお話を伺いました。

第1466回「マンション防災~マンションを最高の避難所に!~」
オンライン:マンション防災士 釜石徹さん

西村)都市部を中心に増え続けるマンション。数階建ての低層から、超高層のタワーマンションまで間取りもさまざまで、幅広い層に人気です。しかし地震で停電してしまうと、エレベーターは止まり、高層階に住む人たちは外出も難しくなります。また、マンションの給水システムの多くは電気を使っているため、断水の可能性もあります。
きょうは、マンションの防災に詳しいマンション防災士の釜石徹さんにマンションに暮らす人の防災対策についてお話を聞きます。
 
釜石)よろしくお願いいたします。
 
西村)停電するとエレベーターは止まり、断水の可能性もあるマンションは自然災害に弱いのでしょうか。
 
釜石)マンションは、建物が頑丈なので戸建てに比べると災害に強いです。暴風雨にも耐えられるし、津波や水害の際は上層階に逃げれば安全。耐震性があれば、倒壊や全壊の可能性はほとんどありません。部屋に住める状態であれば、停電・断水しても備えをしておくことで、普段に近い生活をおくることができます。
 
西村)小学校や中学校などの指定避難所に行くよりも、マンションの部屋にいられる方が良いですね。
 
釜石)災害発生後すぐに避難所へ行くという考え方は間違いです。避難所はスペースも少なく、体育館や教室で雑魚寝をしなければならない。密集・密接・密閉状態は、感染症が蔓延する可能性もあります。都市部の学校避難所は、約8000~1万人にひとつの避難所が指定されています。避難所に住民全員が避難できる収容スペースはありません。
 
西村)タワーマンションが新しく建設されたら、小学校を一つ増やさないといけなくなるという話も聞きます。避難所は足りていないのですね。
 
釜石)増やしたとしても、タワーマンションの住人はすべてを受け入れるスペースはありません。避難所に備蓄されている食料は、約1000人✕2~3日分しか備蓄されてないことが多いです。アルファ化米やクラッカーなど栄養価のないものが多いです。アレルギー対応食はありません。在宅避難で家族に必要な食料を自分たちで揃える方が良いです。
 
西村)食べ慣れたものを食べられると安心にもつながりますね。我が家は、息子に発達障害があるので、食べられるもが限られています。
 
釜石)そういう人が避難所に行くと、食べられる物は何もないと思います。
 
西村)能登の避難所はかなり過酷な状況だったと聞きました。小中学校はプライバシーがないところも多く、トイレ問題も深刻。自宅で過ごせるようにどのような備えが必要ですか。
 
釜石)まず、大きな地震が起きても室内で怪我をしないようにする備えが大事。家具・家電の固定を確実に。同時に、万が一出火した場合に、すぐに初期消火ができるようにする。スプレー式の簡易消化器をおすすめします。
 
西村)消化器というと結構大きいものを想像しますが、スプレー式のものがあるのですか。
 
釜石)大きな消火器はどこのマンションにもありますが重いし、操作が難しいですよね。ヘアスプレーぐらいのサイズの消化器なら女性でも簡単に使うことができます。台所の近くに置いておくと良いですよ。
 
西村)食器棚が倒れたり、電子レンジが飛んできたりしないために、家具・家電を固定する方法を教えてください。
 
釜石)背の高い家具は突っ張り棒で固定しましょう。電子レンジや炊飯器を固定するためのジェル式のマットも便利です。台所は普段使っている時間が長く、飛んでくるものが多い危険な場所でもあります。台所をいかに安全にするかが室内で怪我をしない備えのポイントになると思います。
 
西村)子供だけで留守番しているときに、地震が起こって頭の上に重いものが落ちてきたら大変ですものね。
 
釜石)そういうことがないようにぜひ備えてください。
 
西村)実家には、背の高い古い家具が未だにあります。食器棚の上に使っていないホットプレートが置いてあったり...。頭上に扉付きの棚がある場合は、扉が開かないようにしておかないといけませんね。
 
釜石)扉のストッパーのような器具も売られていますのでぜひ備えましょう。観音扉用や引き出し用などさまざまなタイプのものがあります。
 
西村)震度6~7の地震が起こった場合、家の中の家具はどんなふうに揺れるのか教えてください。
 
釜石)固定していないものは全部倒れるイメージ。そこに人がいれば怪我をする可能性も高まります。普段いるリビングや台所の家具が落ちてくる可能性があれば、必ず固定しましょう。急に揺れが来るので、「揺れたら逃げる」という発想はやめましょう。揺れ始めた瞬間にドーンとくるので、しゃがむことしかできません。一歩も動けません。物が落ちてこないように固定することが大事です。
 
西村)最近は、掃除がしやすいキャスター付きの収納のものもありますが危険ですね。
 
釜石)阪神・淡路大震災のときに固定していなかったキャスターのピアノが飛んできて凶器なったという話もあります。キャスターのテレビ台も危険。冷蔵庫のようにキャスターがついているものは必ず固定をしましょう。移動防止グッズを取り付けるだけでも効果があります。
 
西村)家具・家電の固定、火災の備え以外に具体的な方法はありますか。
 
釜石)停電、断水が長期間なるということを想定して、在宅避難で10日以上生活するために、調理用のカセットコンロ・カセットボンベを十分に備えておいてください。
 
西村)最近は、お湯を沸かすために電気ポットを使うし、レンジでチンをして食料を温めるのが当たり前になっていますよね。
 
釜石)わたしがセミナーでマンションを訪れたとき、約1~2割の住民がカセットコンロを持っていないといいます。IHヒーターを使っているから、カセットコンロを使う機会がなかったと。大災害が起きて電気が止まってしまったら、自宅で調理するためにカセットコンロが必要になる。セミナーでは着火練習をしています。みんなでカセットコンロにガスボンベをはめて、火をつけて消して、カセットガスボンベを外します。みんなで練習すると和気あいあいと盛り上がるんですよ。
 
西村)楽しそうですね!
 
釜石)みんなでやると「これぐらいならできそう」と思ってもらえる。「ホームセンターで買っておきます!」とみなさん言ってくれます。分譲マンションは、災害発生時に管理会社を頼ってはいけません。マンションの管理会社の社員も被災者になります。マンションの数に比べて、管理会社の社員も非常に少ないので当てになりません。マンションには管理組合や自治会がありますが、全員が被災者になります。みなさん自分や家族、仕事のことを考えざるを得なくなり、他人を助けることはできません。大災害であればあるほど他人を頼ることはできないと考えましょう。誰かの支援をあてにするのではなく、家庭の防災力を上げること。自宅で10日以上の在宅避難ができるように、自宅を最高の避難所にしましょう。
 
西村)マンションだけではなく、戸建ての家でも住み続けられる状態であれば、同じことが言えますね。わたしもしっかり備えようと思いました。
きょうは、マンション防災士の釜石徹さんにマンションに暮らす人の防災対策についてお話を聞きました。