03月16日(日)
第1484回「東日本大震災14年【3】原子力災害を伝え続ける旅館当主」
オンライン:いわき湯本温泉「古滝屋」16代当主 里見喜生さん
西村)きょうは福島県いわき市の老舗温泉旅館「古滝屋」の16代目当主で、旅館の中に資料館をつくるなど、原子力災害を伝える活動を続けている里見喜生さんにお話を聞きます。
里見)よろしくお願いいたします。
西村)「古滝屋」どんな温泉旅館ですか。
里見)東北の最南端にあるいわき湯本温泉には15件ほどの旅館があります。「古滝屋」は、その中のひとつで、掛け流しの温泉にこだわる温泉旅館です。創業元禄8年、今年で320年目になります。
西村)どんな人が来るのですか。
里見)主に首都圏から70%、東北各地から30%。関西、九州の人は、震災後にボランティアに来てくれたのをきっかけに、今も繰り返し訪れてくれています。
西村)東日本大震災当日は、お客さまは泊まっていたのですか。
里見)200人の予約があったのですが、実際にたどり着いたお客さまは50人ほどでした。
西村)50人は地震が発生する前にたどり着いたのですか。
里見)旅館は、15時チェックイン開始で震災があったのは14時46分なので、ちょうど移動中の人が多かったようです。
西村)必死の思いで旅館までたどり着いたのですね...。
里見)そのようですね。電話、電気、水道、ガスが一緒にストップしてしまいました。連絡手段がなく、戻ってしまったお客さまも多かったようです。
西村)震災当時、里見さんは何歳でしたか。
里見)42歳でした。「古滝屋」で仕事をしていました。
西村)震災に遭った「古滝屋」は、その後どうなったのでしょうか。
里見)地震によってエレベーターの軸がずれたり、壁に損傷があったりしたのですが、階段などを使えば何とかお客さまの受け入れは可能でした。しかし、その後、「古滝屋」から50km北にある福島第1原子力発電所で水素爆発が連鎖的に起きて、それによって約4000人のキャンセルが出ました。原子力発電所のある沿岸部の双葉郡には、7万人が住んでいたのですが、そのうち約2万5000人がいわきに緊急避難しました。みなさん、急な強制避難で住む場所がないので、小中学校の教室や体育館で過ごしていました。僕は、炊き出しや水の運搬、原発事故によって外で遊べない子どもたちのお世話などのボランティアをしていました。
西村)そういった活動の中で、里見さんは震災後、「Fスタディーツアー」という取り組みを始めたとのこと。それは、震災後いつ頃からスタートしたのですか。
里見)2011年11月です。全国からボランティアに来てくれた僕の友人・知人を、津波現場や当時まだ不明だった原子力災害の被災地を自分の車で案内したのがきっかけです。その後、その人たちから「津波の状況や原発の状況を、有償できちんと伝えた方が良い」「ニュースや新聞などでも情報を得ることはできるけど、実際に見るとそれ以上に感じることがある」とう言葉を受けて、正式に僕がワゴン車でガイドをはじめたのが「Fスタディーツアー」のはじまりでした。
西村)どんなところを回るのですか。
里見)2011年は主に津波の現場を案内していたのですが、少しずつ原子力の災害があったエリアを訪れることが出来ました。地震や津波を語る語り部は増えてきたのですが、原子力災害については、口をつぐむ人か多かった。僕が原子力災害に特化したガイドをしていこうと、双葉郡に訪れることにしました。
西村)どんな人が語り部として参加しているのですか。
里見)主に僕がガイドをしながら車で案内していますが、主婦や元学校の先生など、いろいろな人が語り部ガイドとして活躍しています。
西村)なぜ原発の話になると口をつぐむ人が多いのでしょう。
里見)この14年間、毎日のように原子力災害で生活が一変してしまった人の話を聞いていますが、身近な人、近所、親戚に原子力関係で勤めている人が多いです。一概に放射能や原発について、自分の口からは言い辛い人が非常に多いです。
西村)スタディーツアーの参加者の反応はいかがですか。
里見)今まで約6000人を案内してきましたが、みなさん「来てよかった」と言ってくれます。原子力災害については何も情報がないし、今までも勉強したこともなかったと。わたしたちは、当たり前のように電気を使っていますが、その電気がどのようにして作られて、どこで発電されているのか全く知らない。福島に来ることによって、これだけの距離のある場所から電気が届いていること、そして原子力発電所のある町が、今回の災害で人が住めない状態になっている現状にショックを受ける人がとても多いです。
西村)「Fスタディーツアー」に加え、もうひとつ里見さんが取り組んでいるものに、「原子力災害考証館 furusato」があります。
里見)この資料館には、公的な資料館では提示されてないもの、こぼれ落ちているもの、原子力災害によってつらい思いをしている人々の大切にしているもの、表には出しづらい数字的なもの、裁判的な資料などを展示しております。
西村)原子力災害考証館はどんな場所にあるのですか。
里見)「古滝屋」の9階のお客さまが利用する一室にあります。約20畳のスペースです。
西村)旅館の中の和室に資料が並べられているのですね。どんなものが並んでいるのですか。
里見)原子力災害と一言に言っても、なかなか表現するのは難しいのですが、災害に遭った人々とのご縁で展示をしています。原発事故によって数年間人が住めない状況となった浪江町の2014年の街並みを写した写真と、2020年に同じ場所で写した写真を比較して展示しています。震災から3年後の2014年は、強制避難指示が出ていたので、人が住んでいません。建物は並んでいるのですが、全く人の気配が感じられません。2020年の写真を見ると、建物が全くない状況になっています。2020年までの6年間で帰ることを諦めた人々が家を壊し始めて、町の姿が一変しているのです。それを写真によって伝えています。
西村)他にはどんな展示がありますか。
里見)それ以外には大熊町の津波で行方不明になってしまった家族の遺品を展示しています。原子力災害放射能の影響で捜索が打ち切りになり、探し続けられなかったのです。
西村)資料館は、旅館の中の一室にあるので、家族で訪れて、みんなで考えることもできそうですね。
里見)資料を見て終わりではなく、できるだけ対話をしたいと思っています。対話をすることで、立場を経た感想や、資料を参考に描く未来についてなど、それぞれの考え方を共有できたらと思っています。
西村)公的な施設の展示とは、どこが違いますか。
里見)公的な資料館には、学芸員がいて、展示物を管理していますが、考証館には、ガラスのショーケースがあるわけでもないので、持ち主が直接内容を変えたり、アップデートしたりしています。ですから、被災者の声をそのままの表現でみなさんに伝えることができます。あるとき、考証館の部屋を覗いてみると、子どもたちが畳に寝転がって資料を見ていました。畳の上にあぐらをかいて、隅でお菓子やご飯を食べている子も。朝から夕方まで6~7時間ほどずっと資料を見ていた人もいました。それぞれの思う形で資料を見てもらえるのが考証館の良いところだと思っています。
西村)国も脱・原発政策を方針転換して、今は原子力発電の最大限の活用を示しています。東日本大震災から14年を迎える中、今はどんな思いでいますか。
里見)福島に住んでいる人は、土や四季折々の大地とともに生きていて、それを誇りに思って暮らしています。そんな場所が放射能まみれになって、追い出されることがどれだけつらい事か。発電の方法はいろいろあります。世界一の地震大国で、地震が起きたときに甚大な被害が起きてしまう原子力に頼るというのはどうなのでしょう。僕が原子力災害を14年間経験して思うのは、大事な順位があるのではないかということ。一番大事なものは命。人間以外の生き物たちともきちんと共生して暮らしていけたらと思っています。
西村)里見さん、ありがとうございました。きょうは、福島県いわき市の老舗温泉旅館古滝谷の16代目当主で原子力災害を伝える活動を続けている里見喜生さんにお話を伺いました。
03月09日(日)
第1483回「東日本大震災14年【2】石巻市出身・映像作家の思い」
オンライン:映像作家 佐藤そのみさん
西村)東日本大震災の津波で、児童や教職員84人が犠牲になった石巻市市立大川小学校。震災後の大川地区や、そこで生きる人々の心の変化を子どもの視点で描いた2本の映画「春をかさねて」と「あなたの瞳に話せたら」が、大阪で上映されています。撮影されたのは東日本大震災から8年後の2019年。監督は大川小学校に通っていた妹を亡くした遺族でもある、映像作家の佐藤そのみさんです。遺族として取材を受ける立場だった佐藤さんが「描かれるよりも、描きたい」と自分の体験をもとに撮った映画への想い、東日本大震災から14年たった今感じていることについて、お聞きします。
佐藤)よろしくお願いいたします。
西村)佐藤さんはどのような思いでこの映画を制作したのですか。
佐藤)わたしは東日本大震災の2年前の12歳の頃から、地元大川を舞台にした映画を撮ることが夢でした。その後、地震が起きて、映画に撮りたかった風景や人々は津波で流されてしまいました。わたしは大川小学校で2歳下の妹も亡くしてしまいました。それでも「東北で震災を経験したわたしだからこそ、描けることがあるかもしれない」と思って、夢は消えなかった。早く「遺族や被災者という肩書きから逃れて自由になりたい」という気持ちがあったのですが、逃れようとしても余計に苦しくなってしまって。一度正面から故郷や震災に向き合わなければ、次の人生に進めない気がしたんです。映画というものを使って、一度故郷や震災に正面から向き合うために、この2作品が必要でした。それと、大人になるにつれて、震災直後の大切な感覚が薄れていくのが怖かったという気持ちもあります。震災後は本当に大変だったし、めまぐるしく日常が変わっていったのですが、14歳の頃は、その中で必死に生きようとしていました。けれど、大人になってその感覚がだんだんなくなってしまった。その感覚を忘れる前に、故郷の風景とともに作品を残しておきたかったんです。
西村)なぜ大人になるにつれて、その感覚が薄れていったのですか。
佐藤)街並みが変化して、わたしも年齢を重ねて。わたしは大学に入ると同時に上京したので、故郷の景色を見ることがありませんでした。東京には、東北で震災を経験した人はほとんどいませんでした。
西村)東京の友達と震災の話をすることはありましたか。
佐藤)ありませんでした。わたしから喋ってしまうと、その場の空気を悪くしてしまう気がして。極力自分からは震災のことは話さないようにしていたんです。でも震災後の経験が、その後の私を作ってくれたということは、一番大事な核の部分なので、忘れたくないと思っていました。そして、大学を休学して、「春をかさねて」から作り始めました。大学にいながらではとても作品に向き合えないと思ったので。
西村)大学では映像関係の勉強をしていたのですよね。
佐藤)はい。映画学科でみんな映画を作っていました。4年生になると卒業制作があるのですが、そのタイミングで休学をはじめました。みんなに震災の話ができなかったのに、ましてや震災の映画を作るためにみんなを巻き込むことはできないと思って。みんなは面白いエンタメ作品を作りたいのに、被災地に連れて行って、暗い話を撮るのにつき合わせるのは申し訳ないと。1年間休学して、脚本を書いたり、アルバイトで資金を貯めたり、地元の石巻に帰ってキャスト探しをしました。休学中の最後の3月に何とか作品が完成。結局、大学の友達に撮影を手伝ってもらったんですけどね。いろんな人の手を借りながら、2019年の3月に「春をかさねて」が完成しました。
西村)キャストは石巻で探したとのこと。地元の人がたくさん出ているのですね。
佐藤)ほとんどが地元の人です。東京から来たボランティア役は関東の人ですけど。プロの俳優さんはほとんど出ていなくて、演技経験がない地元の人がたくさん出ています。
西村)震災当時のお話も聞かせてください。当時、佐藤さんは何年生でしたか。
佐藤)当時、わたしは大川中学校の2年生でした。その日の午前中は、3年生の卒業式で、午後から家に帰ってきていました。1階の部屋で趣味だったギターを弾いていたときに大きな揺れが起こりました。最初、地震だと気づかないぐらいものすごい音がして。何か爆発が起こったのかというくらい衝撃的な縦揺れで、立っていられないぐらいの大きな揺れが長く続いて。体感10分以上続いていたと思います。それが少し収まってから、家にいたおじいちゃん、おばあちゃん、お兄ちゃん、ひいおばあちゃんと一緒に5人で近くの高台に避難しました。わたしたちの家は、内陸側で川の河口からは離れた場所にあったので、自宅は無事でした。両親もそれぞれの職場にいて無事でした。でも大川小学校に通っていた2歳下の小学6年生の妹だけは、ほかの児童や先生と一緒に、大川小学校で津波の犠牲になってしまいました。それがわかったのは3月13日のことです。
西村)2日後に妹さんが犠牲になったことを知ったのですね。妹さんと最後に交わした言葉は覚えていますか。
佐藤)3月11日の朝に「おはよう」と妹に言われたのですが、わたしは機嫌が悪くて、無視をしたのが最後です。
西村)どんな妹さんだったのですか。
佐藤)心優しくて天使みたいな人でした。例えばクラスに悲しい思いをしている子がいたら、その子のそばにそっといてあげられるような。おとなしいのですが着実に努力をしていて、勉強や習っていたピアノや水泳もコツコツ努力して、いつの間にかうまくなっているような。
西村)努力家さんだったのですね。そのみさんは、若い時期も遺族として気丈に取材にも答えていましたが、心の中ではどんなふうに感じていましたか。
佐藤)わたしは表に出るのが好きではなかったのですが、求められたら断れなかった。断り方がわからなかったんです。断ったら嫌われてしまうと思って。取材の依頼が来たら答えていたんですけど、14歳のとき、まわりの生き残った子どもたちは、テレビや新聞の取材に答えている子もいれば、家族と一緒に断っている子もいました。周りの子たちに取材が殺到していたので、その子たちを守る意味でも、わたしが出なくてはと思って、依頼が来たら応じるようにしていました。
西村)取材を受けて、自分の話した言葉が記事になり、テレビやラジオで伝わったとき、どんなふうに感じましたか。
佐藤)自分が撮られたものを見たとき、自分ではないみたいだと思っていました。「かわいそうな子」「亡くなった妹の分も生きる立派なお姉さん」などとすごく美しく切り取られていて。それはわたしじゃないと思っていました。多くの人が見たい"被災地の子どものイメージ"に当てはめられているように感じていました。
西村)3月11日、震災から今年で14回目の春を迎えます。今の思いを聞かせてください。
佐藤)取材の経験を通して、切り取られてしまうことは、仕方がないことだと諦めるようになっていきました。自分が本当に言いたいことは、自分で主張しなければ届かないと。映画「春をかさねて」「あなたの瞳に話せたら」は6年前に作ったものです。「遺族は悲しみを抱えて、過去を背負って生きるもの」という、ステレオタイプな見方を押し付けられることへの反発・葛藤もあったのですが、制作や上映を通して、そのような気持ちとも良い距離を取れるようになってきました。今は自分の過去や他人の視線を気にせずに、好きなように生きられていると思います。震災直後は自分の存在をすごく否定していたのですが、今は肯定できるようになってきました。地元の人たちにも、少しでもあの日から良い距離をとって、今が一番幸せだと思えていたらうれしいです。亡くなった人たちもそれを望んでいると思います。
西村)リスナーの皆さんに、伝えたいことはありますか。
佐藤)わたしの撮った映画は、震災や大川小学校津波事故について触れた映画ではあるのですが、誰か大切な人を失った悲しみ、人が生きていく中での葛藤や人間関係の衝突、その先の幸福についてなどを描いています。普遍的で、みなさんにもどこか共感していただける部分があるのではと思っています。ぜひあまり気負わずに見に来てください。
西村)2本の映画には大川小学校の校舎が出てきます。大川小学校についての思いも聞かせてください。
佐藤)わたしは遺族として、大川小学校の中に入って撮ることができたので、中に入れない人たちにも、校舎の中を見せたいという気持ちもあって撮りました。この校舎は、現在震災遺構として保存されています。訪れるとわかるのですが、津波の爪痕があのときのまま残っています。映画を通して関心が深まれば、ぜひ現地を訪れてみてださい。大川小学校で子どもを亡くしたお父さんお母さんたちが校庭に立って、見学者に向けて語り部をしています。映画の中にもいろいろな形で登場しているので、それも見てほしいです。震災前はそこに普通に街があって、色鮮やかな校舎と緑豊かな風景がありました。子どもたちと先生たちが賑やかに学校生活を送っていた場所なんです。今は全く想像がつかないと思うのですが、わたしは震災前の風景をよく覚えています。難しいかもしれないけど、少しでもそんな風景を想像してもらえたらうれしいです。
西村)今の思いをまっすぐに届けてくださって、ありがとうございました。
きょうは、映像作家の佐藤そのみさんにお話を伺いました。
03月02日(日)
第1482回「東日本大震災14年【1】3.11あの日を忘れない~南三陸町職員の慰霊碑設置」
電話:元南三陸町 副町長 遠藤健治さん
西村)2011年3月11日午後2時46分三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生し、北海道、東北、関東の沿岸を大津波が襲いました。防災の拠点として津波に備えていたはずの宮城県南三陸町防災対策庁舎にも16.5mの津波が押し寄せ、住民を避難させようと最後まで庁舎に残った職員など合わせて43人が犠牲となりました。震災から14年となる今年3月、町役場には東日本大震災で犠牲になった職員の慰霊碑が設置されます。
きょうは、この慰霊碑の設置に尽力された元副町長の遠藤健治さんにお話を聞きます。
遠藤)よろしくお願いいたします。
西村)震災当時の状況を教えてください。
遠藤)あの日は、定例議会の開会中に地響きとともに激しい揺れが始まりました。揺れが収まるのを待って、防災服に着替えて、防災対策庁舎の2階の防災対策本部に向かいました。地震発生から3分後の揺れの大きさは震度6弱で、6mの大津波警報が発表されました。これは想定されていた宮城県沖地震とほぼ同じでしたが、その後、25分後には想定を大きく超える10m以上の大津波警報に引き上げられました。防災無線で町民に避難を呼びかけていたときに、庁舎の駐車場に津波が押し寄せてくるのを確認。全員で3階の屋上に避難しましたが、まもなく屋上の高さを超える津波が襲いかかってきて、建物全体が津波に飲み込まれてしまいました。わたしは屋上につながる階段の手すりに捕まって必死に耐えて、命をつなぐことができましたが、屋上へ避難した職員54人のうち、水が引いた後に屋上に残っていたのは、たった10人で、結果的に生き伸びたのは11人です。1人は屋上から流されている途中に畳に捕まり、庁舎の海側にある病院の建物によじ登って命をつないだのです。残念ながら43人が犠牲になりました。
西村)遠藤さんは手すりに捕まったから助かったのですか。
遠藤)津波に飲み込まれたのですが、頑丈な手すりが壊れなかったので引き潮にも耐えられました。助かった2人は、津波の襲来を観察するために、屋上の中央にあるアンテナの棒によじ登っていて濡れずにすみました。わたしや町長も含む残り8人は、1度津波に飲み込まれましたが、頑丈な階段の手すりにつかまっていたので、外に放り出されませんでした。翌朝、明るくなった屋上から見た街は、瓦礫に埋もれていて、街が消えたのかと思いました。「なぜ、どうして」という思いと、悔しさでいっぱいでした。
西村)津波がひいたのはどれぐらい後でしたか。
遠藤)津波はずっと続きます。地震発生から約47分後に16.5mの一番大きな津波が市街地を襲って、屋上を大きく超えました。しかし屋上を超えたのはその1回だけ。生き残った10人は命をつなぐためにポールに何回もよじ登りました。大変寒い日で、体は濡れていて、手はかじかんで、なかなかステンレスのポールにうまく登れないのですが、何回も必死に登りました。幸い、屋上を大きく超える津波は1回のみで、あとは朝まで津波が上げ下げしていました。夕方になり、このままでは低体温で命を落としてしまうので、3階まで津波がこなくなったことを確認して、階段のがれきを除去しながら、3階まで下りました。ポールに捕まっていた職員がたまたまライターを持っていたので、瓦礫を集めて火を灯して、その火を囲みながら夜を過ごしました。翌朝、建物から降りて近くの高台の小学校までみんなで走りました。
西村)遠藤さんはどんな思いで震災の復興にあたっていましたか。
遠藤)防災対策庁舎で亡くなった職員は33人ですが、それ以外の場所でも避難誘導等で命を落とした職員がいます。本来なら復旧・復興業務の先頭に立って、活躍するはず彼らの悔しさを胸に刻みながら、彼らの分まで頑張ろうと自分に言い聞かせながら業務にあたっていました。生き残った職員のみんなが同じ思いだったと思います。
西村)今月9日、犠牲になった職員の名前が刻まれた慰霊碑が町役場に設置されます。14年経った今、どのような経緯で慰霊碑が設置されることになったのですか。
遠藤)殉職した仲間のことを何らかの形に残したいと、同じ思いを持つ仲間と以前から語り合ってきましたが、復興事業の進捗状況、家族を失った遺族の複雑な心境を考えると、慰霊碑の具体的な取り組みについて、躊躇せざるを得ない状況でした。
西村)遺族からはどんな声が届きましたか。
遠藤)今回の震災で、わたしたちの町では831人の尊い命が失われました。町で犠牲になった人の名前を記した書物を震災復興記念公園に収めることになっていたのですが、みなさんそれぞれの防災対策庁舎に対する思いがあったと思います。そんな中、昨年7月に旧防災対策庁舎が震災遺構として、町管理のもとで恒常的に保存活用されることに。それを一つの契機に今まで思い続けてきたものをやろうということで、仲間に呼びかけ今日に至ります。
西村)14年という月日が経って、遺族の気持ちに変化はありましたか。
遠藤)最愛の家族を失った遺族の気持ちは癒えることはないと思いますが、お互いが前を向いて生活を再建しようとしています。震災の関連復興事業もほぼ完了して、新しい町で新しい生活が始まっています。今回の事業にあたって、刻銘碑に名前を刻銘することについて、遺族に意向を伺ってきましたが、ほどんどの遺族から同意をいただきました。同意書の中には、感謝の言葉を添えていただいています。その言葉に後押しされながら今頑張っています。
西村)慰霊碑には、どんな文字が刻まれているのですか。
遠藤)片面には遺族の同意を得られた職員の名前、もう片面には、今回の震災からの学びや教訓を得て、災害に強い町作りにつないでほしいという思いを込めて、「あの日を忘れない」というタイトルを刻んでいます。
西村)慰霊碑が作られていく過程を見守っていて、今どのような気持ちですか。
遠藤)今回この事業をやるにあたり、亡くなった職員たちと長い時間まち作りをともにしてきた多くの職員、退職した職員に声をかけました。みなさんに温かいお心寄せと賛同をいただいています。たくさんの人たちが仲間を追悼したいという思いを持っていたのだと確認できてうれしく思っています。
西村)いよいよ来週9日に慰霊碑の除幕式が行われます。
遠藤)町の防災活動を担っている職員たちも参加してもらいます。慰霊碑を作った思いを未来につなげてほしいですね。背負い込んできた荷をやっと下ろせるという想いです。
西村)わたしたちも手を合わせに行くことはできますか。
遠藤)もちろんです。役場の広場の一角なので、平日・祝祭日構わず、誰でも立ち寄れることができます。ぜひ訪れてください。
西村)きょうは、元南三陸町副町長の遠藤健治さんにお話を伺いました。
02月23日(日)
第1481回「能登半島地震 ボランティア不足の原因は?」
オンライン:全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)事務局長 明城徹也さん
西村)能登半島地震では、発生から3ヶ月で集まったボランティアの人数が熊本地震の半分と、ボランティア不足が復興の遅れにもつながりました。ボランティアはなぜ集まらなかったのか。
きょうは、全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)事務局長 明星徹也さんにお話を伺います。
明星)よろしくお願いいたします。
西村)全国災害ボランティア支援団体ネットワークはいつごろ発足したのですか。
明星)東日本大震災をきっかけに2016年にNPO法人として設立されました。
西村)どんな活動をしているのですか。
明星)東日本大震災当時、個人のボランティアに加えて、たくさんのNPOなどの支援団体が現地に駆けつけました。しかし、団体同士や行政、ボランティアとうまく連携ができませんでした。全国災害ボランティア支援団体ネットワークは、そのような団体の受け入れ調整をするためにできた組織です。災害時は現地で調整役を務めています。
西村)実際にはどんなことをするのですか。
明星)現地に入った団体の活動状況、被災者のニーズを教えてもらって、現地だけでは解決できない問題の解決策を行政とともに考え、支援をつないでいます。
西村)例えば「がれきの撤去をしてほしい」という被災者からのお願いがあったら、担当する人を調整するのですか。
明星)住民からのニーズにはボランティアセンターが対応します。その中で、なかなか解決できない課題について、県や国と話し合いをしたり、経験のある団体からアドバイスをもらってノウハウを現場に伝えたりしています。
西村)大事なお仕事ですね。
明星)ボランティアとひとくくりで言っても、個人のボランティアもいれば、災害支援を専門とする団体もあります。JVOADは、主に支援経験のある団体同士の調整と行政との調整をしています。
西村)専門性のあるボランティアにはどんなものがありますか。
明星)重機を使った瓦礫の撤去や床下の泥の撤去、屋根瓦の応急処置などができる団体のほか、避難所運営のノウハウ、子どもやペット、要配慮者への支援などさまざまな得意分野を持った団体があります。
西村)さまざまなボランティアが必要だと思うのですが、能登半島地震では、なぜボランティアがなかなか集まらなかったのでしょうか。
明星)ひとつは、半島の先端の被害が大きかったという地理的な要因。アクセスの問題のほかに正月休みに地震が起きてしまったという時期的な要因もあります。熊本地震のときは、地震後にすぐにゴールデンウィークに入ったので、たくさんのボランティアを受け入れることができました。現場の被害が大きく、受け入れ態勢を整えるのに時間がかかってしまいましたが、1月2日から奥能登で活動を始めた団体もあります。専門性を持った団体は早く動いていたのです。
西村)ボランティアが寝泊まりする場所がなかったのは、受け入れ態勢が整うまでに時間がかかったからですか。
明星)行政の職員も宿泊先がないので、役場で雑魚寝せざるを得なかった。支援者は車中泊をする状況が続きました。水も出ない、トイレも不足している、余震が多いという状況だったので、ボランティアは行きたくても行けなかったと思います。企業も社員ボランティアを出したいけど、危険性があるところには出しづらいとう声もありました。
西村)能登半島地震の4日後に石川県知事が「一般のボランティアは控えてください」と発信し、SNSでも拡散されました。これも要因のひとつですか。
明星)石川県の発信の中には、NPOとの連携を進めることも同時に言っていたので、一概には言えません。専門性を持った団体は初期から活動していました。一般のボランティアが全て止められてしまったと捉えられて自粛ムードになってしまったのだと思います。
西村)行政とボランティアの関係はどうでしたか。
明星)NPOは、各市町村と情報共有の場が設けられ、行政からの情報も入っていました。徐々に連携体制ができていきました。
西村)行政と現地のニーズのギャップを感じることはありましたか。
明星)現地のNPOからは「避難所ですぐに食べられるものが届かない」という声が上がっていました。一方で、行政には町各市町に食料が届いていたと報告があり、認識のずれがありました。行政は届けたものは、賞味期限の長いレトルト食品で、すぐに食べられるものではなかったので、NPOが炊き出しを続けていたのです。
西村)今後、同じことを繰り返さないためにはどうしたら良いと思いますか。
明星)受け入れ体制、連携体制を平時からしっかりと作っておくこと。多様な支援ができる団体が多く集まることで、さまざまな支援が可能になります。受け入れ体制を作っていくこと、支援の担い手を増やしておくことが必要です。
西村)能登では、去年の元日に発生した地震の前にも、大きな地震がありましたが、事前の取り決めはしていなかったのでしょうか。
明星)1年前の地震で大きな被害があった珠洲市では、NPOとの連携が進められていました。初期から被災家屋の瓦礫の撤去や福祉的な支援ができる団体の連携がスムーズにできていたと思います。
西村)事前のつながりや備えが大切なのですね。わたしたちがボランティアにいくときは、どのように行動したら良いですか。
明星)まずは現地の情報をしっかりと確認すること。受け入れ体制が整っていない中で行ってしまうと、限られた現地のリソースをつかってしまうことになり、現地のリスクを高めることになります。ボランティアの自主性・自発性を活かすためにも、しっかりと現地の情報を確認することが大事。ボランティアセンターや災害中間支援組織を通すのか、行政と相談しながら進めるのかなど、事前に考えておくことが大事です。
西村)現在は、ボランティアの数は足りていますか。
明星)地域差があります。時間が経つと進捗に差ができてくるので、事前の確認が必要です。
西村)いろんな支援があるということは、自分にもできることがあるということ。情報を集めて、わたしも能登に行きたいと思います。
きょうは、能登のボランティア不足について、全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)事務局長 明星徹也さんにお話を伺いました。
02月16日(日)
第1480回「災害からペットを守るための防災対策」
オンライン:NPO法人アナイス 代表 平井潤子さん
西村)現在、日本で飼われている犬や猫は、1500万頭以上。これは15歳未満の子どもの数よりも多いそうです。突然の災害に備え、人だけではなく、家族の一員であるペットのことも考えた準備が必要です。
きょうは、NPO法人アナイス代表の平井潤子さんに、災害からペットを守るための防災対策について伺います。
平井)よろしくお願いいたします。
西村)平井さんはいつからペットに関する活動を行っているのですか。
平井)2000年の三宅島噴火災害をきっかけに、NPO法人アナイスを設立し、緊急災害時に飼い主と動物が避難生活を送るためのサポートや、緊急時に備えての情報発信を行っています。また、災害発生時には被災動物救護活動に参加し、被災地で避難所などの現地の情報を収集・分析して社会に発信する活動に取り組んでいます。
西村)これまでどんな被災地に行きましたか。被災地のペットはどんなようすでしたか。
平井)東日本大震災では、あまりの被害の大きさに立ち尽くしてしまいました。何から始めていいのかわからない状況で。被災者にペットについて尋ねたところ、「家に置いてきた」「車の中にいる」という答えが返ってきました。
西村)東日本大震災では津波の大きな被害もありました。
平井)発災時間が昼間だったので、勤め先にいて、自宅にペットを残してきた人も多かったようです。
西村)ペットを助けに行こうとした飼い主もいたのでしょうか。
平井)福島の原子力発電所の事故で警戒区域となった地域では、ペットを助けるために飼い主が危険な場所に戻ってしまったこともあったようです。取り残された犬たちが地域で群れて行動し、人々が怖い思いをしたことも。
西村)ペットと暮らす飼い主はどんな防災対策が必要ですか。
平井)ハードのソフトの備えが必要です。ハードは物の備え。ペットフードやお水のほか、病気治療中のペットなら処方食や医薬品を1ヶ月分以上はストックしておきましょう。東日本大震災のときには、発災後の継続調査で半年間、一度もペットの支援物資が届かなかった地域もありました。今後起こるといわれている南海トラフを想定し、ローリングストック方式で1ヶ月分は用意しておきましょう。
西村)その中でも特に用意しておいた方が良いものはありますか。
平井)避難所からの要望が大きく、ないと困るものは、犬や猫の排泄物を処理するうんち袋。避難所ではなかなか手に入らないものです。排泄物の匂いが苦情になるので、排泄物は袋にいれて、周りの人に配慮した場所に置いておく工夫をしてほしいですね。
西村)車中泊するかもしれないから、車にも用意しておいた方が良さそうですね。
平井)品質に細かい管理がいらないので、車の中や家の外の物置などに準備しておくと良いと思います。
西村)ソフトの備えはどんなものがありますか。
平井)大事なのは想像力。災害が起こると生活がどうなるかを想像して備えましょう。飼っている動物の数、家族構成、一戸建てor高層マンション、ライフスタイルによって取るべき行動は変わってきます。自宅避難ができるなら、留守番中のペットの安全を確保するペット用のシェルターを準備しておくのも良いですね。家族で話し合って、オリジナルの防災マニュアルを考えてみてください。
西村)在宅避難ができれば一番良いですね。
平井)人間にとってもペットにとっても、大勢の人が集まる避難所よりは自宅の方がリラックスして過ごせると思います。自宅避難をしつつ、情報や支援物資は避難所で支給してもらうような体制も想定しましょう。
西村)犬と猫によっても対策は変わりますか。
平井)犬は飼い主と一緒に社会参加する動物です。小さいときからしつけや社会化、ハウストレーニングをしておくと避難所でも役立ちます。迷子対策も大事。逃げてしまうことがあるので、再会するためには迷子対策も災害対策になります。
西村)ペットの社会化というのは、社会に慣れておくということですか。
平井)社会化をしておくと、避難所で初めて会う人や犬がいても落ち着くことができます。ペットが社会生活に適応するためのトレーニングです。
西村)大切ですね。迷子対策は、どんな対策をして、どんなものを準備すれば良いのでしょうか。
平井)一昨年から制度化されたマイクロチップも有効です。首輪は、放浪が長くなって、首が痩せてしまうと首から抜け落ちてしまうことがあります。マイクロチップ対策はしておくと良いです。人見知りしないように育てておくと、迷子になったときに保護してあげやすいです。シェルターに預けたときに誰にでも世話することができます。迷子対策の一つとして人に慣れさせておきましょう。
西村)シェルターというのは、どのような場所ですか。
平井)阪神・淡路大震災のときはさまざまなシェルターができました。民間のシェルターもありましたが、兵庫県が用意したふたつの大きなシェルターで被災動物の一時預かりをしていました。飼い主が復興の体制を整えるためにもそのような一時預かりを意識して、ケージに入れるトレーニングをしておくと良いと思います。
西村)一時預かりのシェルターは、どこの自治体にもあるのですか。
平井)動物愛護相談センターのような公的な施設や、地元の獣医師会の動物病院が一時預かりをしてくれることもあります。民間の動物保護のボランティアが災害時にシェルターを設けることも。さまざまな形があります。
西村)平時から調べておくと安心ですね。
平井)避難所だけが避難場所ではありません。動物を一旦預けて分散避難をすること、自宅避難をすることも一つの手段ですので、いろんな形を想定しておきましょう。
西村)猫の場合はどうですか。
平井)猫は犬のように呼び寄せてリードをつけて一緒に避難することができません。パニックになると隙間に隠れて出てこないこともあるので、見つけるのが難しいです。普段から自宅の中に猫の避難場所や隠れ場所をいくつか用意しておいて、何かあったらそこから探す、隠れ場所にキャリーバッグを置いて、その中に逃げるようにしつけるとスムーズに避難できるかもしれません。
西村)猫にとって安心できる場所をいくつも持っておくと良いですね。
平井)複数の猫を飼っている人は、キャリーバッグだけではなく、リュックやショルダーなども用意しておくと良いですね。避難所で猫がキャリーバックで長く生活するのは難しいので、生活用のちょっと大きめのソフトケージもあれば良いと思います。ポンッと広がるタイプのケージもあります。ただ、猫は自宅避難の体制を整えて、飼い主が避難所からお世話に通う方がストレスが少ないと思います。
西村)猫の一時預かり施設はありますか。
平井)あります。先ほど紹介したシェルターや動物病院も預かってくれます。ほかに実家や親戚の家などいろんな預け場所を用意しておくと良いと思います。
西村)猫や犬以外にもウサギやフェレットなどさまざまな動物と暮らしている人がいると思います。それぞれの家庭で避難対策が必要ですね。能登半島地震のときもペットの避難について対策していた人はいたのですか。
平井)発生したタイミングが正月で、震度7という大きな揺れだったので、ペットを避難させることができなかった人や、家そのものが壊れてしまった人が多く、ペットとの避難に苦労したと聞いています。
西村)しっかり準備をして、避難訓練をしておくことも大切ですね。
平井)家族単位で避難訓練をしてください。犬の散歩のついでに避難所を確認して、家族の集合場所について決めておきましょう。
西村)犬や猫と暮らす人へのメッセージをお願いします。
平井)飼い主にはペットを守るという責任もありますが、はぐれてしまったペットが社会に迷惑をかけないように備えるという責任もあります。飼い主とはぐれた犬たちが群れになって放浪したり、自宅から逃げ出した避妊去勢をしていない猫たちが、災害時の支援で餌をあげることで繁殖してしたりすることが地域の問題に発展します。飼い主が管理できない状況にいる動物たちが、地域や社会に迷惑をかけることも考えられるので、家族の一員である動物を守り、社会に対する責任を果たすために、しっかり備えましょう。
西村)きょうは、災害からペットを守るための防災対策にについてNPO法人アナイス代表の平井潤子さんにお話を伺いました。
02月09日(日)
第1479回「危険な豪雪をもたらす"線状降雪帯"」
オンライン:三重大学大学院 教授 立花義裕さん
西村)先週、今シーズン最強で最長の寒波が日本列島を襲いました。北日本から西日本の日本海側を中心に記録的な大雪が続き、空の便をはじめ、多くの交通網に影響が出ました。この大雪をもたらしたのは、線状降雪帯とみられています。
きょうは、気象に詳しい三重大学大学院 教授 立花義裕さんとオンラインでつながっています。
立花)よろしくお願いいたします。
西村)線状降雪帯とはどのような現象ですか。
立花)夏によく聞く線状降水帯は、強い雨がずっと同じ場所に降る現象です。冬の線状降雪帯は、朝鮮半島から日本列島に向かって、日本海上に線状に強い雪雲が伸びる現象で、非常に長い間雪が降ります。雪雲が線状になっていて、集中豪雨をもたらす線状降水帯と形が似ているので、線状降雪帯と名付けて注意喚起をしています。
西村)線状降雪帯は、危険な雪をもたらすのですね。昔からこのような現象はあったのでしょうか。
立花)昔もありましたが、今の方が雪雲の強度が強くなっています。今年は観測史上一番の雪が降っています。
西村)30~40年ぐらい昔の方が、雪がたくさん降って寒かった記憶があるのですが...。
立花)昔の方が寒かったです。でも今は寒くなくてもドカ雪が降ります。
西村)なぜですか。
立花)背景には地球の温暖化があります。
西村)地球温暖化は、夏が暑くなるだけではないのですね。
立花)冬の豪雪も地球温暖化がかかわっています。冬も日本海の海面水温が異常に高くなっています。猛暑によって水温が高いまま冬になったことにより、高い水温の海から水蒸気がたくさん蒸発して強い雲になります。冬になって寒くなったらそれが雪雲になる。しかし、あたたかかったら、雪ではなく雨になるはずですよね。なぜ雪が降るかというと、温暖化に伴って寒気が来るからです。それは偏西風という風の激しい蛇行が原因なんです。
西村)偏西風は西から東へ穏やかに流れていくイメージですが。
立花)偏西風が温暖化に伴って激しく南北に蛇行することによって、寒気が北から南にさがってくる。偏西風の北側には寒気、南側には暖気があります。偏西風が南に蛇行すると寒気が北極から日本付近に降りてくるんです。温暖化になればなるほど、編成風は激しく蛇行して、寒気が日本付近にきやすくなります。地球全体では温かいのですが、冬は激しく偏西風が蛇行して、日本付近は特に寒気がおりてきやすい。上空の寒気で雪雲が発達し、海水が暖かいから降水量が増える。両方の影響が相まって、ドカ雪が降るというわけです。
西村)まさかそんなことになっているなんて...。
立花)ドカ雪が降る背景には温暖化があるのです。夏は非常に暑く、冬は雪がたくさん降る。春夏秋冬の四季ではなく、夏と冬だけの二季になる時代が来るかもしれません。
西村)過ごしやすい春や秋がなくなるかもしれないのですね...。
立花)夏は猛暑で豪雨が降って、冬は寒波で豪雪が降ります。春と秋がどんどん減っていくでしょう。
西村)雪の降る量は昔とは変わっているのでしょうか。
立花)ひと冬を通して降る雪の量は減っていますが、1回で振る雪の量は増えています。昔はじわじわと雪が降って、いつの間にか雪が積もっていました。最近は、いきなり雪が降ってきます。運転しているときになどに急に雪が降ってくると危険です。
西村)線状降水帯のように、線状降雪帯の予測はできるのですか。
立花)ある程度できますが、線状なので、どこに雪雲がくるかを予測するのは難しいです。雪が降っていても隣の町では晴れていることも。車を運転する人は注意が必要です。気象情報に気をつけましょう。
西村)急に線状降雪帯の雪雲の中に入ってしまって、雪が降ってきたらタイヤのチェーンをつけていなかった...ということもありそうですね。
立花)気象情報はきちんと見て、雪対策をして車を運転しましょう。
西村)豪雪の対策について教えてください。
立花)最近の気象予報は2日後ぐらいまでは結構当たります。気象予報を確認して、雪が降りそうな場所に行くときはあらかじめ対策をしましょう。ただし、線状降雪帯のような小さな現象は、予測が難しいので直前の気象情報も確認しましょう。
西村)将来は、線状降雪帯の的確な予測を出せるようになるのでしょうか。
立花)海面水温の高さが雪の量に影響するので、海面水温がわかれば雪の量もわかります。観測船が日本海に行って装置で海水温度を測ります。
西村)地球温暖化になる前は、海面水温は何度ぐらいだったのすか。
立花)場所によって違いますが、地球温暖化になる前に比べて今は約2~3度上がっています。4度くらい高い場所も。これは異常です。夏の間は平年よりも5度くらい高かったです。
西村)何年前から海水温度が上昇しているのですか。
立花)約2年前からです。急に海面水温が2~3度上がって、場所によっては4~5度ぐらい高い。こんなことは今までありませんでした。海水温が高いので、寒気が来なければ日本列島は暖冬になる。でも偏西風が激しく蛇行して、北極の寒気が日本に来ることで豪雪になる。これからの冬は、温かいか豪雪というふうに極端化するでしょう。これが温暖化時代の冬です。
西村)わたしたちは、しっかりと備えなければいけませんね。
立花)世界の中でもこれだけドカ雪が降る場所は日本以外にありません。日本のみなさんは、地球温暖化に対してもっと敏感になってほしいですね。
西村)温暖化に対して敏感になって、備えるにはどうしていったらいいですか。
立花)四季から二季からなるのは嫌ですよね。日頃から温暖化の原因である二酸化炭素を減らすような行動をしてほしいです。
西村)きょうは、線状降雪帯について、三重大学大学院 教授 立花義裕さんにお話を伺いました。
02月02日(日)
第1478回「阪神・淡路大震災30年【7】~被災地発・多言語ラジオ放送の30年」
ゲスト:FMわぃわぃ総合プロデューサー 金千秋さん
西村)阪神・淡路大震災のシリーズ7回目は、神戸市長田区に生まれたコミュニティメディア「FMわぃわぃ」の30年をお届けします。「FMわぃわぃ」が放送を始めたのは、震災発生から2週間後の1995年1月30日。これまでどのように歩んできて、これから何を目指していくのか。「FMわぃわぃ」に発足当初から関わり、現在は総合プロデューサーを務める金千秋さんにスタジオにお越しいただきました。
金)よろしくお願いいたします。
西村)「FMわぃわぃ」は、どのように始まったのですか。
金)30年前は携帯がないので、友達を探すのも大変でした。神戸・長田は在日コリアンが多く、つながりの深い大阪・生野の人たちが友達や親戚を避難所に探しに来ていました。張り紙にキム・パク・リーなどの名前を探しても見つけることができずに困っていた人がたくさんいました。当時、被災者はラジオを一生懸命聞いていたので、「ラジオで情報を呼びかけたら良いのでは」と、大阪・生野から来た人たちが気付いて。大阪・生野の在日系FM局「FMサラン」の送信機で、民団(在日本大韓民国民団)の支部から「ヨボセヨ!どこにいますか!」と声を届けたのが最初です。"ヨボセヨ"とは"ハロー"のような意味。「ヨボセヨ」と呼びかけたので「FMヨボセヨ」と呼ばれるようになりました。
当時、長田のケミカルシューズの会社でベトナム人や日系の南米人がたくさん働いていました。その人たちは日本語が分からないし、防災訓練も受けたことがない、避難所も知らない。そこで、当時、ベトナム人の支援活動をしていたカトリックたかとり協会がベトナム語の放送を始めたんです。"友愛"=ベトナム語で「ユーメン」と名付けた「FMユーメン」は、震災から3か月後の4月16日に始まり、外国人への発信だけではなく、被災している日本人にも話を聞いて発信していきました。そして半年後の1995年の7月17日に2つの局が合併。「FMヨボセヨ」のYと「FMユーメン」のYが一緒になって、「FMわぃわぃ」ができました。
西村)そうだったのですね。「FMわぃわぃ」は"みんなでワイワイ楽しもう"という意味だと思っていました。
金)そのような意味もあります。
西村)外国人は言葉がわからないから「自分はここにいますよ」という張り紙を出すことができなかったのですね。
金)そうですね。1923年の関東大震災のときは、在日コリアンは「韓国人と分かったらどうしよう...」という不安もありました。言葉がわからないから何が起こっているのかわからない。外国人の小さな声を取材するのではなく、本人たちが声を出して発信していきました。カトリックたかとり協会が場所を提供してくれたことも大きかった。最初は無認可でしたが、地域の声を伝える発信こそがコミュニティメディアだということで、正式な認可を得るようになりました。
西村)プロのアナウンサーが喋るのではなく、市民のみなさんが思いを込めて届けたからこそ、広がっていったのですね。金さんは、いつから「FMわぃわぃ」に関わったのですか。地震発生時はどこにいて、どのような状況だったのですか。
金)わたしは、長田区ではなく須磨区にいました。西国街道沿いの築100年以上の木造の古い家にいました。大黒柱があるような大きな家。活断層の上にあったのか、瓦屋根、土塀、蔵などが倒れて全壊しました。
西村)ケガはなかったですか。
金)あちこちに擦り傷はありました。上からいろんなものが落ちてきて。近所では大黒柱の下敷きになって亡くなった人が何人もいました。
西村)そんな大変な状況の中、ラジオは聞いていたのですか。
金)駐車場で地域のみんなでカーラジオを聞いたりテレビを見たりしていましたね。1週間~10日ほど経って、仲間のようすを民団に見に行った夫がトランジスタラジオを持って帰ってきたんです。「ラジオがはじまった」と。
西村)持ち運びできるラジオですね。アンテナをのばして聞くラジオ。
金)聞いてみようとラジオのスイッチを入れたら、アリランが流れてきて。1月29日のことでした。放送開始の前日に試験放送を流していたんです。ラジオは民団がみんなに配ってくれたものでした。
西村)アリランは在日コリアンにとってどんな歌ですか。
金)誰もが知っている民族音楽です。
西村)母国の言葉で、慣れ親しんだ歌なのですね。
金)今は、K-POPがテレビやラジオから流れますが、 当時、韓国の言葉や音楽がラジオから流れることはなかった。わたしは日本籍ですが、夫は在日コリアンの2.5世。彼は自分たちの集まりでアリランを聞くことはありますが、ラジオで聞くことはまずありません。日本の公共放送からアリランが流れたということは、"在日コリアンが認められた"という感覚になったのでしょう。滅多に泣かない夫が真っ暗な中で、ラジオ聞きながら泣いているのを見てびっくりしました。それほど隠れて暮らしていたのだな、と思いました。
西村)そんな人がたくさんいたのですね。金さんは、どのような経緯でラジオへ関わっていったのですか。
金)最初は、マイク1本とCDデッキがある民団へボランティアに行って、その日の炊き出しや配給を読みあげていました。
西村)放送を始めたときのみなさんの反応は。
金)下を見ながら「今日の炊き出しは〇〇です」と、ただマイクの前でしゃべっているだったので、どこに聞こえているのかもわからなくて、最初はラジオをやっている感覚はなかったです。1階でキムチチゲや焼肉の炊き出しをしていたのですが、ある時、炊き出しをしていた人たちが2階に上がってきて「千秋さん、日本人に"鍋に入っているものもらっていいですか"と言われた!」とうれしそうな顔で報告されたことがありました。いつも日本人に支援されて、住まわせてもらっているコリアンが日本人に支援できたことがうれしかったのでしょう。
西村)ラジオが防災において果たす役割は、どんなことだと思いますか。
金)「FMわぃわぃ」はその後もさまざまな被災地に支援に行きました。豪雨災害があった和歌山でリスナーに言われたことがあります。雨の中、閉じ込められている時に、ラジオからいつものアナウンサーが、「大丈夫ですか」と呼びかけてくれたと。「不安なときに知っている人の声が聞こえてきて、すごく安心した」と言われました。不安な時に誰かが自分に声をかけてくれる、そんな声の力は大きいと思います。
西村)ラジオを聞く人が少なくなってきていると言われますが、ラジオが与える役割は大きいのですね。
金)テレビは見ないといけないけれど、ラジオは耳で聞くだけでいい。自分に言ってくれているという感覚がするのだと思います。
西村)「FMわぃわぃ」は今年30周年を迎えます。これからどんなことを目指したいですか。
金)何かを目指してやってきたわたしたちではないので、いつも出たとこ勝負。〇〇のために...〇〇があるから...とこれからも続いていくのだと思います。
西村)きょうは、神戸市長田区で生まれたコミュニティメディア「FMわぃわぃ」の30年について伺いました。ゲストは「FMわぃわぃ」総合プロデューサー金千秋さんでした。
01月26日(日)
第1477回「阪神・淡路大震災30年【6】~足湯ボランティアの30年」
ゲスト:CODE海外災害援助市民センター 事務局長 吉椿雅道さん
西村)30年前に発生した阪神・淡路大震災。発災後、神戸の被災地には、全国から自発的に多くの支援者が続々と集結し、「ボランティア元年」と言われました。そこで生まれたのが「足湯ボランティア」。たらいにお湯を張って足を温め、被災者の話に耳を傾ける「足湯ボランティア」は、その後全国的に広まり、多くの被災地で行われています。
きょうは、30年前、神戸の被災地で「足湯ボランティア」を始めたCODE海外災害援助市民センターの吉椿雅道さんにお越しいただきました。
吉椿)よろしくお願いします。
西村)30年前のボランティアといえば、炊き出しや力仕事をイメージしますが、足湯を提供することになったのはなぜですか。
吉椿)1週間後に被災地に入り、当初は炊き出しや倒壊した家屋から貴重品を出すボランティアをしていました。福岡に住んでいたのですが、兵庫区に親友が住んでいたので、神戸にはよく来ていたんです。親友のアパートが被災して電話がつながらなくて心配で。3日後に電話がつながって無事だったのですが、神戸が大変なことになっているので、ボランティアに行こうと。
西村)そのときに見た神戸はどんな景色でしたか。
吉椿)西宮北口から神戸市内まで自転車でボコボコの道を走りました。そのとき見た景色は今でも忘れません。家屋が倒壊して、人々がさまよい歩いていました。埃もすごかった。その中を自転車で駆け抜けていくときは、まるで別世界にいるようでした。
西村)吉椿さんは当時何歳でしたか。
吉椿)26歳です。初めての災害ボランティアだったので、被災地の空気に圧倒されました。意気込んで来たのはいいけど、あの光景を見たときに「何ができるんだろう...」と。東洋医学のマッサージや整体の仕事をしていたので、何か役に立てればと思っていたのですが、避難所に入ったら空気に圧倒されました。みなさん毛布をかぶって雑魚寝をしていて。風邪気味で咳込んでいる人もいました。
西村)どこの避難所に行ったのですか。
吉椿)兵庫区の避難所です。東洋医学をやっていたので、声をかけて、手のマッサージや風邪のツボ押しをしていました。炊き出しや貴重品を取り出すボランティアもしていました。そうこうしてる中、京都から先輩が来て、「寒いし足湯をやろうか」ということに。当時、兵庫区の山手の方はライフラインが早く復旧したんです。僕は、山手の中国人の留学生の家に泊まっていたので、そこでお湯を沸かして、避難所に持ってきて足湯を始めました。
西村)足湯に入ってくれた人はどんな反応でしたか。
吉椿)長蛇の列になって。当時は風呂も入れなかったので、せめて足だけでも温めたいと並んでくれました。お湯に足をつけてもらって、手のマッサージもやりました。最初はどのように声をかけて良いのかわからなかったのですが、みなさん「兄ちゃんどっから来たの?」と声をかけてくれました。僕の破れたジーンズを見て、「兄ちゃん、ジーンズボロボロやから買ったろか」と言ってくれた人も(笑)。ボランティアの僕らに気を使ってくれるなんて...とびっくりしました。80歳くらいのおばあちゃんは、「戦争も体験して、この年でこんな震災にあうなんて...」とポロポロ涙を流していました。
西村)足湯で体が温まって、心もほぐれてくるのですね。
吉椿)そんな効果を期待していたわけではないのですが、みなさん、自然と語り出してくれましたね。手や声の温かさを感じることで、いろいろな思いを一瞬でもはき出せたのだと思います。
西村)周りも大変な状況だと、なかなか本音を語れないですものね。
吉椿)被災者同士では話せないこともあると思います。僕らみたいに外から来た兄ちゃんになら、ポロっと言えるのかもしれません。僕らは被災者が語る言葉を"つぶやき"と呼んでいます。ひとりひとりが語った言葉から支援を考えていくことが大切です。
西村)30年前の避難所では、吉椿さん以外のボランティアはいましたか。
吉椿)4人の仲間とはじめて、約50人まで増えました。当時、ボランティアセンターはなかったので、僕らは街を歩いて声をかけました。地域の公民館でも足湯をやりました。半壊状態の自宅で避難している人のところに、お湯を持っていって足湯をやったことも。
西村)30年前の映像を見ていると、おにぎりを配っている人もいましたよね。ほかに自主的なボランティアをしている人はいましたか。
吉椿)瓦礫の片付けや炊き出しをする人、避難所で物資を配っている人もいました。
西村)みなさんがそれぞれできることをやるスタイルだったのですね。ボランティアと被災者の関係はどうでしたか。
吉椿)物資を届けていく中で、顔を覚えてもらいながら、少しずつ関係性を作っていきました。
西村)この30年で日本の災害ボランティアはどう変わったと思いますか。
吉椿)ある程度のスキルを身につけた専門性の高いボランティアも増えました。良い面もたくさんある一方で、「ボランティアは資格や専門性がないとできない」と思う人も多い。昨年の能登の水害でボランティアを募集したときは女性の申し込みはほとんどありませんでした。
西村)それはなぜですか。
吉椿)水害は泥かき作業が多く、女性は役に立たないと思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。
西村)「わたしが行っても足手まといになってしまうのでは」と思ってしまいます。
吉椿)そんなことはありません。実際に大学生の女性や80代の男性、知的障害を持った人も来ました。やれることはなんでもあります。80歳のおじいちゃんは、現地の80代のおばあちゃんと話をしました。そんなふうに、お話ボランティアもできます。女性なら掃除など、やることはいっぱいあります。誰もができるボランティアの可能性や価値を伝えていかなければならないと改めて思います。
西村)ボランティアセンターができたことで、大きな変化はありましたか。
吉椿)ボランティア初心者にとっては、ボランティアセンターがあると安心ですが、一方でシステム化されていくと、「瓦礫の片付けだけ」などやることが固定化されているのを感じます。阪神・淡路大震災のときは、多様なボランティアがあって、みんながいろんなことを考えながら公助の隙間を埋めていました。
西村)今後のボランティアのあり方についてどう思いますか。
吉椿)ボランティアのハードルを下げることが大事。僕らのような現場に入っているNPO、NGOができることをどんどん提案していきたいです。ボランティアは、自主性や自発性が大事なので、ひとりひとりが持っている力を活かせる仕組みが必要だと思います。
西村)大変なこともあると思いますが、吉椿さんはなぜ30年もボランティアを続けてこられたのでしょうか。
吉椿)現場で被災者に力をもらっているからです。いろんなことを教えてもらっています。もし僕が被災したら、こんなに温かくボランティアを受け入れることができるだろうかといつも思います。人間のたくましさややさしさを毎回教えてもらっています。だから続けられているのだと思います。
西村)ボランティアを経験したことがないという、リスナーに伝えたいことはありますか。
吉椿)きっかけは何でも良いんです。「能登に行って美味しいもの食べたい」「キレイな景色を見てみたい」とか。行ってみたら、人に出会って、また行ってみたいなと思う。ボランティアは、誰でもできるものなので、みなさんその一歩を踏み出してみてください。
西村)吉椿さんが続けている「やさしや足湯隊」には、若い世代がたくさん参加しています。現在、何人ぐらいの人が参加しているのですか。
吉椿)延べ200人を超えています。これまでに約25回、毎月派遣しています。夏休みや春休みはほぼ毎週派遣しています。
西村)初めてボランティアに参加する人もいるのですか。
吉椿)ほとんどが初参加です。僕らみたいに慣れている人よりも初めて来た人の方が新しい発想を持っています。初めて来た学生さんは、仮設住宅で被災者に声をかけるときに、「大阪から来ました!」と大阪のお土産を持っていくことで、「実は私の親戚も大阪にいるのよ」などと話を広げる工夫をしていました。聞けば当たり前のことなんですけど、ハっとさせられましたね。
西村)わたしも今年は、ぜひ足湯隊にチャレンジしたいなと思います!今も参加者は募集していますか。
吉椿)はい。ホームページやFacebook等で発信しているので、ぜひご覧ください。
西村)きょうは、阪神・淡路大震災30年のシリーズ6回目、足湯ボランティアの30年と題して、CODE海外災害援助市民センターの吉椿雅道さんにお話を伺いました。
01月19日(日)
第1476回「阪神・淡路大震災30年【5】~何を伝える?どう伝える?」
取材報告:亘佐和子プロデューサー
西村)きょうは、番組プロデューサーの亘佐和子さんと一緒にお送りします。
亘)よろしくお願いします。
西村)阪神・淡路大震災30年のシリーズ5回目のテーマは「何を伝える?どう伝える?」。震災を経験していない若い世代へ、震災の記憶と教訓をどう語り継ぎ、次の災害に生かしていくのかを考えます。亘さんは「語り継ぎ」というと、どんな伝え方があると思いますか。
亘)わたしは、「何を伝えるか」を考えていきたいと思っています。30年前の1月17日に起こったことは、そこにいた人しか伝えられないかもしれないけれど、それを聞いた人が自分のフィルターを通して伝える内容もすごく意味のあることだと思います。
西村)わたしは当時中学生で大阪にいたので被災はしていません。でもこの番組でいろんな人の話を聞いて、高齢化で亡くなる人が多くなっている今、わたしもお手伝いをしたいと思いました。わたしは被災していませんが、去年から「震災を読みつなぐ会KOBE」で朗読で伝える活動に参加しています。小中学校などで、阪神・淡路大震災に関する詩や絵本の朗読を行っている団体です。自分たちで朗読するだけではなく、児童・生徒にも朗読をしてもらって、震災と向き合うきっかけ作りをしています。40~80代の22人のメンバーが参加しています。代表の下村美幸さんは、「災害の記憶を風化させてはいけない」という思いからこの団体を発足させ、今年で20周年を迎えました。1/14(火)、小学校で行われた出前朗読にはじめて参加してきました。
亘)はじめてだったのですね。
西村)神戸市西区にある神戸市立枝吉小学校の震災集会です。「震災を読みつなぐ会KOBE」では、10年以上この学校で出前朗読を行っていて、ずっと引き継ぎが行われて、ご縁がつながっているそう。代表の下村さんは長年この学校に通っているので、児童からも声をかけられて、子どもたちとハイタッチを交わしていました。体育館に集まったのは、歌や朗読の発表した4年生と5年生の児童と保護者約100人。ほかの児童は、教室で中継を見るリモート授業となりました。この日わたしが読んだのは「伝えよう」という詩。この作品は、神戸市の人権課が子どもたちに残したい言葉を募集した「子どもたちへのメッセージ集2010」に掲載されています。震災から15年目のときに寄せられた詩です。詩を読んでみますね。
伝えよう
あの日がくると知っていたら
あの地震が起きると知っていたら
大好き
ありがとう
ごめんなさい
意地を張らずに言えたのに
毎日感謝を伝えたのに
一緒に暮らしていると あまりに身近すぎると
いつでも言えるから いつでもよいと思っていた
でもあの日を過ぎて おばあちゃんに「明日」は来なかった
十五年も経ったのに 言えなかったたくさんの言葉が
雪のように心に降り積もってまだ溶けないでいる
だから
照れ臭くても 喧嘩してても 一緒でも 遠くにいても
相手にきちんと伝えて欲しい
大好き ありがとう ごめんなさい の言葉を
大切な人に伝えて欲しい
大切な人に必ず「明日」が来るとは限らないのだから
あの日 地震で亡くなっていった多くの人に
伝えられなかった思いの分まで
亘)"おばあちゃんに「明日」は来なかった"のところにドキッとさせられました。子どもたちはどんなようすで聞いていましたか。
西村)真剣な眼差しで静かにこちらをじっと見つめて聞いてくれていました。被災経験のないわたしでも、伝えることができたのでしょうか。この日、体育館で聞いてくれていた4年生の女の子が感想を話してくれました。
音声・女の子)普段言えないこと、言いづらいことはあると思うけど、それを言わずに、地震が起きて、言いたかったことを言えないままその人が亡くなったら後悔する。(言いたいことを)言えるときに言った方がいいと感じました。これからも身近な人にいろんなことを伝たえられたらと思います。
西村)うれしい言葉をいただきました。被災したみなさんの思いを読みつないで、これからも届けていきたいと思います。「震災を読みつなぐ会KOBE」は1/26(日)に「朗読でつづる震災手記のつどい」を兵庫県立美術館KOBELCOミュージアムホールで開催します。午後1時30分開演。入場無料。わたしも出演します。みなさまぜひお越しください。続いては、亘さんのリポートです。
亘)わたしは震災でお子さん2人を亡くした米津勝之さんの話をします。米津さんは、芦屋市で被災しました。当時小学1年生だった長男・漢之(くにゆき)くんと、幼稚園に通っていた長女・深理(みり)ちゃんを亡くしました。米津さんはいろいろな学校で子どもたちに震災を語っています。子どもたちと対話をして、子どもたちの声から米津さん自身が新たな気づきを得ています。だから語る内容は年を経て変化していきます。1/15(水)に芦屋市立山手小学校の1年生に米津さんが話をしたときのようすを紹介します。リスナーのみなさんも子どもたちと一緒に考えてみてください。
音声・米津さん)きょうは、みんなに見てもらいたいものがあります。これは何ですか。
音声・子ども)ランドセル!
音声・米津さん)誰の?
音声・子ども)くにゆきくん!
音声・米津さん)そうやな。くにゆきは、当時、精道小学校の1年1組でした。これはくにゆきが背負っていたランドセルです。ランドセルの中は、30年前の1月16日の時間割のままになっています。これはくにゆきが使っていた筆箱。鉛筆は1月16日に削ったままになっています。1月17日が普通にくると思って前の日に削ったまま。ここで考えてほしい。この筆箱の時間はどうなってる?
音声・子ども)めっちゃ時間経ってる!
音声・米津さん)時間たってるよな?でも筆箱の時間は?変わってないよな。それってどういうこと?
音声・子ども)そのまま!
音声・米津さん)そう!そのまま。筆箱の時間は止まってんねん。30年前の1月17日から。
西村)小学1年生と対話していますね。
亘)そうですね。たくさん手があがっていました。「1年生には難しいかな?」と思いながら見ていたのですが、子どもたちの真剣な表情に圧倒されて感動しました。このランドセルの話には続きがあります。筆箱の時間は止まっているのですが、ランドセルの時間は止まらなかったんです。
西村)どういうことですか。
亘)1年生で亡くなったくにゆきくんは、ランドセルを9~10ヶ月しか背負えなかったけど、ランドセルはボロボロになっている。米津さんはそれを子どもたちに見せます。なぜこんなボロボロになっているのか。震災の後に生まれた弟の凛(りん)くんが6年間このランドセルを背負ったからです。りんくんが小学校に入るときに、「新しいランドセルを買う?お兄ちゃんが使っていたランドセルを背負う?」と米津さんがりんくんに聞いたら、りんくんは、「お兄ちゃんの使う」と答えました。その話は、「にいちゃんのランドセル」という本になり、歌にもなりました。りんくんがランドセルを使い終わったあと、再び亡くなったくにゆきくんの教科書や筆箱を入れました。
米津さんはさらに子どもたちに問いかけます。「このランドセルには何が入っている?」と。クラスで話し合って何が入っているか考えて、お手紙をくださいと。くにゆきくんが1年間背負えなかったランドセル。そのあとに生まれた弟のりんくんが6年間背負ったランドセル。くにゆきくんとりんくんのいろいろな想いがそこには詰まっています。米津さんの話が終わったあと、「ランドセルを見せてほしい!」と、校長室まで追いかけてきた子どもたちがいました。米津さんはランドセルを見せてあげました。中には、当時の教科書が入っていて、「自分たちが今使っている教科書と同じだ!」と話していました。
西村)30年の時が近づいたのですね。
亘)このような対話を踏まえて、子どもたちはこのランドセルの意味を考えると思います。リスナーのみなさんもぜひ、「このランドセルには何が入っている?」という問いについて考えてみてください。災害で人が突然亡くなるということの残酷さ。亡くなった人の思いを受け継いで生きること。いろんなことを考えさせられます。語り継ぐというのは、一方的な作業ではなく、語り手と受け手のキャッチボールの積み重ねの中で立ち上がって育っていくものだと、米津さんの授業を聞いて思いました。
西村)私も大切にしたいです。
亘)米津さんは東日本大震災で被害を受けた東北でも語り部をしています。全国トップクラスの実力を持つ音楽部がある岩手県立不来方高校とも交流を重ねてきました。不来方高校の音楽部員が全国ツアーを行うのですが、2月24日(月・祝)に西宮市民会館でファイナルコンサートを行います。
西村)西宮に来るのですね!
亘)米津さんも特別出演します。不来方高校と阪神・淡路大震災の被災地である兵庫県立神戸高校の合唱部が一緒に「兄ちゃんのランドセル」「幸せはこべるように」を歌います。入場無料。関心のある人はぜひ聴きに行ってください。そして、災害や復興、語り継ぐことについて思いをめぐらせていただきたいと思います。
西村)ありがとうございました。亘佐和子プロデューサーのリポートでした。
01月12日(日)
第1475回「阪神・淡路大震災30年【4】~地震火災」
オンライン:元神戸市消防局長 鍵本敦さん
西村)阪神・淡路大震災の発生から17日で30年になります。当時、神戸市では大規模な火災が発生しました。地震が原因とみられる火災は285件にのぼり、119番が鳴り止むことはなかったそうです。なぜここまで大規模な火災が起きてしまったのか。震災当時、長田消防署に勤務していた元神戸市消防局長の鍵本敦さんにお聞きします。
鍵本)よろしくお願いいたします。
西村)もうすぐ阪神・淡路大震災の発生から30年になります。地震発生当時のことを教えてください。
鍵本)当時、神戸市消防局の長田消防署で勤務をしていました。32歳で消防指令になって2年目の年でした。1月16日の9時半から1月17日の9時半まで、24時間の当直勤務中に地震にあいました。朝5時頃に消防署の2階の仮眠室で、朝まで仮眠をとろうとゴロンと寝転んでいたときです。突然ドーンという衝撃音がして、消防署にトラックが突っ込んできたのかと思いました。その後、強烈な横揺れがあり、室内のロッカーがスーッと滑っていきました。大きな地震はほとんど経験したことがなかったので、震度7の揺れにど肝を抜かれました。
西村)すぐ外に出たのですか。
鍵本)地震の揺れが強烈だったので、建物の中にいるのは危険と判断。揺れが収まってから、部隊と一緒に消防車両で庁舎の外に出ました。
西村)そこにはどんな景色が広がっていましたか。
鍵本)真っ赤な炎が燃え盛っていました。約200平米が爆発したように燃えていました。普通の火災なら徐々に火が大きくなって、15分後くらいに外へ火が噴き出しますが、すぐに火があがっていました。最初は2ヶ所の現場に消防車を分散させ火を消そうとしましたが、信号も消えていて真っ暗でした。
西村)まだ明け方のことでしたものね。
鍵本)通常の火災現場は騒然となっているものですが、すごく静かでした。突然の地震で、みなさん着の身着のままに避難していました。何人か人は見えましたが、車も通っていなくて、町が死んでしまったようでした。火災現場の近くの女性が「お父さんが家の下敷きになっているので助けてください!」と言っていたのを覚えています。
西村)消防署には何件ぐらいの通報が来ましたか。
鍵本)取りきれないぐらいです。当時は118回線の電話を受ける体制を整えていましたが、電話は鳴り止みませんでした。
西村)そんな中で鍵本さんはどうしたのですか。
鍵本)長田消防署の当直責任者という立場で現場を回りました。長田消防署のポンプ車5台をフル稼働して、早期に火災を抑えようと動きました。既に10件以上の火事が起こっていました。延焼危険度の高い地域から早く消火しなければなりません。市場や商店街など家と家の間の距離が小さいところは、普段でも延焼危険度が高いので、早く消火しないと手がつけられなくなります。
西村)火を消すときには水は使えたのですか。
鍵本)断水していて水道消火栓が使えないので、地面の下の防火水槽の水で消火活動をせざるを得ない状況でした。
西村)水は足りたのでしょうか
鍵本)名古屋や静岡あたりには、地震に対応する防火水槽がたくさんありましたが、「神戸には地震があまりこない」と行政も市民も思っていたので、防火水槽が少なかった。川、海、学校のプールなど町中のありとあらゆる水を求めて、ポンプ車を移動させて消火しなければなりません。非常に厳しい条件の中で消火活動にあたりました。
西村)海や川からの給水は対策されていたのですか。
鍵本)以前から大きな工場火災などでは、消防艇で海の水を陸へ引っ張っていました。実際の現場を経験したこともあります。
西村)普段から訓練はしていたのですか。
鍵本)実践がありました。神戸は海に面しているのでそのようなノウハウはありました。
西村)消火しているときも、目の前には倒壊した家の下敷きになっている人々がいたのですよね。
鍵本)消火活動をしながら、近隣で救助ができそうな場面があれば救助活動にも携わりました。ほとんどの木造の家屋の2階が1階に落ちてしまっていて、簡単に救出できる現場はほとんどありませんでした。重機がないと救助できない状況。消火をしていたら、「こっちの救助に来てくれ!」と引っ張りだこになっていました。
西村)30年前の震災の教訓をこれからに活かしていかなければなりません。鍵本さんはどのように考えますか。
鍵本)長田区は地震による火災の影響が特に大きかったエリアです。同時多発の火災が起こり、消防隊の数より上回る火災件数があったので、消防隊だけではどうしようもありません。消防団や地域の自主防災組織にも初期消火をお手伝いしてもらわなければなりません。
西村)わたしたちがこれからできることはありますか。
鍵本)地震が起こったときに、まず火を出さないということが大事です。
西村)そのためにはどんな備えをしたら良いですか。
鍵本)建物が壊れて火が出ているパターンが多いので、まずは耐震化が大切です。今の新築の建物は、すべて耐震化されていますが、耐震補強をして家が潰れないようにするのが大前提。それによって火事も閉じ込めも防ぐことができます。そして、火災を起こさないことも大事。日本の電化製品は、転倒すると電気が遮断されます。関東大震災などの教訓を踏まえて改良されています。阪神・淡路大震災では、町のいたるところでガス漏れが起こっている中、電気による通電火災が注目されました。
西村)通電火災とは、どのようにして起こるのですか。
鍵本)大規模な停電が起こると、電力会社が停電エリアを探るために1~2分後に電気を通します。変電所に近いエリアから順番に送電して、停電エリアを探るメカニズムがあるそうです。そのときにブレーカーの電線が不安定な状況になっていたら、ガスに引火して燃えてしまいます。停電後の復旧作業の際、それぞれの家の電化製品の状況がわからない中、電気を通してしまうと、ストーブの上の布団や洗濯物に引火して火事になることも。地震が起こると家の中の電気を遮断する感震ブレーカーをつけておけば、通電火災を防ぐことができます。
西村)我が家の実家は古いので、改めて確認しておきたいと思います。鍵本さんが震災の教訓を未来に生かしたいことは何ですか。
鍵本)30年経って教訓の伝承は課題となっています。日本はどこで地震が起こってもおかしくありません。市民1人1人、企業が日本は地震国であるいうことを自分ごととして捉えてほしい。さまざまな備え、周りとの連携をしていきましょう。日本人全員が未来への責任として、過去の大きな自然災害を伝承することが、国民の未来への責務と言えると思います。
西村)ありがとうございました。阪神・淡路大震災30年のシリーズ4回目は、元神戸市消防局長の鍵本敦さんにお話を伺いました。