04月13日(日)
第1488回「ミャンマー大地震 被災地の状況」
オンライン:国際医療NGO「ジャパンハート」創設者の医師 吉岡秀人さん
西村)ミャンマーでマグニチュード7.7の大きな地震が発生してから2週間が経ちました。3000人以上が亡くなったと伝えられていますが、今も被害の全容は明らかになっていません。
きょうは、ミャンマーで医療支援に取り組んでいる国際医療NGO「ジャパンハート」の創設者で医師の吉岡秀人さんにお話を聞きます。
吉岡)よろしくお願いいたします。
西村)地震が発生したとき、吉岡さんはどこにいたのですか。
吉岡)震源の真上ぐらいにいました。マンダレーから川を挟んで対岸にあるサガインという町です。
西村)そのとき何をしていましたか。
吉岡)僕は20年以上、この地域で貧困層の人たちの治療や手術をしています。ひと月の内、1週間~10日間滞在して、約100件の手術をしています。ちょうどその日は、手術が始まる日でした。前日の3月27日はミャンマーの国軍記念日で内戦状態になっていて。サガイン地区は戦闘が激しい地域なので、僕はサガイン地区には入らずに前日はマンダレーにいました。そして、3月28日から通常通り治療を始めようとサガインに入りました。その日は約11件の手術を予定。午前中の簡単な手術から始めていたところ、昼の12時半ごろに地震がありました。ちょうど若い女性の甲状腺のがんの手術で、麻酔をかけ始めるタイミングに最初の揺れが来ました。
西村)どんな揺れでしたか。
吉岡)大きい揺れでした。僕は阪神・淡路大震災ときに大阪の病院で働いていたのですが、そのときに感じた揺れより大きかったかもしれません。現地の耐震設計がされていない病院が揺れて恐怖を感じました。いつ天井が落ちてくるかわからない。タイやミャンマー、カンボジアは地震が少ないので、耐震という発想がなく、非常に地震に弱いエリアです。東南アジアの災害はほぼ洪水で、今回は200年ぶりぐらいの大きな地震でした。しばらくしておこった2回目の揺れの方が大きくて、ものが全部落ちてきました。手術室は壁が落ちて、物が散乱。患者さんは麻酔をかけたばかりで、自発呼吸もできず、意識もない状態でした。麻酔が冷めるまで1時間ぐらいかかるので動かせない。肺の中に入れているチューブがズレると息ができなくなります。麻酔をかけたばかりの患者さんは、人工呼吸器をつけたままみておくしかありませんでした。人工呼吸器はバッテリーがあるので、停電でも動かすことができます。僕は、病棟の約50人の入院患者たちが安全に逃げられたのか見に行こうと外へ出ました。すると、患者やスタッフは近く畑に逃げていましたが、病棟はむちゃくちゃになっていました。
僕たちが運営する病院は、新しい病棟と古い病棟あります。手術室は古い病棟にありました。新しい病棟は、1階の柱が折れかけていて、1階にも患者がいるので、取り残されている人がいないか見に行こうとしたら、現地の人に「危ないから行かない方がいい」と言われて。立ち止まったときに3回目の大きな揺れが来て、新しい病棟は崩れ落ちてしまいました。
西村)新しい方の病棟が崩れてしまったのですね...。
吉岡)古い病棟の方が基礎がしっかりしていたようです。もう1度大きな揺れが来たら、手術室がある古い方の病棟も崩れ落ちる危険があるので、患者を外に出すしかないと思い、急いで手術室に戻って、患者を運び出しました。患者には、気管の中に入れたチューブに空気を送るバックを取り付けて、自分の手で空気を送りました。近くの小さな広場に炎天下の中、運び出してそこで30分ぐらいかけて麻酔を覚ましました。
西村)大変な状況の中で、大きな揺れを経験したのですね...。その患者さんは無事でしたか。
吉岡)無事でした。そこで患者を診ていると、怪我をした人たちがどんどん病院に運ばれてきました。その人たちを病院の前の階段などでストレッチャーにのせて治療しました。
西村)外での治療は大変だったのではないですか。
吉岡)建物が崩れているので埃っぽく、室内ほどの衛生環境はありませんが、糸や針、消毒薬など清潔な医療物資は使えるので、そこまでダメージはありませんでした。しかし、ひどい人をそこで治療することは難しいので、大きな病院までつれていくしかありませんでした。そこでできる限りのことをやりました。
西村)その後はどうなったのですか。
吉岡)サガイン地区は震源地の真上で、町の7~8割は全半壊。ミャンマーの北と南を結ぶ鉄橋も崩落して、車が走る橋も大きな亀裂が入り通行止めになってしまいました。ミャンマーは特殊な国で、外国人に行動の自由がありません。観光できる町も宿泊できるホテルも決まっています。僕は特別な寺に泊まっていますが、ミャンマー人の家には泊まれません。僕は病院の中では自由にできるのですが、3km離れた場所で患者が血を流していても助けに行くことはできない。事前に届け出を出さないといけないんです。いろんな事情があって自由がない。現地の医療スタッフも育っているので、ここは現地のスタッフたちに任せて、僕は後方支援に回った方が良いと考えました。現地のスタッフも僕の安全を第一に考えてくれて、一旦引き上げてほしいということで、その日の夜、暗くなる前に船に乗り川を下って、対岸まで40分ぐらい移動。さらに陸路で2日ぐらいかけてヤンゴンという一番大きな町まで移動しました。
西村)被災地の気候についても教えてください。
吉岡)東南アジアは5月ぐらいから本格的に雨季に入ります。雨季直前が一番暑く、40度を超えます。場所によって違いますが、中部地区は温度が高くてとても暑い場所です。
西村)そうすると病気も蔓延しそうで心配ですね。
吉岡)発災直後は安全な飲み水が確保できないこともありました。被災者は外で寝ていました。彼らは地震を経験したことがないので、恐怖もあり、建物の中には2~3日は戻らなかったようです。今後、雨季に入ると感染症が流行り出します。特に小さい子どもは蚊が媒介するデング熱で死ぬことがあります。雨季になると蚊が発生するので、外に寝ていると噛まれやすい。今の状態が長く続くと、安全な水の不足による下痢などの感染症もさることながら、ウイルス感染の危険性もあると思います。
西村)日本にいるわたしたちにはどのような支援ができますか。
吉岡)現地の政府と契約を結んでいる組織はほとんどありません。僕らは政府に許可を得ているので、現地で医療活動ができます。今も日本人の医師や看護師が巡回診療をしたり、崩れた病院の前で青空クリニックをしたりしています。さらに大量の物資を毎日ピストンでヤンゴンから運んでいます。蚊が媒介する感染症を防ぐための蚊帳や食料や水も配っています。支援したいときは、どのような支援をしたいかを決めて支援先を選べば良いと思います。個人的に支援をしている人もたくさんいます。大きな組織になるほど、ミャンマー政府を通しての支援に変化していくので、現場にどのぐらい届くのかわかりません。医療を支援したい場合は、僕らから確実に届けることができるのですが、それ以外のものを支援したいときは、情報を調べてみてください。
西村)きょうは、ミャンマーで医療支援に取り組んでいる国際医療NGO「ジャパンハート」の創設者で医師の吉岡秀人さんにお話を伺いました。
04月06日(日)
第1487回「相次ぐ山林火災」
オンライン:東京理科大学 教授 桑名一徳さん
西村)2月26日に発生した岩手県大船渡市の山林火災。焼失面積は、大船渡市全体の9%にあたる約2900ヘクタールで、平成以降、国内の山林火災では最大となりました。先月は岡山市や愛媛県今治市などでも山林火災が相次いでいます。
きょうは、春に多いと言われる山林火災について東京理科大学教授 桑名一徳さんに聞きます。
桑名)よろしくお願いいたします。
西村)大船渡市の山林火災は、なぜあんなに燃え広がったのでしょうか。
桑名)主な原因は極度な乾燥と強風。2月は、大船渡市は記録的に雨が少なく、18日から乾燥注意報が出されていました。山林の落ち葉や枯れ枝が極度に乾燥していた状況でした。火災が発生した日は、平均風速7.7m、最大瞬間風速が18.1mの強風を観測。この強風で急速に燃え広がったのだと思います。風が強かったのでヘリコプターによる水の空中散布も困難で、飛び火も起きてしまいました。
西村)さまざまな要因が重なってあんなにも燃え広がってしまったのですね。この時期は山林火災が多い時期なのでしょうか。
桑名)毎年春先は山林火災が多い時期。2~5月は全体の約5割の山林火災が起こるというデータもあります。この時期は山林火災に注意が必要です。
西村)山林火災の主な原因は何ですか。
桑名)たばこのポイ捨て、焚き火、野焼き、放火など人為的な要因が多いです。
西村)大船渡市の山林火災の原因はわかったのでしょうか。
桑名)原因は発表されていません。
西村)大船渡市は、2月26日に山林火災が発生して、3月初旬にまとまった雨が降りましたよね。その後、3月9日に鎮圧宣言が出ましたが、まだ鎮火には至っていないということ。鎮圧と鎮火の違いはなんでしょうか。
桑名)鎮圧は火の勢いが抑えられて延焼する危険性がない状態。一方、鎮火は完全に火が消えて、燃え広がる危険性がない状態です。
西村)規模が大きい火災では、鎮火を宣言するのも難しいのでしょうか。
桑名)今回のような大規模な山林火災では難しいです。表面の葉っぱを掘ると火種がくすぶっていることも。くすぶっている火を見つけることはほとんど不可能。鎮圧に時間がかかり、鎮火を判断するにはすごく時間がかかります。
西村)消火する水を準備するのも大変なのでは。
桑名)空中散布で水をたくさんかけるのですが、水を準備するのも大変です。消防隊員や消防団が水をしょって山に登ることもありますが、たくさんは持っていけません。山の奥や葉っぱの下まで水をかけるのは難しいのです。
西村)大船渡市の山林火災では、どこから水を用意したのでしょうか。
桑名)海水を使っていたかもしれませんが、山の生態系にたくさん塩水をかけるのは良くないという問題も。大規模な山林火災では水をかけてもなかなか火が消えません。
西村)今回の山林火災は、平成以降で国内最大規模となりました。今までの山林火災と異なる点は。
桑名)今回の山林火災は、通常では考えられないぐらいの延焼速度でした。極度な乾燥などが原因だと考えています。地球温暖化による気候変動も関係しているかもしれません。
西村)アメリカのカリフォルニアでも大きな山林火災がありました。カリフォルニアの山林火災も地球温暖化が関係しているのでしょうか。
桑名)一般にはそのように理解されています。地球温暖化が起こると気候が極端になります。雨がたくさん降ったり、全然降らなかったり。今までにはなかったような乾燥状態となり、延焼速度が速くなることも。たばこのポイ捨てや野焼きも乾燥がひどいと山火事につながってしまいます。温暖化による異常気象の影響は大きいと思います。風が強いときや乾燥が続いているときは、なるべく野焼きをやらないようにしましょう。どうしても必要なときは、十分注意をして行いましょう。
西村)山林火災は、岡山市や愛媛県今治市など各地で発生しています。山林火災は、今後どこの地域でも起こり得ることなのでしょうか。
桑名)山林火災はどこでも起こり得ます。乾燥状態なら、ちょっとした火種から山火事になってしまいます。人為的な要因が多いので、山の近くで火を使う場合は確実に消火をすることが大切。
西村)具体的にはどのように消火をすれば良いのでしょうか。
桑名)水をかけて消したつもりでもくすぶっていて、山火事になることもあります。十分な水を用意して、しっかり濡らして消すこと。周りに水を撒いて延焼を防ぐ対策も重要です。
西村)リスナーに改めて伝えたいことはありますか。
桑名)極端に乾燥すると火事につながってしまうことがあります。ほんのわずかなことが大変な火災につながってしまうので、「これぐらい大丈夫だろう」と思わないで、十分に注意してほしいです。
西村)キャンプに行ってバーベキューや焚き火をすることもあるかもしれません。自然の中での火の取り扱いには、くれぐれも気をつけましょう。
きょうは、春に多いと言われる山林火災について、東京理科大学教授 桑名一徳さんにお話を伺いました。
03月30日(日)
第1486回「仮設住宅の住民をつなぐ通信『絆』」
電話:石川県穴水町下唐川地区 区長 加代等さん
西村)きょうは、能登半島地震で大きな被害を受けた石川県穴水町の仮設住宅で暮らす人たちのお話です。「絆」という通信を発行し、一軒一軒に配って、住民たちの関係をつないでいる穴水町下唐川地区の区長 加代等さんにお話を聞きます。
加代)よろしくお願いします。
西村)加代さんは今、仮設住宅で生活をしているのですか。
加代)1月1日の能登半島地震で家が大規模半壊になったので、昨年の4月16日から仮設住宅で暮らしています。自宅は早い段階で再建に入ったので、4月にほぼ完成する予定です。
西村)下唐川地区の地震被害について教えてください。
加代)下唐川地区には空き家も含めて約40軒の家がありましたが、約30軒が全壊・大規模半壊に。今は30軒が公費解体されました。
西村)4分の3が解体されたのですね。
加代)この地区には怪我人はいなかったのですが、風景が変わってしまいました。県道に土砂崩れや道路の地割れが起こって、一時孤立状態になりました。わたしは妻と2人暮らしですが元旦は、子どもや孫あわせて12人が家にいました。行き場がなくなってしまったので、近くの集会所にみんなで身を寄せました。30畳のスペースに約60人が入って避難生活を始めました。
西村)狭い中で生活をしていたのですね。孤立して大変だったのではないですか。
加代)1番大変だったのは、ライフラインが切れたこと。道路は車が通れない状態。地区にはきれいな湧き水を使った簡易水道があるのですが、本管が土砂崩れで道路ごと流されて水が来なくなりました。もちろん電気も来ませんし、情報も入ってこない。ライフラインが全て切断されて、本当に困りました。
西村)それで、どうしたのですか。
加代)村には、重機を運転できる人、水道屋さんに勤めている人、電気屋さんがいました。田んぼにあった大型の重機を使って、道路の割れているアスファルトを剥がして、通れるように修復をしました。水は、最初は山水を汲んでいたのですが、水道屋さんが、パイプを持ってきて近くの井戸水を修復。水を集会所、避難所に引いて、4日ぐらいで水道が使えるようになりました。いろいろなスペシャリストがいて助かりました。情報が入らないことが人々の不安につながるので、電気屋さんがBSアンテナを手に入れて、BS放送で他の地区のようすを見られるようにしてくれました。
西村)情報が入ってくると安心につながりますね。
加代)テレビが1台つくだけでみんなほっとするんです。1月は寒い時期だったので、インフルエンザや衛生面も気になります。元看護師の妻や2人の養護教諭が毎朝、避難所にいる人の健康チェックをして、トイレの消毒もしたので、インフルエンザも広まることはなくすごく助かりました。
西村)みんながそれぞれが自分のできることをやったのですね。
加代)「この人すごい、こんなことできるんやな」とお互いをリスペクトしましたね。それがエネルギーになったような気がします。
西村)下唐川地区には「石川モデル」という新しい形の仮設住宅が建てられました。この仮設住宅は、災害救助法で定められた2年間の入居期間終了後は、公営住宅になります。つまり退去する必要がなく、収入に応じた家賃を払って、長く住み続けることができるのです。「石川モデル」は、木造平屋の1戸建てとのこと。
加代)わたしたちの地区に「石川モデル」ができたのが7月19日。県産材を使ったフローリングや畳の部屋もあり、基礎がしっかりしているので、断熱効果も高くてとても良いです。仮設住宅なので、4畳半2間+台所の9坪しかなく少し狭いですが。ずっと住み続けることができるので、金沢のみなし仮設に入っていた人も戻ってきました。80代のお年寄りが帰ってくると真っ先に「ここに帰ってきてよかった」「ここの空気を吸ったらすっかり元気になった」と言っていました。
西村)住み慣れた場所はやはり良いものですよね。下唐川地区では、地元で暮らし続けたいと思っている人が多いのでしょうか。
加代)家の再建が難しい人もいます。子どもの住む場所に行った人もいますが、みなさん、できれば生まれ育った土地で最期を迎えたいと思っています。地元の空気や景色が大切だと感じている人たちが多いようです。「石川モデル」ができたことで、地元に留まった人もたくさんいます。
西村)加代さんは、下唐川地区に住むみなさんのために「絆」という通信を発行し、仮設住宅での出来事や復興の状況を伝え続けているそうですね。なぜこの「絆」通信を繕うと思ったのですか。
加代)5月28日に穴水町で初めて自治会組織ができ、団地の区長になりました。わたしは、中学校で教員をしていたので、学年通信や学級通信を発行していたことがあります。わたしは、重機も運転できないし、水道もなおせないけれど、通信を作って各世帯に配ることならできる。住民の健康状態をチェックしたり、話を聞いたりしながら、つながりを作ろうと書き始めました。
西村)手渡しすることで、顔を見て会話するきっかけになりますね。通信にはどんなことが書かれているのでしょうか。
加代)ボランティアが開いてくれるカフェやイベントについてなど。「歌を歌ってくれるボランティアが来るよ」という情報や、みんなが不安に思っている公費解体の状況も書いています。仮設団地ができる時に復旧した簡易水道は、山が揺れたために鉄分が多くなって飲めなかったので、水質検査のようすもお知らせしていました。
西村)盛りだくさんな内容ですね。
加代)ボランティアの申し出は全て受け入れてきたので、情報も共有できる。来てくれたボランティアさんにメールで通信を送って、つながりを続けています。
西村)外部から来た人たちとの絆も深まっているのですね。毎週発行しているのですか。
加代)6月1日が第1号で、3月31日で100号になります。1ヶ月に10号ぐらいですから、週2回ぐらい発行しています。
西村)結構、忙しいのではないですか。
加代)今は、パソコンを使って1時間もあれば1枚できるので、学校通信よりも楽に作れていますよ。
西村)さすが学校の先生ですね!今、私の手元に「絆」通信があります。これを見ているといろんなことが分かります。家の公費解体で変わっていく風景をドローンで撮影した写真が載っていますね。加代さんは、このドローンの写真を見てどう思いましたか。
加代)自宅が解体されていくようすは、本当に寂しいと思いました。家がなくなるだけではなく、そこに住んでいた人たちの思い出までも消えていくような気がして。最初は公費解体を進めることが自分の役割と思って、どんどん解体を進めていましたが、雪が降る前に、30軒の解体を終えて村を眺めたときに、「(解体を)やってきてよかったのかな。もっと残せる家もあったんじゃないかな」と思いました。もちろん持ち主の意向で解体したのですが、100年以上の歴史がある立派な家もあったので。
西村)この通信を見たみなさんの反応はどんなものでしたか。
加代)団地のようすやボランティアの情報もわかるし、わたしや他の人の想いも書いているので、みなさんすごく楽しみにしてくれています。わたしは、9月から下唐川地区の区長になったので、通信の名前を「下唐川団地通信」から「下唐川通信」に変更。団地の17世帯だけではなく、地区に残っている人たちにも配っています。団地と地区をつなぐ役割が果たせていると思います。
西村)これから下唐川地区はどのようになってほしいですか。
加代)下唐川地区は高齢化率が高く、地震が起きていなくても15~20年先にはほとんど人がいなくなる場所です。いずれは村じまいをしなければならないような状況でしたが、この地区に「石川モデル」ができたことで、たくさんの大学関係者や大学生が訪問してくれるようになりました。地区の祭りや行事に大学生が関わってくれて、3月3日の春祭りには、金沢大学の学生や職員が来て、一緒に団子を作りました。今後、高齢者が多くなっていくとは思いますが、そのような交流人口を増やして、村の中に賑わいを作っていけたらと考えています。
西村)きょうは、「絆」という通信を発行して、住民のみなさんの関係をつないでいる穴水町下河川地区の区長、加代等さんにお話を伺いました。
03月23日(日)
第1485回「災害とコンビニ」
オンライン:国立研究開発法人 防災科学技術研究所 宇田川真之さん
西村)新生活が始まります。新居での災害への備えはできていますか。今、コンビニ各社が「ローリングストック啓発キャンペーン」を行っています。災害への備えとして、災害時にコンビニはわたしたちを支えてくれるそうです。
きょうは、民間と行政の連携に詳しい国立研究開発法人 防災科学技術研究所 宇田川真之さんとオンラインでつながっています。
宇田川)よろしくお願いいたします。
西村)コンビニ各社が行っている「ローリングストック啓発キャンペーン」とはどんなキャンペーンですか。
宇田川)ローリングストックとは、普段わたしたちがお店で買うお気に入りの商品を少し多めに買って、使った分を買い足すことで、普段よりも少し多めにストックをする方法です。ローリングストックをすることで災害時も安心できます。「ローリングストックの啓発キャンペーン」は、各社それぞれではなく、コンビニ全体で実施しているキャンペーンです。各社が競い合うのではなく、連携して災害対策をした方がみなさんに届くからです。
西村)何社のコンビニが連携して、いつからこの活動をスタートさせたのでしょうか。
宇田川)「日本フランチャイズチェーン協会」がホームページを作り、今年の1月からはじめました。コンビニ全7社が連携して行っています。
西村)コンビニに寄ったついでに、いつもの商品をひとつ多めに買うことが災害への備えになるのですね。
宇田川)備蓄にもいろんなやり方があります。企業や行政による備蓄品は、災害が起きたときに持ち出すので、普通の商品より保管が長いものが多いです。みなさんが行うローリングストックは、自宅に置いておくものなので、長く保管できるものではなく、普段買っている商品でかまいません。それぞれにお気に入りの味や柔らかさがあると思いますし、カロリーや栄養素に配慮する場合もあると思います。自分が普段買っているものを1~2つ多めに買って自宅に置いておくだけで良いです。
西村)どんなものを備蓄したら良いのか、コンビニ各社から発信していますか。
宇田川)各社のホームページで発信しています。「日本フランチャイズチェーン協会」のホームページには各社へのリンクもあります。コンビニにおいてある商品のメーカーのリンクもあるので、どんなものを買おうか探すときに、参考になりますよ。
西村)食べ慣れたもの、お気に入りのお菓子やコーヒーなど、ホっと一息つけるものを多めに買っておくのも良いですね。今回の啓発活動では、何日分の備蓄を推奨していますか。
宇田川)目安は7日分。でも、それ以上買ってはいけないということではないので、自宅のスペースに応じて備蓄しましょう。
西村)緊急物資はすぐに届かないので、各家庭での備えが大切です。災害が起こった後は、どのようにコンビニを活用することができますか。
宇田川)コンビニは地域に根ざしたものなので、可能な範囲で協力ができるように取り組んでいます。地震などがあると、電車が止まって、多くの人が歩いて帰ったり、出社したりしなければならないことも。長い距離を歩いて家や勤務先に向かわなければならないとき、関西広域連合との協定に参加しているコンビニが水道水やトイレの提供、道路状況の情報提供をしてくれます。
西村)コンビニと自治体との間に協定が取り決められているのですね。
宇田川)災害時における「帰宅困難者支援協定」に協力している店舗には、ステッカーが貼ってあります。黄色ベースに青いハートマークが描いてあります。
西村)青いハートマークに足がついたキャラクターが描かれているステッカーですね。見たことがあります!このステッカーが貼ってあるコンビニエンスストアは、災害時にわたしたちを支援してくれるのですね。
宇田川)可能な範囲で、水やトイレ、道路情報の提供をしてくれます。
西村)「災害時には、徒歩帰宅する皆様を支援します」という文字も書かれています。新しく通う職場や学校の近くのコンビニにこのステッカーが貼ってあるかをチェックしておくと良いですね。
宇田川)1~3時間の距離なら、一度歩いてみることをオススメします。普段歩いて会社に行くことはないと思うのですが、道中のどこにコンビニがあるかを確認しておくと、より良いと思います。
西村)暖かくなってきましたし、散歩がてら、コンビニの「災害時帰宅支援ステーション」の黄色いステッカーが貼られているお店がどこにあるかチェックしてみたいと思います。災害時にはコンビニは心強い存在ですが、大きな地震や災害が起きると、コンビニ自体も被災するのではないですか。
宇田川)店自体が壊れてしまうこともありますし、働いている人が怪我をすることも。工場や道路の被災により、商品が届かないこともあります。普段からローリングストックをすることが大事です。
西村)従業員も出社できないかもしれません。
宇田川)コンビニ業界は、わたしたちと同じような一般市民がオーナーになっています。5~6年前にコンビニのオーナーの負担が大きいことが社会的にも問題になりました。ほかにも食品ロスの問題などさまざまな問題をコンビニ業界全体で取り組んできた経緯があり、一環で防災対策にも取り組んでいます。そこには、地域に貢献していきたいという業界の想いがあります。
西村)わたしたちにとって、日頃の生活に欠かせないコンビニ。旅行に行ったときでも、いつものコンビニがあると安心します。トイレに行きたくなったら、コンビニに駆け込むこともありますが、災害時には使えなくなるかもしれないということも覚えておきましょう。災害時は、自治体と企業が連携して対策していくのですね。
宇田川)一番大事なことは、行政や企業に頼らずに、わたしたち1人1人が対策して備えておくということ。商品を自分で買って備えなければ、防災にはなりません。災害対策は、誰かがやってくれるものではありません。「普段買っているお気に入りの商品をもう少し買っておこうかな」と意識することが、防災を考えるきっかけになればと思います。
西村)きょうは、国立研究開発法人 防災科学技術研究所 宇田川真之さんにお話を伺いました。
03月16日(日)
第1484回「東日本大震災14年【3】原子力災害を伝え続ける旅館当主」
オンライン:いわき湯本温泉「古滝屋」16代当主 里見喜生さん
西村)きょうは福島県いわき市の老舗温泉旅館「古滝屋」の16代目当主で、旅館の中に資料館をつくるなど、原子力災害を伝える活動を続けている里見喜生さんにお話を聞きます。
里見)よろしくお願いいたします。
西村)「古滝屋」どんな温泉旅館ですか。
里見)東北の最南端にあるいわき湯本温泉には15件ほどの旅館があります。「古滝屋」は、その中のひとつで、掛け流しの温泉にこだわる温泉旅館です。創業元禄8年、今年で320年目になります。
西村)どんな人が来るのですか。
里見)主に首都圏から70%、東北各地から30%。関西、九州の人は、震災後にボランティアに来てくれたのをきっかけに、今も繰り返し訪れてくれています。
西村)東日本大震災当日は、お客さまは泊まっていたのですか。
里見)200人の予約があったのですが、実際にたどり着いたお客さまは50人ほどでした。
西村)50人は地震が発生する前にたどり着いたのですか。
里見)旅館は、15時チェックイン開始で震災があったのは14時46分なので、ちょうど移動中の人が多かったようです。
西村)必死の思いで旅館までたどり着いたのですね...。
里見)そのようですね。電話、電気、水道、ガスが一緒にストップしてしまいました。連絡手段がなく、戻ってしまったお客さまも多かったようです。
西村)震災当時、里見さんは何歳でしたか。
里見)42歳でした。「古滝屋」で仕事をしていました。
西村)震災に遭った「古滝屋」は、その後どうなったのでしょうか。
里見)地震によってエレベーターの軸がずれたり、壁に損傷があったりしたのですが、階段などを使えば何とかお客さまの受け入れは可能でした。しかし、その後、「古滝屋」から50km北にある福島第1原子力発電所で水素爆発が連鎖的に起きて、それによって約4000人のキャンセルが出ました。原子力発電所のある沿岸部の双葉郡には、7万人が住んでいたのですが、そのうち約2万5000人がいわきに緊急避難しました。みなさん、急な強制避難で住む場所がないので、小中学校の教室や体育館で過ごしていました。僕は、炊き出しや水の運搬、原発事故によって外で遊べない子どもたちのお世話などのボランティアをしていました。
西村)そういった活動の中で、里見さんは震災後、「Fスタディーツアー」という取り組みを始めたとのこと。それは、震災後いつ頃からスタートしたのですか。
里見)2011年11月です。全国からボランティアに来てくれた僕の友人・知人を、津波現場や当時まだ不明だった原子力災害の被災地を自分の車で案内したのがきっかけです。その後、その人たちから「津波の状況や原発の状況を、有償できちんと伝えた方が良い」「ニュースや新聞などでも情報を得ることはできるけど、実際に見るとそれ以上に感じることがある」とう言葉を受けて、正式に僕がワゴン車でガイドをはじめたのが「Fスタディーツアー」のはじまりでした。
西村)どんなところを回るのですか。
里見)2011年は主に津波の現場を案内していたのですが、少しずつ原子力の災害があったエリアを訪れることが出来ました。地震や津波を語る語り部は増えてきたのですが、原子力災害については、口をつぐむ人か多かった。僕が原子力災害に特化したガイドをしていこうと、双葉郡に訪れることにしました。
西村)どんな人が語り部として参加しているのですか。
里見)主に僕がガイドをしながら車で案内していますが、主婦や元学校の先生など、いろいろな人が語り部ガイドとして活躍しています。
西村)なぜ原発の話になると口をつぐむ人が多いのでしょう。
里見)この14年間、毎日のように原子力災害で生活が一変してしまった人の話を聞いていますが、身近な人、近所、親戚に原子力関係で勤めている人が多いです。一概に放射能や原発について、自分の口からは言い辛い人が非常に多いです。
西村)スタディーツアーの参加者の反応はいかがですか。
里見)今まで約6000人を案内してきましたが、みなさん「来てよかった」と言ってくれます。原子力災害については何も情報がないし、今までも勉強したこともなかったと。わたしたちは、当たり前のように電気を使っていますが、その電気がどのようにして作られて、どこで発電されているのか全く知らない。福島に来ることによって、これだけの距離のある場所から電気が届いていること、そして原子力発電所のある町が、今回の災害で人が住めない状態になっている現状にショックを受ける人がとても多いです。
西村)「Fスタディーツアー」に加え、もうひとつ里見さんが取り組んでいるものに、「原子力災害考証館 furusato」があります。
里見)この資料館には、公的な資料館では提示されてないもの、こぼれ落ちているもの、原子力災害によってつらい思いをしている人々の大切にしているもの、表には出しづらい数字的なもの、裁判的な資料などを展示しております。
西村)原子力災害考証館はどんな場所にあるのですか。
里見)「古滝屋」の9階のお客さまが利用する一室にあります。約20畳のスペースです。
西村)旅館の中の和室に資料が並べられているのですね。どんなものが並んでいるのですか。
里見)原子力災害と一言に言っても、なかなか表現するのは難しいのですが、災害に遭った人々とのご縁で展示をしています。原発事故によって数年間人が住めない状況となった浪江町の2014年の街並みを写した写真と、2020年に同じ場所で写した写真を比較して展示しています。震災から3年後の2014年は、強制避難指示が出ていたので、人が住んでいません。建物は並んでいるのですが、全く人の気配が感じられません。2020年の写真を見ると、建物が全くない状況になっています。2020年までの6年間で帰ることを諦めた人々が家を壊し始めて、町の姿が一変しているのです。それを写真によって伝えています。
西村)他にはどんな展示がありますか。
里見)それ以外には大熊町の津波で行方不明になってしまった家族の遺品を展示しています。原子力災害放射能の影響で捜索が打ち切りになり、探し続けられなかったのです。
西村)資料館は、旅館の中の一室にあるので、家族で訪れて、みんなで考えることもできそうですね。
里見)資料を見て終わりではなく、できるだけ対話をしたいと思っています。対話をすることで、立場を経た感想や、資料を参考に描く未来についてなど、それぞれの考え方を共有できたらと思っています。
西村)公的な施設の展示とは、どこが違いますか。
里見)公的な資料館には、学芸員がいて、展示物を管理していますが、考証館には、ガラスのショーケースがあるわけでもないので、持ち主が直接内容を変えたり、アップデートしたりしています。ですから、被災者の声をそのままの表現でみなさんに伝えることができます。あるとき、考証館の部屋を覗いてみると、子どもたちが畳に寝転がって資料を見ていました。畳の上にあぐらをかいて、隅でお菓子やご飯を食べている子も。朝から夕方まで6~7時間ほどずっと資料を見ていた人もいました。それぞれの思う形で資料を見てもらえるのが考証館の良いところだと思っています。
西村)国も脱・原発政策を方針転換して、今は原子力発電の最大限の活用を示しています。東日本大震災から14年を迎える中、今はどんな思いでいますか。
里見)福島に住んでいる人は、土や四季折々の大地とともに生きていて、それを誇りに思って暮らしています。そんな場所が放射能まみれになって、追い出されることがどれだけつらい事か。発電の方法はいろいろあります。世界一の地震大国で、地震が起きたときに甚大な被害が起きてしまう原子力に頼るというのはどうなのでしょう。僕が原子力災害を14年間経験して思うのは、大事な順位があるのではないかということ。一番大事なものは命。人間以外の生き物たちともきちんと共生して暮らしていけたらと思っています。
西村)里見さん、ありがとうございました。きょうは、福島県いわき市の老舗温泉旅館古滝谷の16代目当主で原子力災害を伝える活動を続けている里見喜生さんにお話を伺いました。
03月09日(日)
第1483回「東日本大震災14年【2】石巻市出身・映像作家の思い」
オンライン:映像作家 佐藤そのみさん
西村)東日本大震災の津波で、児童や教職員84人が犠牲になった石巻市市立大川小学校。震災後の大川地区や、そこで生きる人々の心の変化を子どもの視点で描いた2本の映画「春をかさねて」と「あなたの瞳に話せたら」が、大阪で上映されています。撮影されたのは東日本大震災から8年後の2019年。監督は大川小学校に通っていた妹を亡くした遺族でもある、映像作家の佐藤そのみさんです。遺族として取材を受ける立場だった佐藤さんが「描かれるよりも、描きたい」と自分の体験をもとに撮った映画への想い、東日本大震災から14年たった今感じていることについて、お聞きします。
佐藤)よろしくお願いいたします。
西村)佐藤さんはどのような思いでこの映画を制作したのですか。
佐藤)わたしは東日本大震災の2年前の12歳の頃から、地元大川を舞台にした映画を撮ることが夢でした。その後、地震が起きて、映画に撮りたかった風景や人々は津波で流されてしまいました。わたしは大川小学校で2歳下の妹も亡くしてしまいました。それでも「東北で震災を経験したわたしだからこそ、描けることがあるかもしれない」と思って、夢は消えなかった。早く「遺族や被災者という肩書きから逃れて自由になりたい」という気持ちがあったのですが、逃れようとしても余計に苦しくなってしまって。一度正面から故郷や震災に向き合わなければ、次の人生に進めない気がしたんです。映画というものを使って、一度故郷や震災に正面から向き合うために、この2作品が必要でした。それと、大人になるにつれて、震災直後の大切な感覚が薄れていくのが怖かったという気持ちもあります。震災後は本当に大変だったし、めまぐるしく日常が変わっていったのですが、14歳の頃は、その中で必死に生きようとしていました。けれど、大人になってその感覚がだんだんなくなってしまった。その感覚を忘れる前に、故郷の風景とともに作品を残しておきたかったんです。
西村)なぜ大人になるにつれて、その感覚が薄れていったのですか。
佐藤)街並みが変化して、わたしも年齢を重ねて。わたしは大学に入ると同時に上京したので、故郷の景色を見ることがありませんでした。東京には、東北で震災を経験した人はほとんどいませんでした。
西村)東京の友達と震災の話をすることはありましたか。
佐藤)ありませんでした。わたしから喋ってしまうと、その場の空気を悪くしてしまう気がして。極力自分からは震災のことは話さないようにしていたんです。でも震災後の経験が、その後の私を作ってくれたということは、一番大事な核の部分なので、忘れたくないと思っていました。そして、大学を休学して、「春をかさねて」から作り始めました。大学にいながらではとても作品に向き合えないと思ったので。
西村)大学では映像関係の勉強をしていたのですよね。
佐藤)はい。映画学科でみんな映画を作っていました。4年生になると卒業制作があるのですが、そのタイミングで休学をはじめました。みんなに震災の話ができなかったのに、ましてや震災の映画を作るためにみんなを巻き込むことはできないと思って。みんなは面白いエンタメ作品を作りたいのに、被災地に連れて行って、暗い話を撮るのにつき合わせるのは申し訳ないと。1年間休学して、脚本を書いたり、アルバイトで資金を貯めたり、地元の石巻に帰ってキャスト探しをしました。休学中の最後の3月に何とか作品が完成。結局、大学の友達に撮影を手伝ってもらったんですけどね。いろんな人の手を借りながら、2019年の3月に「春をかさねて」が完成しました。
西村)キャストは石巻で探したとのこと。地元の人がたくさん出ているのですね。
佐藤)ほとんどが地元の人です。東京から来たボランティア役は関東の人ですけど。プロの俳優さんはほとんど出ていなくて、演技経験がない地元の人がたくさん出ています。
西村)震災当時のお話も聞かせてください。当時、佐藤さんは何年生でしたか。
佐藤)当時、わたしは大川中学校の2年生でした。その日の午前中は、3年生の卒業式で、午後から家に帰ってきていました。1階の部屋で趣味だったギターを弾いていたときに大きな揺れが起こりました。最初、地震だと気づかないぐらいものすごい音がして。何か爆発が起こったのかというくらい衝撃的な縦揺れで、立っていられないぐらいの大きな揺れが長く続いて。体感10分以上続いていたと思います。それが少し収まってから、家にいたおじいちゃん、おばあちゃん、お兄ちゃん、ひいおばあちゃんと一緒に5人で近くの高台に避難しました。わたしたちの家は、内陸側で川の河口からは離れた場所にあったので、自宅は無事でした。両親もそれぞれの職場にいて無事でした。でも大川小学校に通っていた2歳下の小学6年生の妹だけは、ほかの児童や先生と一緒に、大川小学校で津波の犠牲になってしまいました。それがわかったのは3月13日のことです。
西村)2日後に妹さんが犠牲になったことを知ったのですね。妹さんと最後に交わした言葉は覚えていますか。
佐藤)3月11日の朝に「おはよう」と妹に言われたのですが、わたしは機嫌が悪くて、無視をしたのが最後です。
西村)どんな妹さんだったのですか。
佐藤)心優しくて天使みたいな人でした。例えばクラスに悲しい思いをしている子がいたら、その子のそばにそっといてあげられるような。おとなしいのですが着実に努力をしていて、勉強や習っていたピアノや水泳もコツコツ努力して、いつの間にかうまくなっているような。
西村)努力家さんだったのですね。そのみさんは、若い時期も遺族として気丈に取材にも答えていましたが、心の中ではどんなふうに感じていましたか。
佐藤)わたしは表に出るのが好きではなかったのですが、求められたら断れなかった。断り方がわからなかったんです。断ったら嫌われてしまうと思って。取材の依頼が来たら答えていたんですけど、14歳のとき、まわりの生き残った子どもたちは、テレビや新聞の取材に答えている子もいれば、家族と一緒に断っている子もいました。周りの子たちに取材が殺到していたので、その子たちを守る意味でも、わたしが出なくてはと思って、依頼が来たら応じるようにしていました。
西村)取材を受けて、自分の話した言葉が記事になり、テレビやラジオで伝わったとき、どんなふうに感じましたか。
佐藤)自分が撮られたものを見たとき、自分ではないみたいだと思っていました。「かわいそうな子」「亡くなった妹の分も生きる立派なお姉さん」などとすごく美しく切り取られていて。それはわたしじゃないと思っていました。多くの人が見たい"被災地の子どものイメージ"に当てはめられているように感じていました。
西村)3月11日、震災から今年で14回目の春を迎えます。今の思いを聞かせてください。
佐藤)取材の経験を通して、切り取られてしまうことは、仕方がないことだと諦めるようになっていきました。自分が本当に言いたいことは、自分で主張しなければ届かないと。映画「春をかさねて」「あなたの瞳に話せたら」は6年前に作ったものです。「遺族は悲しみを抱えて、過去を背負って生きるもの」という、ステレオタイプな見方を押し付けられることへの反発・葛藤もあったのですが、制作や上映を通して、そのような気持ちとも良い距離を取れるようになってきました。今は自分の過去や他人の視線を気にせずに、好きなように生きられていると思います。震災直後は自分の存在をすごく否定していたのですが、今は肯定できるようになってきました。地元の人たちにも、少しでもあの日から良い距離をとって、今が一番幸せだと思えていたらうれしいです。亡くなった人たちもそれを望んでいると思います。
西村)リスナーの皆さんに、伝えたいことはありますか。
佐藤)わたしの撮った映画は、震災や大川小学校津波事故について触れた映画ではあるのですが、誰か大切な人を失った悲しみ、人が生きていく中での葛藤や人間関係の衝突、その先の幸福についてなどを描いています。普遍的で、みなさんにもどこか共感していただける部分があるのではと思っています。ぜひあまり気負わずに見に来てください。
西村)2本の映画には大川小学校の校舎が出てきます。大川小学校についての思いも聞かせてください。
佐藤)わたしは遺族として、大川小学校の中に入って撮ることができたので、中に入れない人たちにも、校舎の中を見せたいという気持ちもあって撮りました。この校舎は、現在震災遺構として保存されています。訪れるとわかるのですが、津波の爪痕があのときのまま残っています。映画を通して関心が深まれば、ぜひ現地を訪れてみてださい。大川小学校で子どもを亡くしたお父さんお母さんたちが校庭に立って、見学者に向けて語り部をしています。映画の中にもいろいろな形で登場しているので、それも見てほしいです。震災前はそこに普通に街があって、色鮮やかな校舎と緑豊かな風景がありました。子どもたちと先生たちが賑やかに学校生活を送っていた場所なんです。今は全く想像がつかないと思うのですが、わたしは震災前の風景をよく覚えています。難しいかもしれないけど、少しでもそんな風景を想像してもらえたらうれしいです。
西村)今の思いをまっすぐに届けてくださって、ありがとうございました。
きょうは、映像作家の佐藤そのみさんにお話を伺いました。
03月02日(日)
第1482回「東日本大震災14年【1】3.11あの日を忘れない~南三陸町職員の慰霊碑設置」
電話:元南三陸町 副町長 遠藤健治さん
西村)2011年3月11日午後2時46分三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生し、北海道、東北、関東の沿岸を大津波が襲いました。防災の拠点として津波に備えていたはずの宮城県南三陸町防災対策庁舎にも16.5mの津波が押し寄せ、住民を避難させようと最後まで庁舎に残った職員など合わせて43人が犠牲となりました。震災から14年となる今年3月、町役場には東日本大震災で犠牲になった職員の慰霊碑が設置されます。
きょうは、この慰霊碑の設置に尽力された元副町長の遠藤健治さんにお話を聞きます。
遠藤)よろしくお願いいたします。
西村)震災当時の状況を教えてください。
遠藤)あの日は、定例議会の開会中に地響きとともに激しい揺れが始まりました。揺れが収まるのを待って、防災服に着替えて、防災対策庁舎の2階の防災対策本部に向かいました。地震発生から3分後の揺れの大きさは震度6弱で、6mの大津波警報が発表されました。これは想定されていた宮城県沖地震とほぼ同じでしたが、その後、25分後には想定を大きく超える10m以上の大津波警報に引き上げられました。防災無線で町民に避難を呼びかけていたときに、庁舎の駐車場に津波が押し寄せてくるのを確認。全員で3階の屋上に避難しましたが、まもなく屋上の高さを超える津波が襲いかかってきて、建物全体が津波に飲み込まれてしまいました。わたしは屋上につながる階段の手すりに捕まって必死に耐えて、命をつなぐことができましたが、屋上へ避難した職員54人のうち、水が引いた後に屋上に残っていたのは、たった10人で、結果的に生き伸びたのは11人です。1人は屋上から流されている途中に畳に捕まり、庁舎の海側にある病院の建物によじ登って命をつないだのです。残念ながら43人が犠牲になりました。
西村)遠藤さんは手すりに捕まったから助かったのですか。
遠藤)津波に飲み込まれたのですが、頑丈な手すりが壊れなかったので引き潮にも耐えられました。助かった2人は、津波の襲来を観察するために、屋上の中央にあるアンテナの棒によじ登っていて濡れずにすみました。わたしや町長も含む残り8人は、1度津波に飲み込まれましたが、頑丈な階段の手すりにつかまっていたので、外に放り出されませんでした。翌朝、明るくなった屋上から見た街は、瓦礫に埋もれていて、街が消えたのかと思いました。「なぜ、どうして」という思いと、悔しさでいっぱいでした。
西村)津波がひいたのはどれぐらい後でしたか。
遠藤)津波はずっと続きます。地震発生から約47分後に16.5mの一番大きな津波が市街地を襲って、屋上を大きく超えました。しかし屋上を超えたのはその1回だけ。生き残った10人は命をつなぐためにポールに何回もよじ登りました。大変寒い日で、体は濡れていて、手はかじかんで、なかなかステンレスのポールにうまく登れないのですが、何回も必死に登りました。幸い、屋上を大きく超える津波は1回のみで、あとは朝まで津波が上げ下げしていました。夕方になり、このままでは低体温で命を落としてしまうので、3階まで津波がこなくなったことを確認して、階段のがれきを除去しながら、3階まで下りました。ポールに捕まっていた職員がたまたまライターを持っていたので、瓦礫を集めて火を灯して、その火を囲みながら夜を過ごしました。翌朝、建物から降りて近くの高台の小学校までみんなで走りました。
西村)遠藤さんはどんな思いで震災の復興にあたっていましたか。
遠藤)防災対策庁舎で亡くなった職員は33人ですが、それ以外の場所でも避難誘導等で命を落とした職員がいます。本来なら復旧・復興業務の先頭に立って、活躍するはず彼らの悔しさを胸に刻みながら、彼らの分まで頑張ろうと自分に言い聞かせながら業務にあたっていました。生き残った職員のみんなが同じ思いだったと思います。
西村)今月9日、犠牲になった職員の名前が刻まれた慰霊碑が町役場に設置されます。14年経った今、どのような経緯で慰霊碑が設置されることになったのですか。
遠藤)殉職した仲間のことを何らかの形に残したいと、同じ思いを持つ仲間と以前から語り合ってきましたが、復興事業の進捗状況、家族を失った遺族の複雑な心境を考えると、慰霊碑の具体的な取り組みについて、躊躇せざるを得ない状況でした。
西村)遺族からはどんな声が届きましたか。
遠藤)今回の震災で、わたしたちの町では831人の尊い命が失われました。町で犠牲になった人の名前を記した書物を震災復興記念公園に収めることになっていたのですが、みなさんそれぞれの防災対策庁舎に対する思いがあったと思います。そんな中、昨年7月に旧防災対策庁舎が震災遺構として、町管理のもとで恒常的に保存活用されることに。それを一つの契機に今まで思い続けてきたものをやろうということで、仲間に呼びかけ今日に至ります。
西村)14年という月日が経って、遺族の気持ちに変化はありましたか。
遠藤)最愛の家族を失った遺族の気持ちは癒えることはないと思いますが、お互いが前を向いて生活を再建しようとしています。震災の関連復興事業もほぼ完了して、新しい町で新しい生活が始まっています。今回の事業にあたって、刻銘碑に名前を刻銘することについて、遺族に意向を伺ってきましたが、ほどんどの遺族から同意をいただきました。同意書の中には、感謝の言葉を添えていただいています。その言葉に後押しされながら今頑張っています。
西村)慰霊碑には、どんな文字が刻まれているのですか。
遠藤)片面には遺族の同意を得られた職員の名前、もう片面には、今回の震災からの学びや教訓を得て、災害に強い町作りにつないでほしいという思いを込めて、「あの日を忘れない」というタイトルを刻んでいます。
西村)慰霊碑が作られていく過程を見守っていて、今どのような気持ちですか。
遠藤)今回この事業をやるにあたり、亡くなった職員たちと長い時間まち作りをともにしてきた多くの職員、退職した職員に声をかけました。みなさんに温かいお心寄せと賛同をいただいています。たくさんの人たちが仲間を追悼したいという思いを持っていたのだと確認できてうれしく思っています。
西村)いよいよ来週9日に慰霊碑の除幕式が行われます。
遠藤)町の防災活動を担っている職員たちも参加してもらいます。慰霊碑を作った思いを未来につなげてほしいですね。背負い込んできた荷をやっと下ろせるという想いです。
西村)わたしたちも手を合わせに行くことはできますか。
遠藤)もちろんです。役場の広場の一角なので、平日・祝祭日構わず、誰でも立ち寄れることができます。ぜひ訪れてください。
西村)きょうは、元南三陸町副町長の遠藤健治さんにお話を伺いました。
02月23日(日)
第1481回「能登半島地震 ボランティア不足の原因は?」
オンライン:全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)事務局長 明城徹也さん
西村)能登半島地震では、発生から3ヶ月で集まったボランティアの人数が熊本地震の半分と、ボランティア不足が復興の遅れにもつながりました。ボランティアはなぜ集まらなかったのか。
きょうは、全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)事務局長 明星徹也さんにお話を伺います。
明星)よろしくお願いいたします。
西村)全国災害ボランティア支援団体ネットワークはいつごろ発足したのですか。
明星)東日本大震災をきっかけに2016年にNPO法人として設立されました。
西村)どんな活動をしているのですか。
明星)東日本大震災当時、個人のボランティアに加えて、たくさんのNPOなどの支援団体が現地に駆けつけました。しかし、団体同士や行政、ボランティアとうまく連携ができませんでした。全国災害ボランティア支援団体ネットワークは、そのような団体の受け入れ調整をするためにできた組織です。災害時は現地で調整役を務めています。
西村)実際にはどんなことをするのですか。
明星)現地に入った団体の活動状況、被災者のニーズを教えてもらって、現地だけでは解決できない問題の解決策を行政とともに考え、支援をつないでいます。
西村)例えば「がれきの撤去をしてほしい」という被災者からのお願いがあったら、担当する人を調整するのですか。
明星)住民からのニーズにはボランティアセンターが対応します。その中で、なかなか解決できない課題について、県や国と話し合いをしたり、経験のある団体からアドバイスをもらってノウハウを現場に伝えたりしています。
西村)大事なお仕事ですね。
明星)ボランティアとひとくくりで言っても、個人のボランティアもいれば、災害支援を専門とする団体もあります。JVOADは、主に支援経験のある団体同士の調整と行政との調整をしています。
西村)専門性のあるボランティアにはどんなものがありますか。
明星)重機を使った瓦礫の撤去や床下の泥の撤去、屋根瓦の応急処置などができる団体のほか、避難所運営のノウハウ、子どもやペット、要配慮者への支援などさまざまな得意分野を持った団体があります。
西村)さまざまなボランティアが必要だと思うのですが、能登半島地震では、なぜボランティアがなかなか集まらなかったのでしょうか。
明星)ひとつは、半島の先端の被害が大きかったという地理的な要因。アクセスの問題のほかに正月休みに地震が起きてしまったという時期的な要因もあります。熊本地震のときは、地震後にすぐにゴールデンウィークに入ったので、たくさんのボランティアを受け入れることができました。現場の被害が大きく、受け入れ態勢を整えるのに時間がかかってしまいましたが、1月2日から奥能登で活動を始めた団体もあります。専門性を持った団体は早く動いていたのです。
西村)ボランティアが寝泊まりする場所がなかったのは、受け入れ態勢が整うまでに時間がかかったからですか。
明星)行政の職員も宿泊先がないので、役場で雑魚寝せざるを得なかった。支援者は車中泊をする状況が続きました。水も出ない、トイレも不足している、余震が多いという状況だったので、ボランティアは行きたくても行けなかったと思います。企業も社員ボランティアを出したいけど、危険性があるところには出しづらいとう声もありました。
西村)能登半島地震の4日後に石川県知事が「一般のボランティアは控えてください」と発信し、SNSでも拡散されました。これも要因のひとつですか。
明星)石川県の発信の中には、NPOとの連携を進めることも同時に言っていたので、一概には言えません。専門性を持った団体は初期から活動していました。一般のボランティアが全て止められてしまったと捉えられて自粛ムードになってしまったのだと思います。
西村)行政とボランティアの関係はどうでしたか。
明星)NPOは、各市町村と情報共有の場が設けられ、行政からの情報も入っていました。徐々に連携体制ができていきました。
西村)行政と現地のニーズのギャップを感じることはありましたか。
明星)現地のNPOからは「避難所ですぐに食べられるものが届かない」という声が上がっていました。一方で、行政には町各市町に食料が届いていたと報告があり、認識のずれがありました。行政は届けたものは、賞味期限の長いレトルト食品で、すぐに食べられるものではなかったので、NPOが炊き出しを続けていたのです。
西村)今後、同じことを繰り返さないためにはどうしたら良いと思いますか。
明星)受け入れ体制、連携体制を平時からしっかりと作っておくこと。多様な支援ができる団体が多く集まることで、さまざまな支援が可能になります。受け入れ体制を作っていくこと、支援の担い手を増やしておくことが必要です。
西村)能登では、去年の元日に発生した地震の前にも、大きな地震がありましたが、事前の取り決めはしていなかったのでしょうか。
明星)1年前の地震で大きな被害があった珠洲市では、NPOとの連携が進められていました。初期から被災家屋の瓦礫の撤去や福祉的な支援ができる団体の連携がスムーズにできていたと思います。
西村)事前のつながりや備えが大切なのですね。わたしたちがボランティアにいくときは、どのように行動したら良いですか。
明星)まずは現地の情報をしっかりと確認すること。受け入れ体制が整っていない中で行ってしまうと、限られた現地のリソースをつかってしまうことになり、現地のリスクを高めることになります。ボランティアの自主性・自発性を活かすためにも、しっかりと現地の情報を確認することが大事。ボランティアセンターや災害中間支援組織を通すのか、行政と相談しながら進めるのかなど、事前に考えておくことが大事です。
西村)現在は、ボランティアの数は足りていますか。
明星)地域差があります。時間が経つと進捗に差ができてくるので、事前の確認が必要です。
西村)いろんな支援があるということは、自分にもできることがあるということ。情報を集めて、わたしも能登に行きたいと思います。
きょうは、能登のボランティア不足について、全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)事務局長 明星徹也さんにお話を伺いました。
02月16日(日)
第1480回「災害からペットを守るための防災対策」
オンライン:NPO法人アナイス 代表 平井潤子さん
西村)現在、日本で飼われている犬や猫は、1500万頭以上。これは15歳未満の子どもの数よりも多いそうです。突然の災害に備え、人だけではなく、家族の一員であるペットのことも考えた準備が必要です。
きょうは、NPO法人アナイス代表の平井潤子さんに、災害からペットを守るための防災対策について伺います。
平井)よろしくお願いいたします。
西村)平井さんはいつからペットに関する活動を行っているのですか。
平井)2000年の三宅島噴火災害をきっかけに、NPO法人アナイスを設立し、緊急災害時に飼い主と動物が避難生活を送るためのサポートや、緊急時に備えての情報発信を行っています。また、災害発生時には被災動物救護活動に参加し、被災地で避難所などの現地の情報を収集・分析して社会に発信する活動に取り組んでいます。
西村)これまでどんな被災地に行きましたか。被災地のペットはどんなようすでしたか。
平井)東日本大震災では、あまりの被害の大きさに立ち尽くしてしまいました。何から始めていいのかわからない状況で。被災者にペットについて尋ねたところ、「家に置いてきた」「車の中にいる」という答えが返ってきました。
西村)東日本大震災では津波の大きな被害もありました。
平井)発災時間が昼間だったので、勤め先にいて、自宅にペットを残してきた人も多かったようです。
西村)ペットを助けに行こうとした飼い主もいたのでしょうか。
平井)福島の原子力発電所の事故で警戒区域となった地域では、ペットを助けるために飼い主が危険な場所に戻ってしまったこともあったようです。取り残された犬たちが地域で群れて行動し、人々が怖い思いをしたことも。
西村)ペットと暮らす飼い主はどんな防災対策が必要ですか。
平井)ハードのソフトの備えが必要です。ハードは物の備え。ペットフードやお水のほか、病気治療中のペットなら処方食や医薬品を1ヶ月分以上はストックしておきましょう。東日本大震災のときには、発災後の継続調査で半年間、一度もペットの支援物資が届かなかった地域もありました。今後起こるといわれている南海トラフを想定し、ローリングストック方式で1ヶ月分は用意しておきましょう。
西村)その中でも特に用意しておいた方が良いものはありますか。
平井)避難所からの要望が大きく、ないと困るものは、犬や猫の排泄物を処理するうんち袋。避難所ではなかなか手に入らないものです。排泄物の匂いが苦情になるので、排泄物は袋にいれて、周りの人に配慮した場所に置いておく工夫をしてほしいですね。
西村)車中泊するかもしれないから、車にも用意しておいた方が良さそうですね。
平井)品質に細かい管理がいらないので、車の中や家の外の物置などに準備しておくと良いと思います。
西村)ソフトの備えはどんなものがありますか。
平井)大事なのは想像力。災害が起こると生活がどうなるかを想像して備えましょう。飼っている動物の数、家族構成、一戸建てor高層マンション、ライフスタイルによって取るべき行動は変わってきます。自宅避難ができるなら、留守番中のペットの安全を確保するペット用のシェルターを準備しておくのも良いですね。家族で話し合って、オリジナルの防災マニュアルを考えてみてください。
西村)在宅避難ができれば一番良いですね。
平井)人間にとってもペットにとっても、大勢の人が集まる避難所よりは自宅の方がリラックスして過ごせると思います。自宅避難をしつつ、情報や支援物資は避難所で支給してもらうような体制も想定しましょう。
西村)犬と猫によっても対策は変わりますか。
平井)犬は飼い主と一緒に社会参加する動物です。小さいときからしつけや社会化、ハウストレーニングをしておくと避難所でも役立ちます。迷子対策も大事。逃げてしまうことがあるので、再会するためには迷子対策も災害対策になります。
西村)ペットの社会化というのは、社会に慣れておくということですか。
平井)社会化をしておくと、避難所で初めて会う人や犬がいても落ち着くことができます。ペットが社会生活に適応するためのトレーニングです。
西村)大切ですね。迷子対策は、どんな対策をして、どんなものを準備すれば良いのでしょうか。
平井)一昨年から制度化されたマイクロチップも有効です。首輪は、放浪が長くなって、首が痩せてしまうと首から抜け落ちてしまうことがあります。マイクロチップ対策はしておくと良いです。人見知りしないように育てておくと、迷子になったときに保護してあげやすいです。シェルターに預けたときに誰にでも世話することができます。迷子対策の一つとして人に慣れさせておきましょう。
西村)シェルターというのは、どのような場所ですか。
平井)阪神・淡路大震災のときはさまざまなシェルターができました。民間のシェルターもありましたが、兵庫県が用意したふたつの大きなシェルターで被災動物の一時預かりをしていました。飼い主が復興の体制を整えるためにもそのような一時預かりを意識して、ケージに入れるトレーニングをしておくと良いと思います。
西村)一時預かりのシェルターは、どこの自治体にもあるのですか。
平井)動物愛護相談センターのような公的な施設や、地元の獣医師会の動物病院が一時預かりをしてくれることもあります。民間の動物保護のボランティアが災害時にシェルターを設けることも。さまざまな形があります。
西村)平時から調べておくと安心ですね。
平井)避難所だけが避難場所ではありません。動物を一旦預けて分散避難をすること、自宅避難をすることも一つの手段ですので、いろんな形を想定しておきましょう。
西村)猫の場合はどうですか。
平井)猫は犬のように呼び寄せてリードをつけて一緒に避難することができません。パニックになると隙間に隠れて出てこないこともあるので、見つけるのが難しいです。普段から自宅の中に猫の避難場所や隠れ場所をいくつか用意しておいて、何かあったらそこから探す、隠れ場所にキャリーバッグを置いて、その中に逃げるようにしつけるとスムーズに避難できるかもしれません。
西村)猫にとって安心できる場所をいくつも持っておくと良いですね。
平井)複数の猫を飼っている人は、キャリーバッグだけではなく、リュックやショルダーなども用意しておくと良いですね。避難所で猫がキャリーバックで長く生活するのは難しいので、生活用のちょっと大きめのソフトケージもあれば良いと思います。ポンッと広がるタイプのケージもあります。ただ、猫は自宅避難の体制を整えて、飼い主が避難所からお世話に通う方がストレスが少ないと思います。
西村)猫の一時預かり施設はありますか。
平井)あります。先ほど紹介したシェルターや動物病院も預かってくれます。ほかに実家や親戚の家などいろんな預け場所を用意しておくと良いと思います。
西村)猫や犬以外にもウサギやフェレットなどさまざまな動物と暮らしている人がいると思います。それぞれの家庭で避難対策が必要ですね。能登半島地震のときもペットの避難について対策していた人はいたのですか。
平井)発生したタイミングが正月で、震度7という大きな揺れだったので、ペットを避難させることができなかった人や、家そのものが壊れてしまった人が多く、ペットとの避難に苦労したと聞いています。
西村)しっかり準備をして、避難訓練をしておくことも大切ですね。
平井)家族単位で避難訓練をしてください。犬の散歩のついでに避難所を確認して、家族の集合場所について決めておきましょう。
西村)犬や猫と暮らす人へのメッセージをお願いします。
平井)飼い主にはペットを守るという責任もありますが、はぐれてしまったペットが社会に迷惑をかけないように備えるという責任もあります。飼い主とはぐれた犬たちが群れになって放浪したり、自宅から逃げ出した避妊去勢をしていない猫たちが、災害時の支援で餌をあげることで繁殖してしたりすることが地域の問題に発展します。飼い主が管理できない状況にいる動物たちが、地域や社会に迷惑をかけることも考えられるので、家族の一員である動物を守り、社会に対する責任を果たすために、しっかり備えましょう。
西村)きょうは、災害からペットを守るための防災対策にについてNPO法人アナイス代表の平井潤子さんにお話を伺いました。
02月09日(日)
第1479回「危険な豪雪をもたらす"線状降雪帯"」
オンライン:三重大学大学院 教授 立花義裕さん
西村)先週、今シーズン最強で最長の寒波が日本列島を襲いました。北日本から西日本の日本海側を中心に記録的な大雪が続き、空の便をはじめ、多くの交通網に影響が出ました。この大雪をもたらしたのは、線状降雪帯とみられています。
きょうは、気象に詳しい三重大学大学院 教授 立花義裕さんとオンラインでつながっています。
立花)よろしくお願いいたします。
西村)線状降雪帯とはどのような現象ですか。
立花)夏によく聞く線状降水帯は、強い雨がずっと同じ場所に降る現象です。冬の線状降雪帯は、朝鮮半島から日本列島に向かって、日本海上に線状に強い雪雲が伸びる現象で、非常に長い間雪が降ります。雪雲が線状になっていて、集中豪雨をもたらす線状降水帯と形が似ているので、線状降雪帯と名付けて注意喚起をしています。
西村)線状降雪帯は、危険な雪をもたらすのですね。昔からこのような現象はあったのでしょうか。
立花)昔もありましたが、今の方が雪雲の強度が強くなっています。今年は観測史上一番の雪が降っています。
西村)30~40年ぐらい昔の方が、雪がたくさん降って寒かった記憶があるのですが...。
立花)昔の方が寒かったです。でも今は寒くなくてもドカ雪が降ります。
西村)なぜですか。
立花)背景には地球の温暖化があります。
西村)地球温暖化は、夏が暑くなるだけではないのですね。
立花)冬の豪雪も地球温暖化がかかわっています。冬も日本海の海面水温が異常に高くなっています。猛暑によって水温が高いまま冬になったことにより、高い水温の海から水蒸気がたくさん蒸発して強い雲になります。冬になって寒くなったらそれが雪雲になる。しかし、あたたかかったら、雪ではなく雨になるはずですよね。なぜ雪が降るかというと、温暖化に伴って寒気が来るからです。それは偏西風という風の激しい蛇行が原因なんです。
西村)偏西風は西から東へ穏やかに流れていくイメージですが。
立花)偏西風が温暖化に伴って激しく南北に蛇行することによって、寒気が北から南にさがってくる。偏西風の北側には寒気、南側には暖気があります。偏西風が南に蛇行すると寒気が北極から日本付近に降りてくるんです。温暖化になればなるほど、編成風は激しく蛇行して、寒気が日本付近にきやすくなります。地球全体では温かいのですが、冬は激しく偏西風が蛇行して、日本付近は特に寒気がおりてきやすい。上空の寒気で雪雲が発達し、海水が暖かいから降水量が増える。両方の影響が相まって、ドカ雪が降るというわけです。
西村)まさかそんなことになっているなんて...。
立花)ドカ雪が降る背景には温暖化があるのです。夏は非常に暑く、冬は雪がたくさん降る。春夏秋冬の四季ではなく、夏と冬だけの二季になる時代が来るかもしれません。
西村)過ごしやすい春や秋がなくなるかもしれないのですね...。
立花)夏は猛暑で豪雨が降って、冬は寒波で豪雪が降ります。春と秋がどんどん減っていくでしょう。
西村)雪の降る量は昔とは変わっているのでしょうか。
立花)ひと冬を通して降る雪の量は減っていますが、1回で振る雪の量は増えています。昔はじわじわと雪が降って、いつの間にか雪が積もっていました。最近は、いきなり雪が降ってきます。運転しているときになどに急に雪が降ってくると危険です。
西村)線状降水帯のように、線状降雪帯の予測はできるのですか。
立花)ある程度できますが、線状なので、どこに雪雲がくるかを予測するのは難しいです。雪が降っていても隣の町では晴れていることも。車を運転する人は注意が必要です。気象情報に気をつけましょう。
西村)急に線状降雪帯の雪雲の中に入ってしまって、雪が降ってきたらタイヤのチェーンをつけていなかった...ということもありそうですね。
立花)気象情報はきちんと見て、雪対策をして車を運転しましょう。
西村)豪雪の対策について教えてください。
立花)最近の気象予報は2日後ぐらいまでは結構当たります。気象予報を確認して、雪が降りそうな場所に行くときはあらかじめ対策をしましょう。ただし、線状降雪帯のような小さな現象は、予測が難しいので直前の気象情報も確認しましょう。
西村)将来は、線状降雪帯の的確な予測を出せるようになるのでしょうか。
立花)海面水温の高さが雪の量に影響するので、海面水温がわかれば雪の量もわかります。観測船が日本海に行って装置で海水温度を測ります。
西村)地球温暖化になる前は、海面水温は何度ぐらいだったのすか。
立花)場所によって違いますが、地球温暖化になる前に比べて今は約2~3度上がっています。4度くらい高い場所も。これは異常です。夏の間は平年よりも5度くらい高かったです。
西村)何年前から海水温度が上昇しているのですか。
立花)約2年前からです。急に海面水温が2~3度上がって、場所によっては4~5度ぐらい高い。こんなことは今までありませんでした。海水温が高いので、寒気が来なければ日本列島は暖冬になる。でも偏西風が激しく蛇行して、北極の寒気が日本に来ることで豪雪になる。これからの冬は、温かいか豪雪というふうに極端化するでしょう。これが温暖化時代の冬です。
西村)わたしたちは、しっかりと備えなければいけませんね。
立花)世界の中でもこれだけドカ雪が降る場所は日本以外にありません。日本のみなさんは、地球温暖化に対してもっと敏感になってほしいですね。
西村)温暖化に対して敏感になって、備えるにはどうしていったらいいですか。
立花)四季から二季からなるのは嫌ですよね。日頃から温暖化の原因である二酸化炭素を減らすような行動をしてほしいです。
西村)きょうは、線状降雪帯について、三重大学大学院 教授 立花義裕さんにお話を伺いました。