22歳でで震災の犠牲になった森渉さんのご両親を取材しました。
当時神戸大学4回生。新聞記者になることが決まっていた矢先の震災でした。
クリスチャンである両親はこの10年
「なぜ息子は死ななければならなかったのですか」と神様に問い続けてきました。
その答えは今も得られていません。
当時神戸大学4回生。新聞記者になることが決まっていた矢先の震災でした。
クリスチャンである両親はこの10年
「なぜ息子は死ななければならなかったのですか」と神様に問い続けてきました。
その答えは今も得られていません。
ここでは、父の茂隆さんが10年前ゼミの追悼文集に寄せた文章の一節を掲載します。
今振り返ってみる時、1月15日が君と過ごした最後の一日となってしまった。
不思議な別離であった。母と姉が仕事の旅行に出かけて留守、
兄も不在で我が家の夕食は父と君の二人だけだった。
父は不器用な手つきでハマチとマグロの刺身を食卓に並べた。
君は家庭教師のアルバイトのためその日だけ我が家に帰っていたのだったが、
卒業論文の提出が迫っているからと確か午後7時半頃家を後にした。
父はいつものように君を車で泉ケ丘駅(いずみがおかえき)まで送っていった。
君は爽やかな笑顔で 「どうもいろいろありがとうございました」と
父に言葉を残して去っていった。
父はあの日以来君が残してくれたこの言葉を一人胸にしまっている。
礼儀正しい君の最後の言葉に父はただ心に涙するばかりである。
不思議な別離であった。母と姉が仕事の旅行に出かけて留守、
兄も不在で我が家の夕食は父と君の二人だけだった。
父は不器用な手つきでハマチとマグロの刺身を食卓に並べた。
君は家庭教師のアルバイトのためその日だけ我が家に帰っていたのだったが、
卒業論文の提出が迫っているからと確か午後7時半頃家を後にした。
父はいつものように君を車で泉ケ丘駅(いずみがおかえき)まで送っていった。
君は爽やかな笑顔で 「どうもいろいろありがとうございました」と
父に言葉を残して去っていった。
父はあの日以来君が残してくれたこの言葉を一人胸にしまっている。
礼儀正しい君の最後の言葉に父はただ心に涙するばかりである。