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第687回『津波被災地に渡った大阪発の織物』2009.07.27
 「さをり織り」は、40年前、大阪の主婦が考え出した手織りのプログラムです。障害のあるなしや年齢に関係なく好きなように織ることができるので各地に広まっているもの。インド洋大津波の被災地、タイには津波より以前の2001年、「心のケア」を目的とするJICAのプロジェクトの一環で導入されていました。

 津波災害後、被災地では何もかもなくした人たちが、なすすべもなく避難所で過ごし、アルコール依存症になる人も少なくなかったといいます。そこで現地のボランティアが「さをり織り」の織り機を持ちこみ、被災者に技術を教え始めたのです。義援金から最低賃金も支払われ、楽しく織ってお金をもらうことに喜びを感じる被災者が増えました。そうした様子を津波の半年後に訪れた映像作家の東山高志さんが目にして、さをり織りで被災者を支援するプロジェクトがさらに大きくなりました。東山さんが買い付けた被災者が織った作品は、日本全国のショップで販売されています。仕事が得られたことで被災者たちの表情は明るくなり、作品のクオリティも向上しているそうです。

 クラフト展で実際にさをり織りを目にした河本アナは「こちらまで元気が出そうな色合いでした」と感想を話していました。作品はインターネットで「ツナミクラフト」を検索するか、大阪・神戸・京都・和歌山などのさをり織りの教室で直接購入することができます。

(写真・東山高志さんと河本アナ。手にしているのは、タイの被災者が織ったさをり織りのかばんです)
スタジオ報告:河本 光正アナウンサー

第686回『都賀川との共生を考える』2009.07.13
都賀川はかつてはアユやウナギもすむ清流だったそうです。それが高度経済成長期には悪臭がする川に変わり果ててしまったため、1974年、木村さんがボランティアで清掃活動を始めました。2年後には「守ろう会」を結成。活動は川の清掃など地道なものでしたが、それが実を結び、1981年にはおよそ20年ぶりにアユの遡上が確認されました。その2年後には兵庫県と神戸市が親水公園を整備。阪神・淡路大震災では地域の人たちの貴重な水源ともなりました。
木村さんたちは小学生を集めて「魚のつかみ取り大会」など、川に親しむ行事を積極的に開いてきました。そんな中で起きた去年の水難事故は非常に心が痛んだといいます。そして「守ろう会」では今年になって都賀川安全ハンドブックを作成、雨の降り方や川の様子によって危険を知るすべも学べます。
危険と隣り合わせの水。それも子どもたちに伝えながら、木村さんは川を知り、共生するまちづくりをめざしています。
ゲスト:「都賀川を守ろう会」事務局長 木村 典正さん

第685回『非常持ち出し本、作りました』2009.07.06
加古川グリーンシティの防災は「楽しく!」災害時に備えて住民が持つ特技や資格をあらかじめ登録する「チャンピオンマップ」制度などを実践しています。
これは公式な資格だけでなく「子守が得意」「買出しが得意」でOK。また防災用の井戸を掘ったり、夏祭りで炊き出しの訓練をしたり、ワールドカップ試合観戦などで住民を集めたりと、住民のつながりを作りながら防災に取り組んでいます。
今回発行したハンドブックは、赤い表紙の「非常持ち出し本 あなたは何を守るのですか?」というタイトルです。災害時に具体的にどう行動すればよいのかが、災害発生から時系列を追って7テーマ70項目にわたって書かれています。
災害が起きた後だけでなく、起きる前に準備できることを市民の視線で伝えたい、という理由で作りました。いつまでも全国一律の防災訓練ではなく、災害の要因を知ってどう守るのか、方程式を作ってほしいと大西さんは話します。そんな大西さんたちが防災で一番大切にしていることは「コミュニティ」。加古川グリーンシティでも実践している「あいさつ運動」からはじめてみませんか。
ゲスト:加古川グリーンシティ防災会 防災会長 大西 賞典さん

第684回『河本リポート・地域防災防犯展』2009.06.29
河本アナが目をつけたのは「ガラス」。日本ガラスフィルム工事業協会の出展ブースで、防犯用に開発されたガラスフィルムを貼ったガラスを、金属バットで叩いてみました(写真)。ガラスは割れはしますが、フィルムのおかげで飛び散ることはありません。阪神・淡路大震災での負傷の1割はガラスが原因だったと言われますが、地震直後にけがをすると、その後の避難に影響します。
 また2005年の福岡県西方沖の地震でも、福岡市のビル街で窓ガラスが割れ、大量の破片が地上に降り注ぎました。休日でけが人は少なかったものの、一歩間違えば大惨事です。1978年に窓ガラスに対する基準が出る前に建てられたビルの窓は破損しやすいと指摘されていながら、ガラスを改修するかどうかは持ち主の判断というのが現状。ガラスを窓枠ごと取り替えるのに比べ、ガラスフィルムを貼るのはおよそ3分の2のコストですみ、工期も短くできるということです。自宅でも手軽にできる防災対策として応用できそうです。

(写真)ガラスフィルムを貼ると、金属バットで叩いても粉々に飛び散ることはありません。防犯・防災の両方に応用できる技術です。
スタジオ報告:河本 光正アナウンサー

第683回『被災者に寄り添うボランティアとは』2009.06.22
五百井さんが住職をしている玉龍寺は震災で一部損壊。直後から避難者やボランティアを受け入れました。人々は本堂で10か月、避難生活を送りました。この頃からボランティアを始めた五百井さん。ところが、炊き出しなどの活動をしていたときに「僧侶にしかできないことがあるはずだ」とある人から指摘を受けます。僧侶にしかできないこと。それが被災者にひたすら寄り添うことでした。
「あなたは一人ぼっちじゃない。見捨てられていませんよ」というメッセージを伝えることがケアだと五百井さんは話します。「十分に悲しんでください」と言えるの本当の支援。決して「くよくよしないでしっかり生きなさい」ということではないのです。実際、ある被災者に五百井さんが「なにも声をかけてあげられませんでした」とわびると「いえ、そばにいてくださったじゃないですか。震災で子どもを亡くし、家が潰れ、会社が倒産し、私は世の中から見捨てられたと思った。そんな時、ただそばにいてくださったじゃないですか」と感謝の言葉をかけられたそうです。
ただそばにいる。私たちが傷ついた人たちに向き合うときにも忘れたくない姿勢です。
ゲスト:ボランティアネットワーク朋代表で神戸市長田区玉龍寺住職の 五百井 正浩さん

第682回『岩手・宮城内陸地震から1年』2009.06.15
大場さんが住む宮城県栗原市では先月、避難指示・勧告が出ていたうちの8割の世帯が戻れることになりました。大場さんも早速イチゴ畑に入り、作業を開始。
今週木曜日、18日からは初めて東京に出荷できる見込みですが、例年の収穫量の10分の1ほどしかないといいます。大場さんは主な収入であるイチゴの栽培が思うようにできなかったため、この1年、冬場の土木作業だけで生計を立ててきましたが、地震によって生業がたちゆかなくなった世帯への支援制度は今のところありません。
6月12日から14日に被災地を訪れていた木村拓郎さんは、復旧はこれからと話します。梅雨に入り、大雨で再び避難指示が出そうな地区もあり、住民の中には仮設住宅との二重生活が続く世帯も多いのです。ましてや、今の避難解除は住民と工事用車両だけ。観光客は入れないため、観光収入もまだ見込めません。
避難解除は生活再建への第一歩にしか過ぎません。雲仙普賢岳、有珠山、三宅島など過去の火山災害では、避難が長期に及んだため、実質的に生活費を支援する制度が作られました。地震でもこのような支援を検討すべきではないかと木村さんは話していました。
ゲスト:社会安全研究所 所長 木村 拓郎さん

第681回『四川大地震で生かされた阪神・淡路の心のケア』2009.06.01
黒田さんは阪神・淡路大震災まで宝塚市で看護師をしていました。地震発生後、仮設住宅や復興住宅で24時間被災者の見守りを続けてきた経験が買われ、中国で起きた四川大地震でボランティア研修の指導役に抜擢されました。
 被災者の心のケアは、仮設住宅に「こんにちは」と入っていく瞬間から始まっているといいます。まず心を開いてもらうこと。そしてどんな距離で被災者と接するか。45度の角度に座り、実際に手を取って「言葉だけでなく感情を聞くことです」。黒田さんたちの質問に対して親指を中に手を握りしめるようなら、聞いてほしくないことを口にしてしまったということです。そういうことを1つずつ、現地のボランティアに教えていくのが黒田さんの役割です。
これまで6回、いずれも震源に近い綿陽や綿竹などの被災地を訪れた黒田さん。指導役は2年の期限付きで、その後は現地のスタッフだけでケアができるようにするということです。
ゲスト:阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 理事長 黒田 裕子さん

第680回『河本リポート・京都大学阿武山地震観測所ってどんなところ?』2009.05.18
京都大学阿武山地震観測所が建てられたのは1930年。地震や地殻変動を精密に観測する拠点として、建て替えられることなく使われてきました。河本アナが見たのは、お宝を収める博物館のような内部でした。たとえば、観測所ができた当時から使われてきたドイツ製の「ウィーヘルト地震計」。高さおよそ1.7m、重さ1トンもある大型の地震計で、今でも動かすことができます。
そして、関東大震災の地震波の記録を含め、100年近い地震の記録をほぼすべて保存している資料保存室。ただし、ススをつけた紙に地震計の針で記録されているものなので劣化が始まっていて、電子化を急いでいます。
こんな観測所は、地震計を1万点設置して地震予知につなげようという「満点計画」の拠点として利用されます。
今回案内してくださったのは「週間地震概況」でもおなじみ、観測所の責任者でもある、京都大学防災研究所の飯尾能久地震予知研究センター長。一般の希望者も、申し込めば飯尾先生に案内してもらえるということです。
 
問い合わせTEL:072−694−8848(月・火のみ)
     FAX:072−692−3715

【写真上】
大阪府高槻市の阿武山にある京都大学阿武山地震観測所。築79年の建物は、責任者の飯尾能久教授によると「ギリシャ神殿」だそうです。
【写真下】
ドイツ製のウィーヘルト地震計。手前の紙が地震の記録紙です。日本には3台しかなく、今も立派に動くのは阿武山のこの地震計だけです。
スタジオ報告:河本 光正アナウンサー

第679回『地震の前の日に戻れたらあなたは何をしますか?一日前プロジェクト』2009.05.11
「一日前プロジェクト」は3年前の2006年、災害の恐ろしさ、事前に備える大切さを国民に気付いてもらう1つの手段として内閣府が始めたものです。地震や水害、火災などの体験者から直接話を聞いて、人々の「気づき」につながる小さな物語をまとめています。
池上さんも、被災者から直接話を聞きました。例えば2008年8月末の豪雨。被害を受けた長野県諏訪市の女性は、「車の通行が何より怖かった」と話しました。それは、ガラス戸まで水に浸かった家のそばを四輪駆動車が通り過ぎるとき、車が起こす波の水圧でガラスが割れてしまうから。女性の自宅も車が通り過ぎたときにガラスが割れて、それがきっかけで床上浸水してしまったそうです。経験した人にしかわからない話です。
このようなエピソードは内閣府のホームページでも見ることができます。みなさんも一度のぞいてみてください。

内閣府「一日前プロジェクト」のページはこちら
http://www.bousai.go.jp/km/imp/index.html
ゲスト:財団法人 市民防災研究所 理事 池上 三喜子さん

第678回『はるかのひまわり、鹿児島へ』2009.04.27
みなさんは「はるかのひまわり」をご存知ですか?震災のとき11歳で亡くなった加藤はるかさんの自宅跡で、震災の年の夏、ひまわりが大輪の花を咲かせました。それは生前、はるかさんが隣の家のおうむのえさにと持っていたひまわりの種からでした。このひまわりを近所の人たちが「はるかのひまわり」と名づけ、震災復興のシンボルとして語り継がれてきました。今も姉のいつかさんは全国各地にこの種を持っていき、いのちの大切さを語っています。
その「はるかのひまわり」にちなんだケーキがこのたび誕生しました。ケーキの名前は「HARUKA」。制作したのは鹿児島の洋菓子メーカーで、ひまわりの種を配り、命の大切さを語るいつかさんたちの姿に感銘を受けた社長が新種のさつまいも「紅はるか」で作ることを決めました。
そして、4月21日から1泊2日でいつかさんたちNPOのメンバーは鹿児島に招待されて、はるかのひまわりの苗木を植えたり、鹿児島の人たちと交流をしてきました。
ケーキは材料が限られているため、大阪・関西・神戸の各空港で2000個の限定発売。「震災のことを知らない人でもお土産として自然に手にしてもらえれば」といつかさんは話しています。

(写真上)加藤いつかさんを囲んで。

(写真下)これが限定発売の「HARUKA」。ひまわりを連想させるデザインで、パッケージにも震災のことや加藤はるかちゃんのことが書かれています。ケーキを口にした魚住さん・河本アナは一言「おいしーい!」
ゲスト:震災で亡くなった加藤はるかさんの姉でNPO法人HANDS理事の 加藤 いつかさん

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