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第807回『1・17の教訓を3・11に 模索する高校生たち』2012.01.23
 阪神淡路大震災から17年の1月17日を前に、兵庫県立舞子高校で震災メモリアル行事が行われました。この高校には、全国で唯一、災害・防災について専門に学ぶ「環境防災科」が設置されています。

 毎年、阪神淡路大震災ついて語り部から話を聞いたり、災害現場でのボランティア経験を生徒が語ったりするなどしていますが、今年のテーマはやはり東日本大震災が中心になりました。
 環境防災科2年生の男子生徒は、学校からのボランティアバスで3度被災地位に行きました。現地では被災者との個人的なつながりができ、夏休みにも自ら被災地に行ってボランティア活動をしました。被災地の方々も若い世代の支援には力づけられたのではないでしょうか。環境防災科担当の諏訪清二先生は「ボランティアは肉体労働や物資など直接的な支援だけでなく、人とのつながりを通して『一人じゃない』と思ってもらう心理的な側面も大切」と話します。 
今回のメモリアル行事は、「伝える」ということに重点が置かれました。今の高校生は、阪神淡路大震災について、経験談、映像、写真などでしか知りません。
でも東北の被災地での活動を通して、17年前に思いを巡らす若い人々がいます。
ある生徒は将来、環境防災科の先生として舞子高校に帰ってきて、さらに若い世代に伝えていきたいと話してくれました。高校生たちの姿を頼もしく、感じました。
(河本 光正)

【写真】東日本大震災被災地で、ボランティア活動をする舞子高校の生徒たち
取材報告:河本光正アナウンサー

第806回『阪神・淡路大震災から17年』2012.01.16
 17年前、大学生だった息子の健介さんを亡くした白木利周さん。
昨年8月、神戸の「希望の灯り」を東北に届けました。岩手県宮 古市田老で「灯り」を受け取った小幡昇さんもまたご遺族です。妻 ユミさんは3歳だった孫の駿くんを後ろから抱きかかえた姿のまま発見されました。その後、妻の祖母ユキさんもみつかりまし た。白木さんに会うまでは「一生立ち直れないかもしれない」と思っていたそうです。白木さんに励まされた小幡さんが、神戸の祈 りの場にやってきました。

 16日の放送は、ふたりを結んだ「希望の灯り」がともる神戸市東遊園地「つどい」会場に特設スタジオを設けました。
白木さんが小幡さんの孫に自分の息子を重ね語ったとき、阪神淡路大震災と東日本大震災とがひとつにつながってゆきました。

 17日の朝「あの時間」は、宮城から「つどい」に参加した武山友幸さんといっしょに「朝からてんコモリ」に出演しました。自宅が宮城県石巻市の武山さんは津波で交通手段を失い、職場のある仙台に居を移し一人で暮らしています。つどいの交流テントで、初めて会った人たちと語り合うと、涙でボロボロ。
「いつもは、もっと大変な思いをしている人を気遣ってしまうけど、ここ神戸なら泣いてもいいと思った」とまた涙。

「阪神淡路大震災1.17のつどい」は、14年前から毎年開催されています。テントの中にコタツを並べていっしょに夜を明かした頃から形は変ってきたけれど、誰でも気兼ねなく出入りでき、受け入れてくれる懐の深さは変わりません。
今年は東北ともつ ながり、語りあい、祈った震災17年の神戸でした。
(魚住由紀)

【写真上】前列左が小幡さん、前列右が白木さん
【写真下】1月17日の朝、「1・17リポーター」の武山友幸さんと
ゲスト:阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」理事 白木利周さん、岩手県宮古市で被災した小幡昇さん

第805回『福島の被災地の現状を現役町長に聞く』2012.01.09
 今回は、兵庫県西宮市の関西学院大学から生中継でお送りしました。関学で行われた震災復興シンポジウムに参加した福島県浪江町の町長・馬場有さんにお話を伺うためです。
 浪江町は、福島第一原発のある双葉町に隣接しています。原発から20キロ圏内は、警戒区域ということで、立ち入りが許されません。浪江町役場は原発から約10キロの地点にありましたが、現在は二本松市に移りました。町民は福島県内をはじめ、北海道から沖縄まで全国に散らばってしまいました。
 3月11日の震災で、浪江町では当初、まさか原発事故が起こっているとは思わず、地震・津波の被害への対応をしていました。ところが翌12日の早朝、町長は「テレビで」原発の異変を知りました。菅首相が「住民避難の範囲を原発の半径3キロから10キロに広げた」と記者団に話していたのです。しかし、浪江町には、国や東電からの避難指示の連絡は一切ありませんでした。東電とは連絡協定を結んでいて、「原発に異変があればどんなことがあっても知らせる」という取り決めを交わしていたにもかかわらずです。
 住民は、原発から西に20キロ以上離れた浪江町内の津島地区へ、3月15日までの間避難することになりました。ところが後日、その津島地区には事故によって大量の放射性物質が降り注いでいたことが明らかになりました。国には放射性物質の広がり方や濃度を予測する「SPEEDI」というシステムがあり、政府は事故当初から、各地の放射線量をある程度把握していました。が、パニックが起きるからと公開しなかったのです。
「一番放射線量が高いところに住民を避難させてしまった」「これは…これは人道的に許せない」「悔しいのを通り越して、怒り心頭」と馬場町長は語りました。話し方こそ、こらえて、こらえて、淡々とされていましたが、その目には少し涙も見えました。
今後、町では除染作業が始まりますが、確実に効果のある除染方法がない中、復興ビジョンを描くことすら難しいのではないかと思います。先が見えない状態は、悔しいですが、しばらく続きそうです。この先、福島はどうなっていくのでしょうか。これからも見続けたいですし、また馬場町長に話を伺いたいと思います。
(河本 光正)

放送終了後、「一生分以上泣いたのに、まだ涙が枯れない」と馬場町長はハンカチを取り出しました。ポロポロこぼれ落ちた町長の涙を、私は忘れません。
(魚住由紀)
ゲスト:福島・浪江町長 馬場有さん

第804回『2012年 東日本大震災被災地のお正月』2012.01.02
 初放送は、東北と電話をつなぎました。去年おじゃました南三陸町志津川中学校仮設住宅自治会の鈴木豊和さんは、かぜひきさんで電話口に出て下さいました。熱は下がったと伺い安心しましたが、仮設住宅は寒さが厳しいそうです。高齢者の間で風邪 が流行り、宮城県内にはインフルエンザ警報も出ているとのこと。 年末は餅つき大会など行事が目白押しでしたが、お正月は、亡くなった方々のことを考えながら静かに過ごされているそうです。町では仮設の商店街や、食堂がオープン予定です。「お金がまわり、元の町や暮らしを少しでも取り戻せれば…」と鈴木さんは話します。

 気仙沼市からは、以前から「1.17リポーター」を勤める菊田清一さんの力強い声。元気の理由は初日の出です。これほどの太陽が顔を出してくれたのは今年が始めて。「おめぇたちさ、がんばれよ!」と太陽が応援してくれているように思えたそうです。東日本大震災当日は、津波が押し寄せる様子や火災発生の状況を生でリポートして下さった菊田さん。その後も被災地の記録を撮り続け、最近は「法テラス」でも活動。「家族の問題」「金銭対策」の相談が多いそうです。震災直後に入籍されたお嬢さんの話もご披露下さいました。

 ネットワーク1.17は今年も震災を伝え、防災を考えてゆきます。
引き続きご愛聴のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
(魚住由紀)

【写真】
宮城県気仙沼市、がれきの間から臨む初日の出(菊田清一さん提供)
電話出演:鈴木豊和さん(南三陸町)・菊田清一さん(気仙沼市)

第803回『2011年を振り返る〜地震学編』2011.12.26
 2011年を振り返るシリーズ最終回のテーマは、<地震学>。
「今月の気になる地震」を担当する、京都大学防災研究所教授の飯尾能久さんに、地震学者として今年を回顧してもらいました。
 3月11日に発生した東日本大震災・東北地方太平洋沖地震は、地震学からしても「想定外」のものでした。そして、発生から9カ月以上たった今でも、「なぜ、マグニチュード9もの地震になったのか」、「なぜ、海底の断層が50メートルもずれたのか」、いくつか仮説はでますが、まだ解明はできていないそうです。
 先月下旬、飯尾さんもメンバーである政府の地震調査委員会が、東日本の太平
洋沖の地震発生確率を見直し発表しました。その結果は衝撃的なものでした。
「青森県沖から千葉県沖にかけての広い範囲でマグニチュード8程度の地震が30年以内に30%の確率で起きる。大きければマグニチュード9の恐れもある」。
あれだけの地震が起きたにもかかわらず、東日本大震災の震源域を取り囲むエリアでは、逆にひずみがたまっている可能性があるというのです。30年に交通事故で亡くなる確率が0.2%と言われますから、かなりの確率の高さです。
 さらに、東北の地震を受けて、東海・東南海・南海で予想される巨大地震について議論している内閣府の有識者会議が、地震の震源域の想定を2倍に広げるという方針を決めたと、新聞が報じました。このことについて、飯尾さんは、「厳密な科学的根拠に基づいて発表しているわけでなく、とりあえずであっても考えられる最大規模の想定をして、国民に備えてもらうため政府が動き出したことを示している」と説明します。
 一方、大阪市内を通る上町断層は1万年周期で動いているとされるなか、前回に活動したのは8千年とも1万2千年前ともいわれていて、「いつ起きてもおかしくない地震なので気をつける必要がある」と警鐘を鳴らします。
 また、飯尾さん自身が研究を進める「満点計画」(地震の観測点をたくさん増やし、断層にどれだけのひずみがたまっているかをきめ細かく分析する)について、現在観測点は250か所までになったということです。「今後の地震の発生予測に向けて役立てていきたい」と、飯尾さんは抱負を語りました。
 今年一年ネットワーク1・17をお聞きいただきまして、本当に有り難うございました。2012年の初回放送は、1月2日です。
(河本 光正)
電話出演:京都大学・防災研究所教授 飯尾能久さん

第802回『2011年を振り返る〜ボランティア編』2011.12.19
 東日本大震災以降ずっと気になっていた事がありました。「ボランティアは、現地に入る事をなぜ躊躇したのか」ということです。阪神淡路大震災で大きなうねりとなり、その後起きた災害での経験を経て成熟したはずのボランティアの足がすくんでしまった理由は何なのか。17年に渡り災害救援活動を続けるNVNADの渥美公秀さんと、ボランティアの初動期を振り返りました。

 地震発生直後、いろいろなことが言われました。「ガソリンがないから入れない」「渋滞を招くから迷惑だ」…。渥美さんには、行かない為の理由探しをしているように思えたそうです。「大切なのは被災者が助けを必要としているかどうか。問題があっても、工夫すればなんとかなった」。さらに、「これがボランティア」というひとつの偏ったイメージがさまざまな情報を通して蔓延したことが躊躇の原因につながったと指摘します。

 災害救援ボランティアが一般的になった反面、「ボランティアはこうあるべき」がマニュアル化され、多くの人がボランティアセンターや社会福祉協議会といった窓口を通り、統制の下でボランティア活動を行うようになりました。効率は良いけれど、窓口がストップサインを出すと中に入ることはできません。今回、被災地の社会福祉協議会のホームページには「県外からのボランティアの受け付けはありません」と掲載され続けました。

 今後は、窓口を通したボランティアと、自分で動くボランティア、双方による支援活動が必要だと渥美さんは考えます。現地へ行きたいと思う人は「行く為の工夫」を考え、ボランティアバスで交通手段を確保するなど「自発的」に行動をとる。「自粛」と言われても、本当にそうするべきなのか自分で考えてみることも必要。「自ら被災者の傍に行き、できることは何でもする」本来の災害救援ボランティアの姿を改めて説きました。

 躊躇の理由がわかり少しすっきりしたものの、17年間の積み重ねが却って被災者支援の妨げになったなら悔しく思います。自分の力で考え、判断し、決定し、行動するはずのボランティアが、決められたルールに従って活動するという矛盾した構造。噂に惑わされる付和雷同な思考。…今後も本当に被災者のためになる支援はできるのか、主体性を養うことから考えるべきか…眠れない日は続きそうです。
(魚住由紀)

【写真上】津波で汚れてしまった犬を洗う学生ボランティア(岩手県野田村)
【写真下】仮設住宅の被災者の皆さんに配るお好み焼きを焼くボランティア(岩手県野田村)
ゲスト:NPO法人日本災害ボランティアネットワークNVNAD理事長・大阪大学大学院教授 渥美公秀さん

第801回『2011年を振り返る〜防災編』2011.12.12
 今年はこれまでの防災意識を根底から覆す大災害が発生しました。今回は「防災」をキーワードに、2011年を室﨑益輝関西学院大学教授と振り返りました。
 津波からの避難で、84人が亡くなったり行方不明になった宮城県石巻市の大川小学校と、学校にいた生徒全員が無事だった岩手県釜石市の釜石東中学校との違いを室�アさんに聞くと、津波の危険性をどのように認識し、どのように備えているか、教育や訓練などの差だという説明がありました。想定にとらわれずその時その時に合わせて正しい判断をする能力も重要だと強調していました。また将来の災害に備える為に、専門家・行政に加え、地域の住民も交えて議論することが必要で、地域の避難訓練に行政も参加して意見交換し、コミュニケーションをとるべきだという指摘がありました。
 
自治体が防災対策をとるためには、国が“今後どのくらいの規模の地震が起こり”“どのくらいの被害が想定されるのか”など基本となる指針を示す必要があります。しかし、国の想定は、東日本大震災が起こってもう9ヶ月を過ぎているのに示されていません。国の対応の遅さについて、室�アさんは「専門家の中でも意見が分かれていて、改めてしっかりと調査しなければならない分野もあり、簡単に出せない現状が有る」としました。とはいえ、まずは暫定的にでも数値を出し、その後に、厳密に検討した想定を示すという2段階で対応するべきだと指摘しました。一方で、自治体側も、国が想定を出すまで対策が取れない、ではなく、おおよその目安だけでも決めて、とにかくまずは対策に取り組むべきだと話しました。

先月私が取材した尼崎市は「国はスピード感を持って事を進めて欲しい」と話していました。それは確かに重要です。でも、自治体や国が動くのを待たずとも私たち自身で出来る事も必ずあるはずです。周りが動くのを待っているだけではなく、身の回りのチェックをしなければならないと改めて感じます。
(河本 光正)

【写真】石巻市立大川小学校。
    2階建ての校舎を超える高さまで津波が押し寄せた。
電話出演:関西学院大学総合政策学部教授 室﨑益輝さん

第800回『被災者の不安〜「雇用」と「街づくり」』2011.12.05
「仮設住宅暮らしが長くなるのはわかっている。何年後までに土地を取得するなど具体的な目標があれば希望が見え、みんながんばれる。今は展望がない」と話す住民の鈴木豊和さん。全ては、まちをどう再生するかにかかっています。「まち」「仕事」「暮らし」はつながっているからです。

「冷蔵庫、陳列ケース、車」。何もかも流された鮮魚店に残ったのはローンだけ。返済を始めて5ヶ月目のことでした。旅館も、郵便局も…仕事場だった建物は、跡形もありません。南三陸町では、緊急雇用対策として、ガレキの撤去作業や警備、生活支援員などの仕事をつくりましたが、多くが臨時のもので生活の基盤になるものではありません。

 まちが出来れば、仕事場も出来る。しかし、まちづくりの基本計画に関する住民説明会は10月に一度開かれたきり。「町会議員は、仮設住宅の懇親会に顔を出して我々の意向をつかんで欲しい」と南三陸町志津川中学校仮設団地自治会長の佐々木長平さん。一方で、元いた地域の人たちの意向をとりまとめようとしても、誰がどこに移り住んだかもわからず、連絡すらとれないとこぼします。何から始めたらよいのでしょう。

 だけど、負けてはいられません。南三陸町では住民自らの力で毎月「福興市」を開き、元気を取り戻しながら復興の過程を発信しています。南三陸復興ダコ「ゆめ多幸鎮(たこちん)オクトパス君」は、象徴的な復興推進グッズとして5月に復活しました。収益の一部は被災3県と南三陸町に均等配分して寄付されます。「被災地を忘れないで」。オクトパス君は、住民たちの気持ちを代弁しています。
(魚住由紀)

【写真上】津波で流された着物や大漁旗を集めて小物づくり
     仮設住宅集会所での手仕事
【写真下】番組800回記念リスナープレゼント 文鎮“オクトパス君”
     西の明石、東の志津川といわれるほど南三陸町はタコの名産地
取材報告:魚住由紀

第799回『宮城県・南三陸町〜仮設住宅で人のつながり作り』2011.11.28
 東北地方には、住みなれた街を離れ、知らない者同士が軒を連ねることになった仮設住宅団地は数多くあります。そんな中、西宮市の社会福祉法人「すばる福祉会」が、宮城県南三陸町で仮設住宅の支援活動をしているという事で、魚住さんが同行取材しリポートしました。
 南三陸町志津川中学校仮設団地で、先週末、福祉会が行った炊き出しには、家族ごとのお鍋を持った人の列ができました。ある人はお隣さんの分まで一緒に取りに来るなど、今は「地域のつながり」を感じます。3ヶ月前の炊き出しでは見られなかった光景です。
 転機は9月の上旬。団地に自治会をたちあげたことにあります。集会所を開放した上で、炊き出しや物資の配給にお楽しみ会といった仕掛けを毎週末といえるほど実施して、人が集まるようにしました。集会所は、地域コミュニティの中核を担うようになりました。そして…イベントが無い日も、午前は年配の女性がミシン仕事、午後は子どもが宿題したり遊んだり。今では常に人が出入りする場所になったのです。
 「縁側プロジェクト」もコミュニティ作りの一助になっています。仮設住宅では、屋外の物干し竿が高いところに有るため、踏み台としても使えるような縁側を、木材を使って住民たちの手で作成しようというもの。作っていると他の住民も手伝い始め、輪が広がり、既に60軒の家に設置されました。
 こうして「人のつながり」は出来、お互いの顔がわかるようになりました。でも、住民の皆さんはこれからの暮らしに不安を感じています。「仕事や街づくりといった将来の展望が具体的にまだ無い。仮設暮らしが長くなるだろうという中、何か目標があれば仮設生活も我慢していけるのに」と住民の鈴木豊和さんは話します。住民のみなさんの暮らしとこれからについて、来週も「魚住リポート」でお伝えします。
(河本 光正)

【写真上】南三陸志津川中学校仮設団地のフェンス越しに見える町のようす
     町の建物は7割が被災した
【写真下】「縁側プロジェクト」で作成された縁台でおとなりさんとおしゃべり
     新しい近所づきあいが始まった
取材報告:魚住由紀

第798回『借り上げ住宅の契約延長を求めて〜兵庫・災害復興住宅』 2011.11.21
 阪神・淡路大震災では、多くの被災者が家屋の倒壊や火災で住宅を失いました。
こうした人たちのために、自治体が民間や都市再生機構(UR)、公社から住宅を借り上げたのが「借り上げ復興住宅」です。20年の契約期限を前に、自治体は被災者の転居を迫っています。「借り上げ復興住宅」をめぐって、何が起きているのか伺いました。

 賃貸契約の期限を迎える2015年度以降を控え、行政は説明会を開き、転居先の案を示しながら引っ越しを促しています。対象になっているのは、神戸、西宮、尼崎、伊丹の約5400戸(2011.11時点:大阪府では豊中市に約130戸)。しかし、昨年県が行ったアンケート調査によると、5割の住民が「転居は困難」としています。借り上げ住宅は高齢化率も6割近くと高く単身世帯も半分以上。

「病気や通院」「コミュニティの崩壊」が心配されます。
出口さんは「20年の期限を超えることは、法制度上可能になっている。家賃補助は財政負担というが、借り上げをせずにゼロから建物を建てるよりは負担は小さいのではないか」と指摘します。
宝塚市は、契約期限後も住み続けられる方針を打ち出しています。また、兵庫県知事は「借り上げ住宅の買取りを検討する」としていましたが、ややトーンダウン。被災者たちは「借り上げ復興住宅」の居住継続を訴えるため署名活動を始めました。
(魚住由紀)
ゲスト:兵庫県震災復興研究センター事務局長 出口俊一さん

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