かつてのヤンタン放送の仕掛け人…OBスタッフたちからのコメントです。
松田宏
昭和41年に他局が深夜放送にリクエスト番組をスタートさせました。
当時の毎日放送の深夜放送はささやき番組等でしたが、
ワイドのリクエスト番組に大きく水をあけられたのを機に
ディレクターの渡辺に上司から対抗番組を制作するように指示が有りました。
渡辺とは一緒に番組を制作していました。
同僚の久ディレクターを誘い、3人で夜、渡辺宅に三夜集い、相談検討しました。
ベースにしたのは渡辺と制作していた10分のベルト番組「ミッドナイトイン」というリクエスト番組です。
当時、影も形もなかった今のディスコDJスタイル。
スタジオでなくハンドマイクを持って副調整室でしゃべりまくるのです。
同じ起きているならノリノリでビートのある曲を聴いて、という想いからです。
他ディレクターと制作していたのが「フォークアンドヤングボイス」という番組。
マイカ―に高石ともやを乗せて、夜昼関係なく取材ネタ集めて所かまわず行きました。
この2番組に寄せられるリクエストはがきなどからかなり手応えを感じていました。
久ディレクターの発案でスタジオ内に若者を集めようということになり、
当時のフォークソングのマインドである
「リスナーと同じ目線で作ろうや、みんな仲間感覚で送りても受けても若者や」
ということで3人の意見が一致しました。
歌えと付けたのは「発せよ、言い出せ」という想いからです。
スタート時はターゲットの世代を大学生と想定していたのですが、
いざ始まってみるとスタジオ参加者はほとんど高校生でした。
スタジオに参加した人たちは初めはうつむいて発言も少なかったのですが、
次第に顔を上げ積極的に話すようになってきました。
そんな頃です。
渡辺と当時営業部が有った堂島に呼び出され、
「結構な制作費を使いながらよくわからない番組を制作している」と散々お小言をいただきました。
帰りの車中2人で(お小言を言われるようなそんなちゃちな番組ではないよな)と確認しあいました。
そんな意気を受けて、久が「レーサーが着るジャンパーと同じ物を作ろう」と言い出し、
大変高価だったと記憶していますが、ほんの数枚ハンドメイドのジャンパーを作りました。
これを見るにつけ、その時関わっていた人間の気負いと気概がよみがえります。
今思いますのに戦後のベビーブームの人達が高校生になっていたのです。
数は世相になります。
そんな中にみんなの番組が出現し、仲間が集い、仲間が歌い、仲間が言いたいことが言える場ができたのです。
ヤンタンは大きな渦の中心になりました。
ここから歌手が誕生、タレントが誕生、スタッフが誕生、後に続くコメントの名ディレクターの方々も、です。それに全国の民間放送の見学を受け、東京ではコピー番組もできました。
この番組は民間放送の制作姿勢を変えていったのです。
いい時代、いい環境に感謝です。
豊田修二
20代でのヤンタン制作の経験は、その後の放送マンとしての礎を築けたといっても過言ではないと思っています。
今は時代も変わり、コミュニケーション媒体も昔とは全く様変わりしました。
70〜80年代のヤンタン初めラジオ番組をリスナーと繋ぐものは固定電話とハガキ(加えて公開番組)でした。
但し、今も変わらない想いは、「パーソナリティがお喋りするマイクの向こうに、何万、何十万人のリスナーがラジオを聞いている事を常に心がけなければならない。」ことです。
ヤンタンの番組作りから学んだ事ですが、出演者、制作スタッフ、リスナーの三者が共に満足を得られる番組作り、そう考えていました。
それと、みんなラジオ愛に溢れていました。
ラジオは決して古くて不必要なメディアではないと信じています。
ラジオに携わる方々には、ラジオ愛を持って、リスナーと共に楽しめる番組作りを目指していただきたいと思います。
渡邉髙志
今思うと、当時はラジオが時代を作っていた。
暗い日本の世相を笑い飛ばして、新しい文化を自分たちで作ろうと、
若者たちがキラキラ目を輝かせながらラジオから飛び出してくる「文化」を体で吸収していた。
そんな熱気を感じて出演者もスタッフもまさに一丸になって「おもろい」こと探しに熱中していた。
今の日本の「笑い」を作っている巨匠も下駄をはいた角刈りの青年だった。
そんな時代の熱さを体験し、今は年をとった元若者の俺たち老人たちが、
また若者に負けないエネルギーで時代を突っ走りたいと空想する。
永遠に青春を生きる魂をもらった気がする。
VIVA!ヤングタウン!
堀江順一
高校2年生の時、友人に誘われて行った千里の放送センターの公開録音のことが思い出されます。
まさかその8年後から十年以上ヤングタウンに携わることになるとは夢にも思いませんでした。
私は、ディレクターの仕事は料理人に似ていると思っています。
いろんなタレントさん、新聞、雑誌、手紙、電話、メール、ラインなどの素材を利用して
一つの番組を作り上げる作業が似ているからです。
ただ料理人は目の前のお客様の反応で出来上がりが予想されますが、
ディレクターはそういうわけにはいきません。
最近のラジオ番組を聞いていると
「誰がしゃべっているかわからない」「身内だけで盛り上がっている」と時々感じます。
そこで提案ですが、ヤングタウンも原点回帰して公開放送を多くしてみませんか?
現在は、昔と違い、情報を瞬時に知ることができます。
しかし、中学生や高校生はラジオ番組の面白さを全く知りません。
また、若いディレクターの修練の場としてはこれ以上の物はありません。
耄碌老人の戯言と思われるかもしれませんが、一考されることを願っております。
宇野幹雄
「歌え! MBSヤングタウン」は、当時高校生だったぼくらの世代を対象に、1967年に始まった。
番組が始まった頃、千里丘の第一スタジオで行っていた公開録音の入場ハガキは宝島へのパスポートだったし、
そこでパフォーマンスをしたり、自分の名前を呼ばれるだけでも、ものすごく価値のあることだった。
あろうことか、僕は運良く、当時やっていたバンドで番組に出演したり、
大人になってからは毎日放送の社員として、
番組の制作を任されることになった、そしてリタイア後の今も、制作のお手伝いをさせてもらっている。
考えてみれば、もう半世紀以上も「ヤンタン」に関わらせてもらっているのだ。
こんなに嬉しいし貴重なことはない。
リスナーのみなさんが、ラジオのスピーカーの前で、「どんな気持ちでラジオを聴いてくれているのか」 「『ヤンタン』という番組をどんなに楽しみにしてくれているのか」を忘れずに、 今日も楽しい番組を作っていこうと思う。
増谷勝己
55年は凄い! 人間では初老なのに、帯番組で頑張ってるヤンタンはもう歴史やね。
支えてる幅広い出演者、スタッフ、それに勿論リスナーの皆さん。 Mラジのラジオにかける根性と心意気に感謝。
高校生の頃、三枝(文枝師匠)・斎藤努のヤンタン聞いていた…
千里の1スタ行きたかった…
池田治郎
明石家さんまのヤングタウンがまだスタジオトークではなく、 土曜日に千里丘毎日放送の1スタに観客を入れて公開録音番組として放送していた頃の話です。
さんまさんは乗って来ると90分番組なのに収録が2時間を超える事が結構有りました。
その日の夜のオンエアに間に合うように編集するディレクターの私としては、
出来るだけ収録時間が延びない様に指をクルクル回して巻きを入れるのですが、
中々こちらの方を見てくれません。
こちらも意地になって視界に入る様に指をクルクル回していると突然、
『池田君、僕はトンボかいな。』
観客は大爆笑、 余りに絶妙なタイミングのツッコミに私は何も言い返せず引きつった笑顔を返すのが精一杯でした。
あれから数十年、 テレビでさんまさんから突然話しを振られてアタフタしている出演者や番組スタッフの姿を目にすると、 ふと当時の自分と重なり何か懐かしい気持ちになる事が今でも有ります。