2024年

6月 9日

溶接自動機で世界のものづくりが変わる!

先週に引き続き、ゲストは株式会社マツムラの代表取締役 松村和也さん。
今週は会社の歴史を伺っていきましょう。
「祖父の代から溶接をしていました。
父親は4兄弟で末っ子なんです。
全員溶接一筋でやってきていまして、父親だけが半導体装置メーカーさんの方に呼ばれて、立ち上げから工場に入り込んでいたのがきっかけですね。
溶接も種類がたくさんありまして、火花が散るようなものもあれば、そうでない溶接もあります。
父親の兄弟はみんな溶接業で独立していて、全部種類が違うんです」。

お父様の溶接はどんな種類?
「半導体製造装置に使われるような溶接なので、漏れてもダメですし、割れてもダメ。
すごく技術を求められるものです。
そのお客さんとはもう50年以上のお付き合いですね。
溶接に関しては、全てうちがやらせていただいています。
父親の経験談ですが、朝、会社についたら仕事をする商品が1000個、2000個と積んであるわけです。
これをずっとやっていると家に帰ることができない、休めない。
そこから自動機を考えたそうです。
最初は溶接器メーカーさんに話をしたら高額の開発費で断念。
次は機械メーカーに行くと安価で作っていただくことができました。
現在はそれを量産しておよそ30台近くあります。
商品を見て自動化できそうなものは自分たちで考えて設計を変えて自動化に。
量産品は全て女性社員にしてもらって、単品物の難しいものだけは職人さんが手掛けます」。

現在、2代目。お父様のお仕事を見てこられました。
「高校、大学とアメリカンフットボールをさせてもらっていました。
試合があるとアイシングの氷だとかお弁当だとかを保護者がサポートしてくれてるんです。
父は1週間にほとんど顔も合わせないような忙しい人だったのですが、土日に試合があると観に来てくれるんですよね。
コンビニを回って、アイシングをする氷や飲み物に入れる氷を買ってきてくれる。
それで何か恩返しをしなければいけないと思いまして入社しました。
父は入社に関して"俺は誘ってない"って言いますけどね(笑)」。

入社後、お仕事は順調でしたか?
「"教えてもらう"じゃないですよね。
"見て盗め"タイプなので。
そうすると早く出社して遅くまでやって仕事を覚えるしかないので。
朝6時半ぐらいから晩11時までっていうのはずっとやり続けていましたね。
父も付き合ってくれていました」。

学生時代のアメリカンフットボールは仕事には活かされていますか?
「チームワークの考え方は繋がっていますね。
この部署やったら、こうやったええ方がええんちゃうか、など。
この子やったらこっちで活きそうやなとか。
アメフトは試合の中でみんなやっていることが違うんです。
ポジションによって選手が得意なものを活かす。
僕だったら体が大きいので体をぶつけて味方の体の小さい選手を守ります。
体が小さい、足の速い選手はぶつかれないので、逃げるルートを作ってあげる。
仕事も同じだと思うんです。
アメフト時代の先輩も後輩も入社してくれています。
千葉工場に1人、茨城の工場にも1人、大阪の方には3人。
すごく助けてもらっていますね」。

現松村和也社長の代でさらに会社が大きくなりました。
「最初の頃は会社を継ぐことは考えていませんでしたね。
父親の代はいいけれど僕の代になった時にこのままやっていけるかという不安はありました。
黙々と仕事をしていることがOKかどうか疑問でしたね。
かといって勉強するところもないし、誰も教えてくれない。
そんな時にアメフトの先輩におよそ10年前、勉強会に誘っていただきました。
そこで改めてものづくりを学ばせていただきました。
自分の好きなものを作っていてもいけない、お客さんが欲しがるものを作らないといけない。
そこから人材派遣会社を作ったり、一般社団法人日本ものづくり支援機構を作りました」。

先代との引き継ぎなどはどうされたのでしょう。
「溶接で言うと、職人業の細かい溶接なので例えば老眼が進んだりするとできなくなります。
父親もずっと現場でやってきましたけど、57歳の時に、現場の方は任してくれと言いました。
仕事の見積もりにしてもお仕事にしても、父親と僕がいると必ずお客さんは全部父親に訊ねます。
仕事においての挑戦ができないので、社長として居てもらいながら、現場は自分に任してほしい旨を話しました。
そうすると"うん、わかった〜"と次の日から本当に来なかったんですよ(笑)。
急に父が会社に来なくなったもので病気を疑ったり、周りも気を遣っていました。
めっちゃ元気だったんですけどね(笑)。
父はその頃、会社に来ない代わりに家で花を栽培していました。
今は料理にハマっています。
ちなみに母親は今でも経理として会社で働いています。
実際に父がスパッと会社に来なくなったので、見積もりやお客さんの対応は大変でしたけど成長させてもらえましたね」。

会社の歴史の中で大変な時期は?
「リーマンショックは厳しかったですね。
半年から1年近く、役員の給料をゼロにしたことがありました。
その頃は、まだ人材派遣会社もないですし、新しい営業をかけるなどもない。
どうしていいか分からないので、ただただ仕事が来るのを待っていました。
その辺で業績が落ちたので、状況を変えるために勉強し始めました。
製造業ってあまり営業をかけたりはしないんですけど、うちはDMを送ったりして頑張っています」。

未来のビジョンをおしえてください。
「株式会社マツムラは溶接としては日本で1番ではないですけれど、"ちょっとあそこは他所と違うな"という会社にしたいなとい思います。
一般社団法人日本ものづくり支援機構でやっているような活動で、MADE IN JAPANの技術をもっと残して日本で作ったものを海外で出せるような形を僕らができたら面白いと思っています。
それをすることによって日本の技術も残りますし、日本での仕事ももっと増えるだろうと思います。
溶接の自動機を海外へ出そうと思っています。
溶接はどの国も技術伝承できないところがあります。
自動機で製品の不良率を下げることができます。
他にも男性が主にしている溶接の仕事を自動化することで女性ができるようになったり。
海外に対して打ち出しています」。

ものづくりのスタイルが変わると未来が変わる。

竹原編集長のひとこと

事業承継の話から海外展開を目指しておられる話。
特に溶接自動機の海外展開は世界のものづくりにおいて革命を起こすかもしれないですね。
楽しみです。