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9月24日
先週に引き続き、ゲストは株式会社精和工業所の代表取締役 原克彦さんです。
今週は改めて会社の歴史を伺っていきましょう。
「創業は昭和37年、私の母方の祖父が創業しました。
その頃からステンレスの溶接はしていたそうです。
創業者の息子であり私の伯父、先代が2代目。
創業時は祖母も手伝って二人三脚で仕事をしていたそうです」。
東京オリンピック開催の2年前。
「忙しくなっていく時期だったのだと思います。
ステンレスも徐々に一般的になってきた材料だったと思います」。
一族で続いている会社。
どんな流れで承継されたのでしょうか。
「若いころは全然、継ぐ気はなかったですね。
自由にさせてもらっていました。
創業者からも継げと言われなかったですし。
そもそも私自身、手先が器用じゃないんです(笑)。
学校の苦手な教科が図工と美術。
自分がものを作るということにイメージが湧かなかったですね。
大学も文系でした。
卒業後は会計系のシステムコンサルタントの会社で6年間、仕事をさせてもらいました。
皮肉にもその時のお客さんは製造業の会社さんが多かったですね。
製造業は、ものを作るだけじゃないと学ばせてもらいました。
そうこうしている間に創業者が一線を引いて、家にいることが多くなりました。
それまで家にいなかった人がいる。
家での話題に家業のことが出るようになって、この仕事に就くのもいいかなと思い始めて、私の方から2代目に入社したい旨を伝えました。
29歳の時でしたね。
全くものづくりがわからない状態で入社したものですから、先輩から"ボルトを持ってきて"と言われてナットを持っていったり。
ボルトとナットの違いが分からなかったですね。
工具の名前がわからなかった状態でした」。
最初、どんな部署に?
「生産技術という製造していく設備だとか、治具という補助具を作ったり、メンテナンスしていく部署でした。
そこで設計図、設計書を勉強して、部品を集めて組んでみて、現場から文句を言われたりして...(笑)。
出来上がると嬉しかったですけど、今から考えるとセンスのないものを作っていたと思いますね。
先代が色々と考えてくださって、各部署2〜3年経験させてもらって社長に就任しました」。
社長業はいかがですか?
「この12月で丸5年。
日々のことは社員の皆さんに任せるしかないと思いますね。
自分よりも経験が豊富でそれに専任している人がいますので。
意思疎通はしっかりとしながら任せる。
社長業になってびっくりしたのは、考えていることの半分以上が人のことになりましたね。
誰をどういう風に伸ばしていくのか、人と人との問題だとか、弱っている人に対してどうしてあげようか。
人に関することを考えるようになりましたね」。
新社屋も好評だそうですね。
「去年の10月にできました。
1階がオープンファクトリーで2階がラボ、3階が本社です。
コロナの前に今の会社の隣の土地を購入しまして、新社屋を建てようとしたところにコロナでした。
コロナの様子見した後にスタートしたので、完成まで1年半ほど遅れましたね。
普段のものづくりとオープンファクトリーを並行して進めていくことが大変ですね。
課題がたっぷりです。
工場の見学とオープンファクトリーとは少し違います。
工場見学は案内人がつきますが、オープンファクトリーはそこに人がやってきて自然に見てもらいます。
そうなるとそこに何も言わなくても伝わるメッセージ性がいると思います。
そのメッセージを社員の皆さんに考えていただくようにしています」。
今後のビジョンは?
「溶接という技術一本でやってきました。
これはずっと大切にしていきたいと思っています。これからはその技術を使って何ができるか。
モノを売ることからコトを売る。そのために自社製品を作ったり、サービスを売るも含めて溶接という技術を皆さんに使っていただきたいと思っています。
シナジーのあることは何でもチャレンジしていきたいと思っています」。
溶接の技術とアイデアの独自性、社員の皆さんにファクトリーのあり方を考えてもらうなど挑戦する姿勢が素晴らしいですね。