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9月12日
ゲストは先週に引き続き株式会社日新化学研究所の代表取締役社長 加藤雄一朗さん。
紙製品や工場などでも活躍している界面活性剤。
お客さんの用途に合わせてカスタマイズをされています。
今週は改めて会社の歴史を伺います。
「創業は昭和6年、愛媛県の川之江町、現在の四国中央市です。
その地域はもともと和紙の製造をしたり、繊維の製造が盛んなところでした。
川之江港というところがあるのですが、大きな船が港に入れない時代がありました。
大きな鉄船が材料や薬品を運んでくるのですが、そこに木の船で取りに行って陸揚げをしていたようです。
この作業が大変だったので現地生産ができたらということでこの土地で創業しました。
界面活性剤を用いた洗浄剤を作っていました」。
現加藤社長は代々創業者筋ということで会社を継がれることが前提だったのでしょうか?
「これがうまく洗脳されましてね(笑)。
気がついたら応用化学を勉強していました。
祖父の代で大阪に来ていました。
当時の原料はマッコウ鯨の鯨油です。
鯨油はそのまま使えませんので硫酸を使って水に近いような成分と油に近いような成分を分離させて、両方を使っていました。
時代で鯨油が使えなくなった時がうちのピンチだったと思います。
原料は使えなくなってくるものが多いのですが、その度に先達が乗り越えてきて今に至ります」。
応用化学を学んだ加藤社長はすぐに入社?
「大手の印刷会社に就職しました。
大手の印刷会社は印刷だけしかしていないわけではなくて、表面加工の仕事もしています。
私は液晶テレビの中の光を均一化させるフィルムの仕事をしていました。
平に見えるのですが、細かなレンズ形状が入って光の線ではなくて面に変えるような加工。
その開発をしていました」。
前職ではまだ界面活性剤に関わっておられません。
いつからこのお仕事に?
「世代交代は30年おきに行われているという話を聞いたことがありました。
私と父は35歳離れています。
それを30歳手前で思いまして...。
当時"日新化学研究所の仕事に舵を切るには今しかない"と思って決心しました。
私は自分自身で決めたと思っているんですけれど、大学で応用化学を学んだ時ぐらいから父に方向性を決められていたのではないかと思いますね(笑)」。
先代のお父様はどんな方ですか?
「営業が得意な人です。
現在、先代は会長、私が社長。
歯車が噛み合った状態です。
会長から社内的なことを引き継ぎながら、営業のところをしっかりしていきたいということが課題です」。
聞くところによると加藤社長は大学時代、大阪大学吹奏楽団の団長を務めておられたのだとか。
「団員は100人いました。
声が大きかったのと、楽器が上手くなかったので(笑)。
周りからも"運営面でやってもらうと丁度いいんじゃない?"という感じだったかもしれないですね。
会社も吹奏楽団も専門職の集まりなわけです。
個人のスキルも上げなくてはならないし、全体としていい成果を残さなければならない。
吹奏楽団はコンクールでいい成績をあげるなど目標がはっきりしているんです。
どうせやるなら楽しくやりたい。
会社もそんな思いで臨んでいる部分もあります。
吹奏楽団時代は"1+1=2じゃない"。
アンサンブルなので必ず上手くいくかどうかわからないんですよね。
違う人たちが同じ方向に向かって文字通り"息を合わせていく"。
会社でも違う部署でも、その息を合わせることでより大きな成果が出せればいいと思います。
会社としての目標は部署ごとの目標が達成できて成るものだと思います。
部署ごとの結果の集結が会社の目標。
では部署の目標は...それは個人のスキルアップなど。
一人一人の成長が集まって会社の成長ともいえます。
みんなで成長できることを目指しています」。
将来のビジョンはどうお持ちですか?
「昨今、SDGsをよく耳にしますが、とにかく社会のお役に立てる会社でありたいです。
目の前のお客様のお役に立つ会社。
社員一人一人も磨かれた社員で構成された良い会社。
いかに長く続けていけるかということも思っています。
現在67期ですが100年後、200年後に"67期のメンバーが頑張ってくれたから今があるんだよね"といわれるような事をしていこう。
それをするのはいつか?今ですよね。
社員一人一人の成長が会社の成長ですのでみんなで成長していきたいです。
いずれは社員のお子さんが就職してもらえるような会社。
親として子どもに推薦してもらえるような会社にもなりたいですね。
社員の子どもも入社...そうなったら涙ものですよ(笑)」。
長く続くということは、社会に受け入れられているということ。
論理的なお話の中にもとても熱い思いを感じました。