2020年

10月25日

諦めない心意気が製品や功績にも輝く

先週に引き続き、ゲストは株式会社NGCの代表取締役 張西厚志さん。
『なんば体操クラブ』から体操器具の製作まで、幅広く手がけておられます。
その体操器具は東京オリンピックにも使われるのだとか。
「今までもたくさんの器具を開発してきましたが、"できた"というところからさらに追い込んでいくといいますか。
追求してきますね。
そこで初めて商品化するという流れですね」。
アスリートのような考え方ですね
その甲斐あって特許は25にも。

張西社長はもともとスポーツを?
「フェンシングをしておりました。
当時のフェンシングはまだまだマイナーなスポーツでしたから。
通った高校にフェンシング部がありました。
体育館で剣の当たる音を聞きまして、かっこいいなぁと思いましたね。
そこから近畿大学に入ってフェンシング部を創設しました。
当時、1年生でした。
学校に掛け合うと「お前は1年生だろ?」とすぐ言われました。
学生服の金のボタンがピカピカしてたのでわかったんでしょうね(笑)。
部になるまでは学内では練習できないんです。
そこに至るには会員数は20名以上。
学外で練習しているところを学校関係者にチェックしてもらい、同好会として認めてもらわなければいけなかったんです」。

すぐに部員は集まったのでしょうか?
「友達を誘いましたね。
"上級生がいないからいいぞ!"といいましてね(笑)。
そこから2年の春に認められました。
3年の時に初めてリーグ戦に出ましたね。
1部から3部までのリーグの3部に出場して優勝してしまいましてね。
2部入れ替え戦にも勝ってしまって、2部に昇格しました」。

青春のストーリーですね。
そして...?
「同好会ができたのが東京オリンピックの年でした。
オリンピック後、フェンシングに出場した方が講習会を開くということで出向きました。
行って話をして帰り際に、"練習を見てもいいよ"という声がけを頂いたんですね。
そこから程なく大阪に来ていただき指導していただきました。
しかし、2部の壁は厚く、いい成績は納められませんでした...。
そこから猛練習を重ねて翌年には2部で優勝することができましたね。
次は1部入れ替え戦。
名古屋に乗り込みまして、当時の部員およそ50人全員です。
最初のフルーレでは負け、エペで勝ち、私のサーブルの種目で3勝、4勝しなければならないところをなんと2勝2敗。
そのまま接戦で進み、最後の1本で決めることができて卒業となりました。
思い返すと死に物狂いで練習しましたね」。

その後、張西さんが作ったフェンシング部は全日本選手権2連覇、張西さんが監督の10年間の中で団体・個人を含め十数回の優勝という成績を修めまた。
現在のお仕事にはつながったのでしょうか?
「親に33歳の時に親に呼ばれました。
"いつまで学生気分でいるんだと"。
ハッとしましたね。
当時、フェンシングでは食べていけませんでしたから。
そこから妻が羽衣学園で体操の指導をしていた関係で体操教室をすることになりました」。
奥様はその後、日本体操協会の役員や国際体操連盟の技術員を務めるなど、世界の体操界の最前線で活躍されます。
さらにその後の張西さん、フェンシング界にも復帰。
日本フェンシング協会の理事になり、日本のフェンシング界を牽引すべく国際フェンシング連盟の役員にも就任。
現在もその任務は続いているのだそうです。
その数々の功績から旭日双光章の叙勲されています。

これからのビジョンはどう見ておられますか?
「幼児期に体操は大切です。
様々なスポーツにつながっていきます。
楽しい体操を正しくやってほしいと思います」。

竹原編集長のひとこと

諦めない姿勢からっフェンシング部が生まれ、
そしてお仕事として製品が生まれ。
この姿勢は見習いたいですね。