2019年

12月15日

街頭テレビから始まった金属加工への道

ゲストは飯田金属工業株式会社の代表取締役の関健一さんです。
ものづくりの会社として数々の受賞歴があるこの会社。
金属にまつわるものをお作りだそうですが、具体的にどんなものを作っておられるのでしょうか?
「現在は炊飯器の部品、ガス給湯器のバーナー部分やIH電磁調理器のアッセンブルまで。
外に出てない部品ではありますが作っています」。

実は私たちの生活の中で日々お世話になっているものの部品を作っておられます。
「最近の炊飯器はお米に圧力をかけるために、とても蓋が重たいんですよ。
高級機種になるとボタン一つで開きます。
今、流行の羽釜ですね」。
一貫してお作りになっていることのメリットはどういったところにあるのでしょう?
「部品の不良が早く処理できることにあると思います。
組み上げてから不良がわかるよりももっと早くわかる。
メーカーさんも楽なんですよね」。

実は2008年にMBSのテレビ番組『ちちんぷいぷい』で竹原さんが取材したことがありました。
その当時はパナソニックのテレビの部品を作られていたとか。
「4、5つ私どものパーツが使われていました。
その当時は中国にも輸出してましたから忙しかったですね。
昭和35年からのお付き合いで来年で70年。
テレビが普及しだした頃に街頭テレビがあったんです。
夜の11時頃になりますと街頭テレビを木製キャビネットに仕舞うんです。
実はそのキャビネットの鍵に当時のうちの製品だった木製の鍵を使ってもらっていたんです。
頭上のキャビネットの鍵を締めるものですから、鍵穴に無理がたたって壊れてしまうんですね。
うちの創業者は文句も言わずに無償で替えにいっていたんです。
それを見ていた当時の松下電器の担当者が申し訳なく思われたんでしょうね。
テレビやラジオの部品を作らないかと提案いただきました」。

高度経済成長とともに売り上げも伸びていったテレビ産業。
プラズマテレビの部品も多く作られたそうです。
「それに伴って工場を広げました。
本社工場が住宅に囲まれていました。
実は先代が伊賀にも土地を買っていたんです。
方々から譲ってほしいという声が多いので土地を見にいったらその辺りにたくさん工場が建っていた。
それならばと、うちもそこに昭和63年に工場を建てました
パナソニックさんには共栄会社として育てていただきましたね」。

社員さんにはどんな方がおられますか?
「90人の社員の中でおよそ30人が国家技能者です。
国家技能検定にチャレンジしてもらって、合格すると手当てがずっとつくようにしました。
技術レベルが上がってきたからこそ品質の高いものができます。
八尾工場は小ロットのもので設計、組み立て、レーザー加工など。
伊賀では量産。
設計して試作して金型を作って生産してアッセンブリ。
品質も安定して様々な要望に応えるようにできました」。

手のひらサイズから抱えるほど大きなものまで。
会社の歴史は次週に続く...。

竹原編集長のひとこと

家電部品への移行するきっかけが面白いですね。
丁寧な仕事が生んだ新しい未来ですね。