2019年

10月27日

変化を恐れず未来へ 受け継いだ技術を未来へ

先週に引き続きゲストは株式会社新城製作所の代表取締役社長・新城功さん。
ピアスナットの仕組み方から会社の取り組みまで伺いました。
今週は改めて会社の歴史を伺ってきましょう
「私の祖父が創業しました。
昭和18年にボルトの製造をスタートさせました。
残念ながらボルトの製造は4年後に終わって、昭和29年に今度はナットの製造を家族でというのがルーツとなっています。
祖父とその子供の世代が始めました」。

元から現在の地でお仕事を?
「昭和に入ってから沖縄からこちらへやってきました。
当時、同じ沖縄の方がやっていたネジの仕事をし始めたのだと思います。
西成で創業して住之江へ、そして岸和田へ。
岸和田では当時20人ほどの従業員でしたが、現在は100人を超えています。
私の子どもの頃を知ってくださってる従業員の方もまだ現役で働いてくださっているんですよ」。

現在の新城社長ははじめからこのお仕事をされていたのでしょうか?
「最初に就職するにあたったは今の仕事は選びませんでしたね。
電設資材の会社に就きました。
仕事をしてみると若干実家の仕事が気になる...。
就職して4年ぐらいしてから父から相談されたことがありました。
ちょうど会社を集約するタイミングでしたね。
当時は26歳。
すぐに返事をして家業をすることになりました」。

そこからは順調に...?
「手探りの中でやっていた中、実は恥ずかしい話なんですけど数年後に辞めたんです...。
色々なことが重なったり、父親の方針に納得できなかったこともありました。
その後、アルバイトをしていましたね。
実はある日、早朝から家の電話が鳴りました。
会社の向かいから不審火がありまして。
会社の方から私にも連絡でした。
心配して父にいうと"準備してからいくわ"と言うんです。
今思うと気構えが違いますよね。
現場に行くと社員さんがおられました。
そこで思ったんです。
火事を心配して駆けつけている会社の人たちの中で自分だけ部外者でした。
社長と同じ"新城"という名前を持ちながら...」。

そんな疎外感の中、会社に動きが。
「アメリカに代理店がありまして、そこの担当者が私を一度アメリカに来させないかという提案がありました。
しかし私はすでに辞めていた...。
それでも社長は私に声をかけてくれました。
この機を逃すまいとそこからアメリカに渡って3年間。
戻ってくるときにはベトナムに工場を出すことになったからとベトナムへ。
海外を渡り歩きました」。

今ではお父様との関係はいかがですか?
「今でもぶつかりますね(笑)。
でもおかげで父が見守ってくれていたこと、父がやっている素晴らしいことにも改めて気づけたと思います」。

今後のビジョンは?
「私が常に言っているのは永遠に生き残れる企業でありたいということです。
祖父から受け継いだものを未来へ繋げるためには前に前に成長しましょう。
維持するより変化をしよう。
変化を恐れずに進む。
そんなことを思っています」。

会社代々の繋がり、そこにかける想い。
それは商品にも継承され未来を生み出していきます。

竹原編集長のひとこと

事業の継承は色々な形があるものですね。
改めて受け継ぐということが大切だと教えていただきました。