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ブルーズ名盤百撰 No.2
僕自身がアルバート・コリンズをしっかり聴きはじめたのが、ギターの吾妻光良と結成した「ブルー・ヘヴン」の頃。それ以前にも耳にしたことはあったのだが、なんせコリンズは歌に魅力がないというか、歌が下手だった。あまりにも・・。しかし、吾妻が「いやぁ〜、歌はまあちょっと置いて、ギター聴いてくださいよ。この突っ込みの鋭さ、無謀とも言える突っ走り・・・」とかなんとか言うのにほだされてまた聴き始めたのが77年くらいだったか・・。 アルバム"Ice Pickin'"がリリースされたのは1978年。彼にとってアリゲーター・レコードからの最初のアルバムだった。70年代後半から80年代頭にかけてブルーズはアメリカン・ミュージックのルーツとして改めて見直され始めた時期だった。そのきっかけには映画「ブルーズ・ブラザーズ」の大ヒット、白人ブルーズロックの久々のスター、スティーヴィー・レイボーンの登場、そしてそれよりもっと久々だったブルーズ界からのヒットをポップ・チャートに送り込んだ若きロバート・クレイの出現などがあった。またブルーズ・クラブ「ハウス・オブ・ブルーズ」の全米展開や、各地でのブルーズ・フェスティバルの開催などもそれに火をつけていった。 そして、アルバート・コリンズは盛り上がった80年代のブルーズ・ムーヴメントの中でまさに中心的役割を担うこととなり、吾妻曰く「鬼瓦」のような凶暴な形相で、長いシールドを使って客席に降りてきてギターを弾きまくるパフォーマスで80年代のブルーズ・フエスには欠かせない出演者だった。では、その火が出るような彼のブルーズ・ギター・プレイが聞ける代表的な曲を。"Ice Pickin'"の5曲目"Too Tired"
コリンズは1932年にテキサスのレオナという町で生まれたが、育ったのはヒューストン。ヒューストンという都会はブルーズにとってとても重要な土地である。ここはコリンズの先輩であり、憧れでもあったゲイトマウス・ブラウンが"ヒューストン・ジャンプ"という荒々しいダンス・ミュージックを作り上げ、コリンズが10代の頃には一世を風靡していたところだ。ところがコリンズがギターを持ったのは18才の時で、それまで彼はジミー・マクグリフをアイドルとしてオルガンを弾いていた。 18才から本格的にギターを始めて地元のクラブに10人編成の"リズム・ロッカーズ"というバンドを率いて出演していた頃から、長いシールドを使って客席を練り歩くパフォーマンスをやっていたという。レコード・デビューは58年に地元のマイナー・レーベルから出したシングル"The Freeze"。このギター・インストが評判になり"Sno-Cone",";Icy Blue";とインスト・ナンバーを立て続けにリリース。そして、62年出したこれまたギター・インスト"Frosty"がなんとミリオン・セラーになった。そのオリジナルはないのですが、コリンズが最後に在籍したポイント・ブラック・レコードからのベスト盤"Collins Mix"で再演しているので、それを聴いてください。
「ミスター・テレキャスター」という綽名のある彼はフェンダー社のテレキャスターを終生、愛用した。あのギターからこんなに鋭い凶器のようなサウンドを出したギタリストはいない。ジミ・ヘンドリックスはコリンズに大いに影響を受けたらしいが、彼のギター・スタイルは真似しょうと思ってもなかなか彼のようなトーンは出ない。と言うのも彼はギターを普通のレギュラー・チューニングではなくFマイナーという変則チューニングにし、カポタストを使ってキー・チェンジを行っているからだ。モダン・ブルーズマンでカポタストを使っている人は彼以外にまずいないだろう。ゲイトマウス・ブラウンなどの「ヒューストン・ジャンプ」という荒々しい音楽をベースに、突っ込みの鋭い、ハイ・テンションなギターの導入が彼のポイントだったが、その素早いフレイジングは次第に時代にマッチしていった。スロー・ブルーズを弾いても突っ込み、テンションは変わらない。次ぎは僕もカヴァーしていますが、テキサスの偉大なブルーズマン、T・ボーン・ウォーカーの作品です。
しかし、その個性あるギター・スタイルをもってはいたが歌がよくないという評価が60年代後半から定着し、マイナー・レーベルで細々とレコーディングを続けてはいたがヒットはなく、70年代に入ってからはほとんどレコーディングもなくなり消えかかっていた。しかし、この逸材をなんとか売り出す方法はないかと考え、コリンズを再びスポット・ライトのあたる場所に押し出したのがブルース・イグノア。 シカゴのマイナー・レーベル、アリゲーター・レコードの社長だ。イグノアはハウンド・ドッグ・テイラーというブルーズマンに心酔しアリゲーターを創設したほどのブルーズ・フリークだ。彼の適切なプロデュースのもと、78年に出したアルバム"Ice Pickin'"の成功によってコリンズはFrostbite(80)Frozen Alive!(81)Don't Lose Your Cool(83)Live in Japan(84)と順調にアルバムを製作し、85年製作のRobert Cray anとJohnny";Clyde";Copelandの三人で録音した"Showdown"ではグラミー賞にも輝いた。翌86年のアルバム"Cold Snap"もグラミーにノミネートされたが受賞には至らなかった。しかし、このアルバムではかってオルガン・プレイヤーをめざしていた時のアイドル、ジミー・マクグリフを迎えてグルーヴィーなジャムをしている。 では、その"Cold Snap"からジミー・マクグリフのソロも聞けるこの曲を。
89年にコリンズはメジャーのヴァージン・レコードの傘下であるポイント・ブラックと契約し、91年には"Ice Man"を発表した。そして、90年代もブルーズ界を引っ張るトップのひとりだったが、93年の7月にスイスのコンサートで突然倒れた。そのときすでにガンにより余命4ケ月だった。しかし、彼はその後も病魔と戦いながらライヴを続け、とうとうステージ立てなくなった亡くなる数日前も自宅でストラットキャスターをアンプにいれてギターを弾いていたという。まさにギターを弾くために、ブルーズ・ギター弾くために生まれてきた人だった。そして、93年11月24日に彼の訃報が僕達に届いた。"Ice Pickin'"からもう1曲。僕もカヴァーしている曲ですが、オークランド・ブルーズの偉人、ロウエル・ファルソンの曲で原題は"Talkin Woman Blues"
《ブルーズ名盤百撰》の3枚目はアルバート・コリンズの"Ice Pickin'"でした。
アルバム7曲目に入っている"You Will Not Lose"でしたが、メロディもそうですが、バックのリフも覚えやすいメロディで彼のもっているこういう音楽性がニューオリンズR&Bをポップなものにしたと言えます。このアルバムは去年再結成のライヴが評判になったミーターズが録音の中心メンバーになっていますが、去年再発されたミーターズのアルバムはどれもトゥーサンのプロデュースでした。もう、1曲"Southern Nights"から。
その膨大な彼の仕事の一部を紹介する。まず、地元ニューオリンズのミュージシャンの録音から、ニューオリンズの定番アルバムであるLee Dorseyの"Ride Your Pony"(66)と"Working in a Coalmine"(66)のプロデュース、Dr. Johnの代表アルバム"In the Right Place"(73)のアレンジ、プロデュース。ニューオリンズ・ファンクの原形を作った1970年のThe Metersの"Look-Ka Py Py"から76年の"Trick Bag"までの7枚!のアルバムのプロデュース。前回取り上げたAlbert KingのNew Orleans Heat (78)のプロデュース、ソウルのLabelleの"Nightbirds";(74)そしてその"ラベル"のメンバー、パティ・ラベルのソロ"Something Silver"のプロデュース。そしてRandy Crawford の"Raw Silk"のプロデュース。ロック・ミュージシャンからの依頼も多く、The Bandの"Rock of Ages"と"Last Waltz"のホーン・アレンジ、Joe Cocker の"Luxury You Can Afford"のプロデュースとキーボード、Elvis Costelloの"Punch the Clock"と"Out of Our Idiot"のプロデュース、Little Featの"Hoy-Hoy"のヴォーカルとホーンのアレンジ、Paul McCartney&Wings の"Venus&Mars"のピアノとキーボードなどに参加などなど、まだまだあるのですがとにかくすごい仕事の量です。 最後はSouthern Nights の6曲目に入っているアルバム・タイトル曲。ニューオリンズの夜というより夕方、太陽が落ちる頃、暖かい風が吹き抜ける中何度かこの歌が頭の中へ流れてきました。数あるニューオリンズの曲の中でも名曲中の名曲。
で、《ブルーズ名盤百撰》4枚目はアレン・トゥーサンの"Southern Nights"でした。アレン・トゥーサンの入門盤として入手しやすいベスト・アルバムの"アレン・トゥーサン・コレクション"(Reprise)もあります。 |
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