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秋の夜長とブルーな映画音楽 「アフリカン・アメリカンのふたつの"ウッドストック"」
前々回、69年のウッドストックの映画の話をしたが、あれから5年後、アフリカのザイールで同じように3日間にわたり開催された「アフリカン・ウッドストック/African Woodstock」というイベントがあったことを知っている人は少ないだろう。 どこかきな臭い、B級な感じのするコンサート・タイトルだが、出演したミュージシャンは皆折り紙つきの一流どころだ。最初に聞いてもらっているのはこのコンサートの1974年頃は白人の優れたギタリスト、ラリー・カールトンが在籍して最もブレイクした時だった。ファンク・ジャズ・グループ、「クルセーダーズ」。 「クルセーダーズ」は1960年にテキサス、ヒューストンで高校時代からの友達だったジョー・サンプル(Key)とウィルトン・フェルダー(Sax)そして、スティックス・フーパー(dr)の3人に、ウエイン・ヘンダーソン(tb)にヒューバート・ローズ(fl)そしてヘンリー・ウィルソン(b)が集まってできたバンドだ。the Modern Jazz Sextetというのが最初のバンド名で、その後the Jazz Crusadersに変わり その後Crusadersとなった。この時代にはすでにCrusadersになっていたと思うのだが、アルバム・クレジットにはジャズがついている。70年代初期フュージョンへ行く前、クロス・オーバーと呼んでいた時代の先駆者だった。このコンサートの他の出演ミュージシャンはJames Brown, B.B.King, Bill Withers, The Spinnersなど・・、ここであああれか・・と気づく人もいるかと思います。 このコンサートが企画されたのは74年10月モハメッド・アリと当時チャンピオンだったジョージ・フォアマンのプロ・ボクシング・ヘヴィ級のタイトルマッチがアフリカのザイールのキンシャサで行われることになったからだ。仕組んだのはプロモーターとしていまも大物のドン・キング。そう、いつも頭の髪が逆立っているあの変なおっさんだ。当時のザイールの独裁者、大統領モブツが自国の観光の宣伝になるだろうとポンとファイト・マネーを出し、ドン・キングは試合をもっと盛り上げるために、そしてもっと金にするために試合の前3日間を「African Woodstock」にしようとコンサートを計画した。もちろん、69年のウッドストックとはまったく違うもので、何の関係もない。そのボクシングの模様とコンサートの様子を編集したのが、ドキュメンタリー映画「WHEN WE WERE KINGS」邦題が「モハメド・アリ かけがえのない日々」だ。96年の公開だった。このフィルムには飛行機の中でB.B.がギターを弾き、みんなで歌っている楽しそうな様子が映っている。
70年にB.Bは自身の最高のヒットとなった「Thrill is gone」を発表し、白人を含むメジャー・シーンに認知され完全にポピュラリティを掴み、世界中をツアーし始めた頃だ。70年から75年頃というと"L.A. Midnight" "To Know You Is to Love You" "Friends"といったややソウル的な、クロス・オーヴァー的な方向へ走り、ブルーズ度はやや落ちかけていた頃。でも、ライヴではいつもガンガンにブルーズで飛ばしていた。この"Sweet Sixteen"などは何度もレコーディングしているが、このアルバムでの出来はかなりいい。 このフィルムはあくまでもモハメッド・アリが中心で、この試合で再びヘビー級のチャンピオンに返り咲いた素晴らしいボクサーというだけでなく、60から70年代にかけて徴兵拒否を含め社会的、政治的発言をはっきりおこなったひとりのアフリカン・アメリカンとしてアリをとらえている。この映像の発表が遅れたのは監督のレオン・ガストとドン・キングの間の権利金銭上の問題だったと言われているが、97年に公開するにあたって音楽の方も74年当時のB.B、J.Bたちばかりでなく、新録音も入れている。その新録の曲からフージーズ、ア・トライヴ・コールド・クエスト、バスタ・ライムス、フォートとヒップホップ連中によって歌われ、シングルヒットしたこの曲を。
モハメッド・アリはこういうヒップホップの若いミュージシャンたちにとってリアルタイムの人ではないが、キング牧師、マルカムXなどと同様にアフリカン・アメリカンのヒーローのひとりだ。ここで少しモハメッド・アリの話をしたい。モハメッド・アリはケンタッキー州のルイズヴィルに生まれカシアス・クレイと名付けられた。ボクシングを習い始めたのは8才の時でその理由は買ってもらった自転車が盗まれ、それを取り戻すためと二度と盗まれないために強くなりたいと思ったためだ。 18才の時までの彼のアマチュアでの成績は108勝8敗。1960年に彼はローマ・オリンピックのへヴィ級で金メダルに輝いた。彼の人生において精神の大きな変革が表れてくるのがこの頃だ。彼は金メダルを持って意気揚々と帰国してきたが、アメリカという国の代表としていくら金メダルをとっても、食事をするにも買い物をするにも乗り物に乗るにも彼は所詮黒人であることをひしひしと知らされる。国のために金メダルを取っても差別を受け続け、自分はこの国では英雄ではないのだと彼は傷つき怒り金メダルを河に捨ててしまう。こんなものに何も価値はないのだ!と。子供の頃からずっと彼は差別を受けてはいたが、ここにきて白人の差別は黒人が何をしても消えないものだと彼の中に深く刻み込まれた。彼はオリンピックの後、プロに転向し19戦勝ちつづけ22才の時に当時のチャンピオン、ソニー・リストンに挑戦するところまでのぼりつめた。「蝶のように舞い蜂のように刺す/float like a butterfly, sting like a bee」と言われた彼のヘヴィ級とは思えない軽いフットワークとジャブはチャンピオン、ソニー・リストンを疲れさせ、とうとう8ラウンド目にリストンはノックダウンさせられマットに沈んだ。この映画でも彼は何度が「オレは踊る」と言ってるようにまるでジェイムズ・ブラウンを聞きながら踊っているような素晴らしいフットワークだ。
僕がリアル・タイムで映像のアリを見るようになったのはチャンピオンになってからだ。だから、それ以前からか僕はよく知らないのだが彼はとてもお喋りなボクサーだった。戦う前の記者会見などでは相手のことをボロクソに罵り「オレより強いチャンピオンはいないのだ」というようなことを喋りつづけたいた。それでついた綽名が故郷の町名から取った" Louisville Lip" とか" Mighty Mouth"だった。この映画の中でも彼は喋りに喋っているが、彼が頭の良くウイットもある人間であることはよくわかる。彼は黒人として政治的、社会的な発言も堂々としている。1967年に徴兵を受けた彼はまさにベトナム戦争が激しさを増していたあの時代に「どうしてオレがベトナムの人たちを殺しに行かなければならないのか」と、徴兵を拒否した。その結果彼は裁判で有罪となりヘヴィ級のタイトルは剥奪された。実は彼は1964年にマルコムXも入信していたブラック・モスリム(ネイション・オブ・イスラム)に改宗し、その時にそれまでのカシアス・クレイという名前からモハメッド・アリに名前を変えた。金メダルを捨ててから彼が求めた精神的な柱はネイション・オブ・イスラムになっていた。この映画の中でアフリカへ向かう飛行機の中、アリは操縦士から飛行機にいるすべてが黒人であることに興奮しているが、白人を「青い目の悪魔」と規定したネイション・オブ・イスラムの考えからすると彼の興奮もよくわかる。そして、彼は彼等の(母なる大地)アフリカ、ザイールへ到着する。 このコンサートにはポインター・シスターズなどサントラには収録されていないグループもあるが、70年初中期コーラス・グループとして人気のあったひとつ、スピナーズが参加している。
ボクシング史上最高と言われるこの試合の素晴らしさと、アリがいかにしてジョージ・フォアマンに勝ったかはこの映像「when we were kings」を見てもらいたい。そして、アフリカで演奏するアフリカン・アメリカン・ミュージシャンたちの気合いの入った姿も楽しんでもらいたい。60年代70年代黒人のヒーローだったモハメッド・アリがボクサーとしてだけでなく、黒人世界の偉大な牽引者であったことがわかるはずだ。
[Wattstax]
ジェシー・ジャクソンとアル・ベルがコンサートの開催を告げる宣誓みたいなことをするシーンからこの映画は始まるが、ふたりがコブシを挙げている。あのコブシが象徴するようにブラック・パワーが盛り上がっていた。場所も1965年に大暴動が起きたロスのワッツ地区の「ロスアンジルス・コロシアム」。コンサート・タイトルは場所の(ワッツ)と会社の(スタックス)をミックスしたもの。スタックスが会社を設立した頃からのベテラン、長老、メンフィスの水戸黄門、ルーファス・トーマスはこのフィルムでもトレード・マークの半ズボンだった。ひょうきんな歌とパフォーマンス、明るく、ダンサブル。下手すると政治集会のような雰囲気になりかねなかったこのフェスティバルに笑いを放り込んだ黄門様はえらい。
エディ・フロイドはこのコンサートの時、袖なしの、ノースリーブの変な服を来ていた。甚平のような柄の、近所のオヤジが夕涼みに出てきたような変な服だった。 もし、会ったら「おっちゃ〜ん、何しての」と声をかけたくなるほどのカジュアルを越えたカジュアルだ。しかし、馬鹿にしてはいけないこの人は歌手だけでなく、ウィルソン・ピケットのヒット「634-5789」などソウルのソングライターとしても実績のある人だ。そして、彼の大ヒット「Knock On Wood」ももちろん自作曲だ。
ゴスペルからソウルを歌いはじめたときはゴスペル派から裏切り者扱いされて、メルヴィスはステージで涙したという話も残っているが、この70年代になってはじめてステイプル・シンガーズのソウル・メッセージが全国区に届いた。その誠実なコーラスも父ポップステイプルの死でもう聞くことはできない。声を張り上げ、歌い上げるだけではだめだ。お父さんのこの暖かい声がソウルというもの。
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