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ブルーズ講座 (関西エリア 2001/03/18放送分)


70年代日本のブルーズ
76〜77年関西ブルーズ・ムーヴメントの終焉、時代はクロスオーバー!

今回の放送曲目


最後の本音 / ソー・バッド・レヴュー

 今日最初に聞いてもらっているのは76年にリリースされた「地上最強のソウル」というキャッチーで派手にデビュー・アルバムを発表した"ソー・バッド・レヴュー"だ。

 メンバーは「ウエストロード」を脱退したギターの『山岸潤史』、そして上田正樹のバッド・クラブ・バンドなどを経てきたギターの『石田長生』、ドラムが同じく元バッド・クラブ・バンドのベイカーこと『土居正和』、ベースが山岸の幼馴染みで高校時代山岸とレッド・ツェッペリンのカヴァーバンドを一緒にやり、その後ヤマハの合歓音楽学院に入学し卒業したばかりの『永本 忠』、キーボードが元"貧苦巣/ぴんくす"というバンドにいてハープの妹尾隆一郎、久保田麻琴などともセッションを行っていた『国府輝幸』ともうひとり"アイドル・ワイルド・サウス"に準メンバー的に参加していた『チャールズ清水』、そしてヴォーカルが素晴らしい才能をもった元コールド・ラビッシュの『砂川正和』、そしてもうひとりのヴォーカルがゼンジー北京の弟子で若手漫才コンビを組んでいたがコンサートの司会をするような関わりから「ソー・バッド」に加入した『北 京一』。

 「ソー・バッド・レヴュー」は2ヴォーカル、2ギター、2キーボードのバンドで当初からかなり賑やかな、お祭り的色彩の強いバンドで、実はこのメンバー選択の要となっていたのはドラムのベイカーであったが確固たるサウンドのイメージがあったわけではなかったようだ。つまりこのバンドの生命線でもあったその時の「ノリ」がメンバー選定にも出ていたのでは?

 メンバーがそれぞれの個性を誇示し、自己主張するところにこのバンドの特性があったし、歌にしても砂川が豪速球ソウル・シンギングで「聞かせる」歌の部分を表現し、もうひとりの京一は歌というより歌と語りとお笑いをミックスしたエンタテナーであり、アジテイターでもあり、客を自分たちのフトコロに引き寄せる役割を果たしていた。ギターも石田が歌のバックなどで細かい技を見せると、山岸はアグレッシヴにジミ・ヘン的な大胆なアプローチをする。

 下手するとバラバラで、上手く行くとそれは名前通り立派な「レヴュー」になったが、次の京一の歌が毎回即興によって歌詞が変っていたようにライヴの内容も同じではなかった。それゆえ、ひとつのスタイルを作り上げるところまではいかなかったように思う。いや作るつもりも本人たちにはなかっただろうけど。つぎはライヴでは15分以上になった北京一の十八番。

かたつむり / ソー・バッド・レヴュー

 75年結成され76年には解散したソー・バッドは約1年ほどの命だったので、僕もそう何回も観ている訳ではない。同じ76年には「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」も解散し、翌77年には70年代の中期の関西の音楽シーンを牽引してきたイベント「8.8Rock Day」も終焉し、関西のシーンは76年から77年の間に大きく変化することになる。

 入道の「ブルースハウス」は74年という早い時点で解散。77年にはリーダーの服田洋一郎がブルースハウス時代の小川俊英(ds)と森田恭一(b)を誘い、そこに名古屋にいた近藤房之助を呼び寄せ京都「拾得」で毎週月曜日にライヴを始め人気を呼んでいた。僕は「ウエストロード」で2枚目のアルバムを出し、渡米し、帰国後ギターの塩次伸二が脱退し代わりに中島正雄(元スウィート・ホーム・シカゴ)が加入しカナダへプロモーションの演奏に出かけたり、ウルフマン・ジャックに気に入られロスで彼の番組に出たりといろいろあったが、「ウエスト」の次の青写真が見えないまま続けることに疑問をもち77年2月に「ウエスト」を解散した。

 結局「ウエスト」は2枚のアルバムを短期間に発表し解散してしまったわけだが、後から思えば2枚目のアルバムにすでに解散への予兆が見られる。72年に正式に結成されてから約5年ほどの間にメンバーそれぞれの音楽的嗜好の変化と、それをバンドという共同体の中にうまく取り込めなかった若さがあったが、これもいまとなっては後々のメンバーにはプラスに作用した解散だった。ただ、それが分かるのは10年以上の月日を必要としたが・・。その解散の種を二枚目のアルバムから聴いてみよう。

Black Eyed Blues / The Westroad Blues Band

 「ウエストロード」75年9月8日京都会館でのライヴ。CTIレーベルから発表されたエスター・フィリップスの同曲のカヴァーだったが、このブルーズ色の濃い曲が当時のクロス・オーバー・ブームの中でかろうじて僕が歌える曲だった。しかし、ギターでバンマスだった塩次伸二の先取の精神はさらに進んでおり、クロス・オーバーの先鋭だった"クルセーダーズ"やグロヴァー・ワシントン・Jr. ジョージ・ベンソンまたイースト・コーストのキング・カーティス一派の動向や"ヘッド・ハンターズ"を発表したハービー・ハンコックなどのサウンドも聴いていた。そして、そこからハーブ・エリス、ケニー・バレル、ウエス・モンゴメリーといったジャズ・ギタリストへ進むのはある意味では当然であった。

 山岸の脱退後、元レイジー・キム・バンドのキーボードの井手隆一と神戸で「北口ブルーズバンド」に参加していたサックスの薩摩光二がメンバーとして加入することによって彼が望むクロス・オーバーへの接近は進んだ。そして、この「ウエスト」のアルバムには2曲のインストルメンタルが入っているのだが、1曲はキング・カーティスの"メンフィス・ソウル・シテュー"(ウエストのアルバムではKyoto soul stewと記載している)そして、もう1曲がオスカー・ピーターソンのこれ。

Hymn To Freedom(自由への賛歌) / The Westroad Blues Band

 塩次、薩摩はジャズの領域にも触手をのばしていた。僕も聞く分にはクロス・オーバーが嫌いではなかった。しかし、ジャズに入る気持ちはこの頃まるでなかった。エラ・フィッツジェラルドのコンサートにすごく感動したのもこの頃だったが・・・。

 黒人音楽のヴォーカルは「ニュー・ソウル」と呼ばれる黒人としての立場を明確にしつつも、クールで知的なテイストを感じさせるダニー・ハサウェイやロバータ・フラックが登場してきていた。音楽大学出身の彼等はジャズとソウルの中間に位置していた。ソウルのマービン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、またカーティス・メイフィールドなどと同じく人種差別撤廃の考えとベトナム戦争の終焉の願いがその音楽に表れていた。その願いや思索が切実であればあるほど僕は"What's going on"や"The Gehtto"などを歌えないと思った。

 78年に同じブルーズ出身の入道がこのロバータ・フラックの歌ったヒットをカヴァーしたのを聴いた時、やはり自分の道はこっちではないと思った。入道は素晴らしい声の持ち主だが、やはりこの歌には借り物的な馴染まないものを感じたし、たぶん自分が歌っても同じ結果だったと思う。

 軽く歌っているように聞こえるロバータのものは、実はゴスペル、ジャズ、ソウルを圧縮したものが中にあり、ただ表面を肌触りよくトレンド加工したに過ぎないのである。ブルーズのMake loveではなく"feel like makin' love"という感覚が歌い手にあるか、そしてロバータのような洗練された、繊細な歌唱手腕が自分にあるのか自問しなければならないような曲だ。ただの軽い曲ではない。

Feel Like Makin' Love / 入道

 「ウエストロード」でこの2枚目を録音した後、75年の冬、塩次との音楽的な相違が顕著になっていく中、バンドや自分の音楽のことを整理すべく、休みも兼ねて僕はアメリカへ長期滞在に出かけた。行くとアメリカはアル・ジャロウ、グローヴァー・ワシントンJr.などCTI系の[クロス・オーバー]が大当たりしていた頃だった。

 この70年代中ごろになるとこういう動きはかなりリアル・タイムで日本にも届くようになった。ジャズ、ロック、またスタジオ・ミュージシャンをも含め日本の主に楽器奏者たちに強い影響を与えた。そのひとつの理由はそれまで影の存在であったスタジオのバック・ミュージシャンたちがメインとなりソロをリリースしたり、あまりポピュラリティのないジャズ・ミュージシャン、シンガーが最先端のサウンドを纏うことによってポップスの領域にまで知られるようになったからである。特に楽器プレイヤーへの脚光が日本でも注目された。

【Cross Over】-75.76年あたりからCTIレーベルのプロデューサー、クリード・テイラーによって言われ始めたと思われる言葉で、ジャズが様々な音楽の要素を取り入れることによってそのサウンドをよりポピュラーなものにしたもの。そのサウンドにはブルーズ、ゴスペル、ファンクといった黒人音楽の要素が明確にあるのだが、アレンジとサウンド・メイキングに大きな特徴があった。
例えば、スタンダードなジャズをサンバなどの南米のリズムでアレンジしたり、ストリングスを全面に加えてゴージャスなサウンドにしたり、60年代のロックからの影響でギター・サウンドが以前にも増してピック・アップされるなど・・・いろいろ手法が披露されたがその音はあくまでも洗練されて、当時のトレンドの音であった。

Winelight / Grover Washington Jr.

 僕にとってはクルセーダースの"スクラッチ"などが代表的なクロス・オーバーのアルバムだ。心地よく、耳ざわりのよい音だが、イージー・リスニングのようにすぐ消えていく音でもなく、例えば60年代に自己主張が強すぎてかえって人々に聴いてもらえないというジャズの行き着いたところを知っている人たちによって、R&Bやファンクのポップス性をつかうこととによって再び構築された70年代のジャズ・ミュージック。ある種の際をいっている音楽だと思う。だから、必ずしも納得のいくものばかりではない。ハズレもある。ここからフュージョンに向っていくのだが、フュージョンになると聞き手の顔色をみたポップン・ジャズという感じがする。

 クロス・オーバーの動きは日本の楽器プレイヤーたちを大いに触発した。それはジャズだけにとどまらず、ロック、ブルーズ界にも及んだ。まず、ジャズから77年に日本のジャズマン 渡辺貞夫が発表した"My Dear Life"そして翌78年の"CALIFORNIA SHOWER"は当時、日本のジャズから発信したクロス・オーバーの代表的アルバムで彼自身がTV・CM(資生堂)に登場したことも評判を呼び、かってないビッグ・セールスを生んだ。リズム隊はチャック・レイニー(b)、ハービー・メイソン(ds)という当時ウエスト・コーストの最も人気のあったふたり。ギターは新進として「クルセーダーズ」にもゲスト参加していた売り出し中のリー・リトナー。キーボードはデイヴ・グルーシン。次の「カルフォルニア・シャワー」ではサックスのアーニー・ワッツ等とストリングスも導入、ゴージャスなサウンドとなった。

California Shower / 渡辺貞夫

 この76年当時関西でこのクロス・オーバーの動きを捉えていたひとりが塩次伸二であり、しーちゃんこと井上茂、そして薩摩光二といった「しーちゃん・ブラザーズ」のメンバーとなる面々だった。「しーちゃん・ブラザーズ」はソロとしてのアルバムを残す前に解散してしまったため、コンピレーションに残されたものを聴くしかないが、聴いてください。まず、しーちゃんのオリジナルです。

Please / しーちゃん・ブラザース

 しーちゃん・ブラザーズのメンバーはギターの塩次、ドラムの井上、サックスの薩摩、にキーボードに宮内 ベース宇塚隆二、パーカッション増田正、そしてヴォーカル・ギターにサウス・トゥ・サウス後のくんちょうこと堤和美。

 あきらかにクロス・オーバー経由の新しい音を目ざしていた「しーちゃん・ブラザーズ」は東京のスタジオ・ミュージシャンたちの間でも評判になり、先程のジャズの重鎮、渡辺貞夫とのセッションを行うところまでいった。が、アルバムを一枚も残せなかったのは残念。最後に塩次のギターが聞き物のサンタナのカヴァーから。

Take Me With You / しーちゃん・ブラザース

 仲のよかった友人がデザイン事務所に就職し、仕事をもったキャリア・ウーマンと結婚し、こじゃれたマンションに居を構え、子供はなかなか作らずに週末になると家に友達を呼んでパーティーというか宴会をやり、夏には海外へ旅行にいくようになり、酒や食べ物に蘊蓄を言うようになりいわゆるニュー・ファミリーそのものを実践していた。当然音楽もブルーズ、ソウルからクロス・オーバーへシフトを変え、ついこの間までフレディ・キングをがんがんに聴いていたのにアール・クルー、ジョージ・ベンソンに変り、それもベンソンの「ブリージン」1枚ぽっきりで・・。

 渡辺貞夫の「カリフォルニア・シャワー」をそいつのところで聴いたのを覚えている。言っておくが、ベンソンにもナベサダにもクルーにも何ひとつ罪はない。そして、このニュ・ファミ・バカが、果てはブライアン・フェリーが・・・と言い出したときに僕は奴のところへ行かなくなった。世の中はみんな洗練され、こじゃれて、何ごとも淡白で、清潔になっていった。ところが僕の興味は日本のニュー・ファミリー群とは逆とも言えるコッテ、コッテのディープ・サザン・ソウルへ向っていた。


今回の放送曲目




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