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チャートとブルーズ ブルーズは死に絶えるのか?チャート争い熾烈な60年代のブルーズ
1960年代にジョーン・バエズ、P.P.M.,ブラザーズ・フォアたちが起したフォーク・ブームは大きなムーヴメントとなり、ボブ・ディランというアメリカのポピュラー・ミュージック界に大きな影響を与える革命児を登場させ、また〈ブルーズ・リバイバル〉という副産物を生んだ。ほとんどのホワイト・アメリカンが自国のブルーズという素晴らしい音楽に気づいたのはこの60年代に入ってからだろう。 しかし、ブルーズ・リバイバルによって見つけだされたブラック・ブルーズはフォーキーなものを柱としたため時代を逆行するカントリー・ブルーズ、フォーク・ブルーズが主体になってしまった。しかし、当時ゲットーで歌われていたリアル・ブルーズはやはりエレキ・サウンドであり、ゴスペルの影響を受けたBB.King,Bobby Bland,Junior Parkerといったブルーズマンが人気の的だった。 例えばシカゴ・ブルーズ。50年代中ごろまで黄金のエレクトリック・シカゴ・ブルーズを作りボスとして君臨していたマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフたちに代わり60年代にはBB・スタイルの影響を受けたオーティス・ラッシュ、バディ・ガイ、マジック・サムたちが台頭し始めていた。まだ、ファンクという言葉は出てきていなかったが、ジュニア・ウエルズはすでに自己のブルーズにファンクを内包していた。 「いままで落ち込んでいたけどこの悪運から抜け出すんだ」 このマジック・サムのブルーズのように少しでもオーヴァー・グラウンドヘ、富と名声をマジック・サムは願い、歌っていた。そして、これらの若いアフリカン・アメリカン・ブルーズマンたちの放出されないムンムンとした熱気に覆われた黒人ゲットーに入っていったクレイジーな白人。強力なブルーズ・フリーク。ホワイト・ブルーズと呼ぶにはあまりに黒く、魂をシカゴ、サウス・サイドで悪魔に売り渡したブルーズ・ハーピスト。我が、尊敬する筋金入りのブルーズマン。ポール・バターフィールド。そういえばディランがエレキ・ギターで「ニューポート・フォーク・フェス」に登場した際、バッキングを勤めたのは彼等だった。
アメリカの若い白人たちがカッコイイと感じたイギリスの”ローリング・ストーンズ””アニマルズ”などが実は熱狂的なブルーズ・フリークであり、彼等のレパートリーの中に自国のアフリカン・アメリカンのブルーズのカヴァーがいくつも入っていることにホワイト・アメリカンは気づき、自分の隣にある黒人音楽を積極的に聴く人たちが増え始めた。なぜ気づかなかったか・・と言えば、アフリカン・アメリカンへの人種偏見からのブルーズ=下賤な音楽という認識をもっていたからだ。考えてみれば、学校、家庭教育によって差別意識を赤ん坊の頃から植え付けられているわけだから、まともに聴く白人が少なかったのも当たり前だ。 その差別意識のひとつの例だが、僕の友人(女性)がアメリカ、ウィンスコンシン州の不動産会社を営む白人家庭にホーム・ステイした時のことだ。散歩をしていると少し離れたところで黒人が庭掃除をしていた。するとその白人家庭の同年代の娘が「あれが黒人よ。恐いから気をつけた方がいいわ」と言った。友人が「どうして、恐いの?」と聞くと「どうしてって・・あなた、見て怖くないの?」何もしていないただ掃除をしている人間を見て怖いという意識を持てと言う人間の方が怖いと思うと彼女は僕に言った。70年代中ごろの話だ。 人種差別については世界の国々から非難もかなり受けていたアメリカだが、60年代になると人種差別、偏見に問題意識をもった進歩的な若い白人たちが増え始めた。しかし、そういった差別、意識をなくすと言っても小さい頃から植え付けられた観念がそう簡単になくなるわけがない。ほとんどの白人にとって黒人たちが居住する地域は絶対に行ってはならない怖いエリアだった。 ブルーズを聴くといっても黒人ゲットーに行く白人はまずいない。この頃は白人が主催するコンサート、またはニューヨークのヴィレッジのような白人学生街にあるコーヒー・ハウスにブルーズマンを招いて聴くという状況だった。いや21世紀になろうとするこの時代でさえ例えばシカゴの黒人地域のブルーズ・クラブで白人を見つけるのは難しい。彼等は(安全)と言われている白人地域にあるバディ・ガイのクラブあたりでしかブルーズを聴かない。なのにポール・バターフィールドはなんと60年代初めに黒人ゲットー、シカゴ、サウスサイドにリアルタイムの本物のブルーズを聴きたいがために入っていった白人だ。 ブルーズにとりつかれた彼は大学を中退し、ブルーズを教えてくれる人もいない彼は擦り切れるほどレコードを聴き、いつもブルーズ・ハープの練習をしていたという。やがて。ふたりのギタリストのエルビン・ビショップ、マイク・ブルームフィールドと知り合い、当時マディと同等にシカゴ・ブルーズの大ボスとして君臨していたハウリン・ウルフのバンドのリズム隊、ベースのジェーローム・アーノルドとドラムのサム・レイを引き抜き、1st.アルバム『ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド』をエレクトラ・レコードからリリース。 そして、バターフィールドはそのレコーディングでキーボードに起用した音楽学校の学生だったマーク・ナフタリンをバンドに誘い正式メンバーとし、ハードなツアーに明け暮れることになった。1965年のことだ。このレコーディングの時に収録から外されたテイク集のアルバムが95年に出たので、そこからもう1曲ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンドを。
2曲目の「ボーン・イン・シカゴ」は少しヒットしたようだが、ほとんどがカヴァーのブルーズ曲だったバターフィールド・ブルーズ・バンドはこの時代ライヴ・バンドとしての人気に支えられていたようだ。ビートルズのようにスタジオにこもってレコード製作をするという姿勢はブルーズ系にはあまりない。ひとつには「リアル」であることがブルーズにとって生命線だからだろう。だから当然、ライヴでどれだけリアルにその時の自己の感情を表現できるかということに神経が向いてしまう。ライヴをほとんどやらないロック・ミュージシャンはいるが、ライヴをやらないブルーズマンはいない。BB.Kingは現在も年間200本近いライヴをこなしているが、ブルーズマンとしてあるべき立派な姿だ。 ちなみに「何々ブルーズバンド」と名付けたのはポール・バターフィールドが元祖だとデビュー・アルバムのライナーに中村とうよう氏が書かれていた。「ブルーズバンド」と名前はついていないが、ホワイト・ブルーズバンドとしてバターフィールドよりやや後67年にデビューした「Canned Heat/キャンド・ヒート」もライヴ・バンドとして人気が高かった。
クレイジーなブルーズ・フリークだったボブ・ハイトとアル・ウィルソンのふたりによって結成されたキャンド・ヒートはジョン・・リー・フッカー調のブギが得意でダンス・ホールではヒッピーたちに ”kings of the boogie.”と呼ばれていた。”The Bear”というあだ名のハイトは歌いながらまさに熊のようにステージをのし歩き、アラン・ウィルソンのハーモニカはバターフィールドと匹敵するほどテクニックも素晴らしく、豊かな音色、繊細なビブラートは個性的だった。 『バターフィールド・ブルーズ・バンド』『キャンド・ヒート』が新しいタイプのロック・バンドーブルーズ・ロック・バンドとして注目されはじめた65年にブルーズマンの名前をポップ・チャートで探しに探してみたが、検索結果はたった1件。これだけでした。
ボビー・ブランドの歌唱に強い影響を受けていたリトル・ミルトンがブランド流の豪快さを残しつつ、ポップなソウル寄りの曲でブランドよりストレートな歌で自己を確立した彼の記念すべき曲。しかし、お聞きのようにブルーズとソウルのまん中にいるような曲で、歌詞も「ふたりで力を合わせてがんばろう」というとてもポジティヴなもの。同じチェス・レコードからのリリースだが、マディたちの曲と比較してしまうと「ブルーズかぁ?」と言う人もいると思う。 彼以外にブルーズマンの名前は65年の40チャートには見当たらない。しかし、この曲のようにブルーズに「サビ」をつけたような形式の曲は以外とたくさんあり、次の曲もそうだ。そして、この曲にやがて華開く「ファンク」の胎動が聞こえる。チャート1位には届かなかったが、3位。いまは「おはっ!」って慎吾ママのフィルムに映っているけど、この65年当時はこう言ってた「Oh!I feeeeeel Good!」ミスター・ダイナマイト、ジェェェェェムズ・ブラウン!
JBの3位からずーっと目を落としたら20位あたりにウィルソン・ピケットの「In The Midnight Hour」と肩を並べていたのが次のソウルフルなバラード。ソウルの曲だけどどこかにブルーズ・テイストが隠し味で使われている。まぁ、隠しているわけではないけどオーティスのソウル(魂)にはブルーズが宿っている。
オーティス・レディングは僕の中ではもう超有名なメジャー・ミュージシャンだが、チャート1位になったのは飛行機事故で亡くなった後にリリースされた”The Dock Of Bay”だけ。彼はソウル・シンガーとしても1流だが、ソング・ライターとしてもこの年に発表した後にアレサ・フランクリンによって大ヒットする”Respect”はじめ、”Security””Fa Fa Fa”など名曲を残している。 この60年代中ごろ、過去の遺産としてのフォーク・ブルーズ、カントリー・ブルーズがフォーク・ブームによって見直され、サン・ハウス、ミシシッピー・ジョン・ハートなどが再発見され再びレコーディングのチャンスを得て、かっての人気が消えつつあったシカゴ・ブルーズのボスたち、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、サニーボーイ・ウィリアムスンたちはイギリスのストーンズやアニマルズ、そしてアメリカのバターフィールドたちに「ブルーズの父」として敬意を受けヨーロッパに演奏に行き、アメリカでもロック・コンサートに出演したりレコーディングも50年代終わり頃よりは少し上向きになった。 しかし、それも過去に偉大な功績を残したという「過去形」のものであった。だが、一番大切なリアル・タイムにゲットーで演奏されている真っ黒なブルーズは一向にメジャー・シーンに浮上して来ない。当時の若い黒人たちの関心はモータウンの洗練された、ポップなソウルや、黒人意識を高めてくれるアレサ・フランクリン、カーティス・メイフィールドのインプレッションズなどに集まりブルーズは古い、ネガティヴな音楽だという捉え方になっていた。 北部のデトロイト、シカゴ、ニューヨークといった工業都市より、まだ南部の方がブルーズ、R&Bに対する人気は高かったが、音楽評論家、関係者の中にはブルーズはやがてなくなってしまうのではないか・・という意見が出始めた。若い黒人はソウルに夢中、白人はブルーズ懐古趣味だし・・、しかし、南部の黒人ブルーズ・サーキットをツアーして回っていたこの人などは聴衆からブルーズへの要望があることをしっかりと受け、リアル・タイムのブルーズを歌っていた。
シカゴ・ブルーズの若手のひとりバディ・ガイはチェス・レコードでのレコーディングにたどりついたが、チェスはブルーズからR&B、ソウルへの方針の移行を目論んでいたため、バディはシングルの録音をポツポツとやるしかなかった。バディは大御所たちのバックでなんとか食い繋いでいたが、憧れのB.B.Kingへの道は遠くに去っていくようだった。プロデューサーであり、べーシスト、ソング・ライターでもあるウィリー・ディクソンはバディをバック・アップしてくれたが、ブルーズを取り巻く状況は若手の最もリアルなブルーズを演奏するバディたちにいちばん厳しかった60年代だった。
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