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ブルーズとレコード会社(6) デューク・レコード(Duke Peacock Records) 前回は50年代始めに黒人がシカゴに設立したレコード会社「ヴィ−・ジェイ・レコ ード」の特集だったが、今回は「ヴィ−・ジエイ」より少し早く1949 年にテキサス 州ヒューストンで黒人事業家、ドン・ロビーが始めた「Peacock Records」と彼が後 に買収したメンフィスの「Duke Records」そう、ブラック・ミュージック史に燦然 と輝く名レーベル「Duke Peacock Records」の特集です。 ヒューストンの黒人社会の顔役、ドン・ロビーはタクシー会社とクラブを経営し、 タレントのマネージメント、ブッキングもする事業家だった。彼が手掛けていたゲ イトマウスが契約していた「アラディン・レコ−ド」の契約内容が良くないために 、「それならオレがレコード会社を作ってやるぜ」と「ピーコック・レコード」を 立ち上げた。(Duke Peacock Records)に所属していたミュージシャンをざっと挙 げてみます。 まずブルーズ派でボビー・ブランド、ジュニア・パーカー、ゲイトマ ウス・ブラウン、ビッグママ・ソーントン R&B派でジョニ−・エイス、OV.ライト 、ジョー・テックス、ゴスペル派にはファイヴ・ブラインド・ボーイズとインディ ーズ・レーベルとしては立派なミュージシャンばかりだし、売れたけれど10年ほど で倒産した「ヴィー・ジエイ」とくらべると70年代まで続いた「デューク・ピーコ ック」のドン・ロビーには経営能力があったと評価すべきだろう。 40年代末、テキ サス一帯ではホーン・セクションを入れた派手な、ダンス・ビート「ヒューストン ・ジャンプ」が大人気で、その中心にいたのが当時、T・ボーン・ウォ−カーとタイ マンを張っていたクラレンス”ゲイトマウス”ブラウンだった。つまり、ミュージシ ャンとして先端をいくゲイトと事業家としてかなり成功していたロビー、より高い 成功を夢みている点でふたりにはあい通じるものがあったのだろう。1954年ヒュー ストンじゃ泣く子も黙るバリバリの売れっ子、ゲイトマウスのスピード感があり、 粋で、ポップなブルーズ・インストをまず1曲!
Okie DokieとはPerfectに、つまり「完全にOK」「文句なしにバッチリや」という意 味。Stompとは「切手」という意味もあるStampから来ている言葉で「足を踏み鳴ら す」「強く踏みつける」という意味がある。音楽的にはブギ、シャッフルなど同様 にリズムを表わす言葉でこの曲に使われているリズムがストンプ。また、近藤房之 助がオーナーの下北沢のブルーズ飲み屋の名前も「ストンプ」・・・。 ギタリスト ならこのスピード感あふれるブルーズ・インストを一度は弾き倒してみたいだろう 。それを実現してレコーディングまでしたのがクロス・オーヴァー・バンドとして 70年代に人気のあった「スタッフ」のギタリスト、コーネル・デュプリーだ。彼も 同じテキサス出身だ。彼のソロ・アルバム「ティージン」に収録されている「文句 なしにキョーリョクや!」を。
とにかく、テキサスは昔から名ギタリストを数多く世に送りだしている州で、T-ボ ーン・ウォーカー、そして彼の友人のジャズ・ギタリスト、チャーリー・クリスチ ャン、ゲイトのフォロワーのアルバート・コリンズ、ジョニー・ギター・ワトソン 。名人ウエイン・ベネット、最近も新譜を出して元気なロイ・ゲインズ、有名ブル ーズ・インストの「ブルーズ・アフター・アワーズ」のピー・ウィー・クレイトン 、3大キングのひとりフレディ・キング・・そして、80年代にブルーズに新たな息を 吹き込んだスティーヴィー・レイボーンなどなど。ギタリストの宝庫テキサスであ ります。 次の曲はみなさんもどこかで聴いたことがあると思いますが、最も有名なのはエル ビス・プレスリーのヴァージョンですが、オリジナルはこの黒人女性シンガー、ビ ッグママ・ソーントン。ビッグママというくらいですから立派な体格というか、ダ イエットとは無縁というか・・・、歌の方も超メガトン級です。そう言えばねシカ ゴの女性ブルーズシンガー、ココ・テイラー、故ヴァレリ−・ウエリントンもメガ トン・・か。
ジャニス・ジョップリンがカヴァーして有名になったスロー・ブルーズ「 Ball&Chain」もこのビッグママがオリジナルだが、女性シンガーでああいうストレ ートなブルーズを豪快に歌っている人は意外と少ない。やはり女性の場合、ブルー ズ・バラード的なところへ落ち着いてしまうことが多いのだが、この人は生涯ダイ ナミック・ブルーズ・シャウターだった。50年代半ばにテキサスからウエストコー ストに移り住み、ジョニ−・オーティス楽団などでも活躍したが、僕が観た76年頃 はすでに糖尿病を患って痩せてビッグではなくなり、痛々しい感じだった。ビジュ アル的にも音楽的にも「ブルーズ界の肝っ玉かあさん」と僕は勝手に呼んでいたが 84年にロスで亡くなった。 このビッグママのアルバムを見ても分るのだが、作詞作曲家名を記載するところに 社長のドン・ロビーの名前がいくつも載っている。ところが彼は作詞作曲などでき ず、彼は他人が作った曲を安く(?)買い取って自分の名前にしてヒットした場合 の多額の印税収入を目論んでいたのだ。別に違法ではないのだが、なんとなくすぐ に現金が欲しい人間から安く買い叩いて、ヒットすれば儲けもの・・みたいなイヤ な感じがする。このドン・ロビーというオーナーはいろいろと悪評の多い男だった のだ。その悪評の数々を・・・「印税の払いが悪い」「すぐに暴力をふるう」「ギ ャングと関係がありピストルをいつも持っていた」「文句を言いに行くと黙ってテ ーブルにピストルを出すヤツだった」等など。 彼はツアーのブッキングの権利もも っていたため、彼に逆らうと中西部、中南部での主なクラブで仕事ができないこと になるため、仕方なく彼と関係をもっていたミュージシャンも多かった。また、ヒ ューストンにあったロビーのクラブ「ブロンズ・ピーコック」には、中西部をツア ーするほとんどの黒人ミュージシャンが出演した。成り上がりの経営者にはいつの 時代も何がしかの悪評がつきものだと僕は思う。「いいひと」だけでは会社、それ も時代を先取りしなければならないレコード会社など経営できない。確かに悪評が 多いロビーに対して黒人の社会進出がまだ難しい40年代に会社を設立し、他の多く の黒人レーベルが短期間で倒産したり買収されたりしたが、死ぬまで会社を維持し 続けた男として評価する人たちもいる。どっちにしろ、彼がいなければこんなに素 晴らしい音楽が現在の僕たちの耳に届いたか、どうか・・。 ロビーは1952年にはメンフィスの「デューク・レコード」を買収し、会社名は「デ ューク・ピーコック」となった。「デューク」にはボビー”ブルー”ブランド、ロ スコー・ゴードン、ジョニ−・エイスなど才能のある歌手がいたが、「デューク」 のオーナー、ジエイムズ・マティスが「デューク」のレコードを全国に配給してい る配給会社がその代金を払わないので、ドン・ロビーに助けを求め共同経営者にし たのが後の買収の発端となった。ボビー・ブランドは兵隊に行って戻って来たら自 分の契約書がドン・ロビーのものになり、それまでレコーディングしていたメンフ ィスからヒューストンへ移ってレコーディングが始ったという。 現在もマラコ・レ コ−ドでバキバキの現役、ノーバイアグラで活躍するブランドだが、息の長いブラ ンドの活躍も黄金のデューク・ピーコック時代があったからだ。実際現在のステー ジでもブランドは必ずこの時代の曲をいくつか歌うし、バックのサウンドの好みも この時代を思い出させる。では、クラプトンもカヴァ−していたが、歌の深みが違 うのはもちろん、ビートが違うことに注目してほしい。同じシャッフルのビートだ が、これぞテキサス・シャッフル!!。
ドラマーのジエイムズ・ギャドソンと話をしている時にリズムの話になり、僕がシ ャッフルの話をすると彼は「シャッフルにもたくさんるんだ、シカゴ、ニューオリ ンズ、テキサス・・・」とその場で手で膝を叩いて違いを話してくれた。その中で テキサス・シャッフルを前面に出したのはT・ボーン・ウォーカーだと彼は言った。 いまのは典型的なテキサス・シャッフル。 ボビー・ブランドはこのデューク・レコード時代に個性的な独自のブルーズ・ワー ルドを作り上げたのだが、バックでシャレたギターを鳴らしていたのは名手ウエイ ン・ベネット。躍動するドラムはジョン”ジャボ”スタークス、彼は後にジェイム ズ・ブラウンのバンドあの「JB's」に加入する。そして、トランペッターのジョ− ・スコットがホーン・アレンジを担当し、特徴のあるスウィングするホーン・サウ ンドを作りあげた。 表情豊かなブランドの歌は時に豪快であり、時にクールであり 、また女性に語り囁くときのようにSuper Sweetな時もある。しかし、ブランドの ブルーズ・シンギングがどんなにディープかつ都会的であり、振幅の大きなダイナ ミズムを持っていてもここ日本ではギターを持たないブルーズマンは人気が出ない 。黒人サーキットの中ではBBkingクラスの人気と実力なのに・・・・去年、大阪ブ ルーノートでブランドを観てその客入りの悪さに涙が出そうになった。 大阪のブラ ック・ミュージック・ファンは何しとんねんと憤っていると、どこかで見た黒人の おっさんを会場で発見。痩せ身のあのイナタイ顔は「コーネル・デュプリー」やん か・・。そう、あの「スタッフ」、「キング・カーティス&キングピンズ」のギタ リスト、コーネル・デュプリー!彼は別の仕事で来日していたらしいが、同郷テキ サスの先輩、ブランドがやっていると聞いて是非1曲セッションをさせてくれとやっ てきたらしい。 正式なゲストだった近藤房之助のギターを借りて演ったのは「 Stormy Monday 」。先輩の歌を聴き、ソロを回されたデュプリーは見事なブルーズ ギターを披露し、3コーラス目にはテキサスの油田が火を吹いたような素晴らしさで した。おそらく、デュプリーは次のブランドの「Stormy Monday 」を聴いていただ ろうし、このギタリスト、ウエイン・ベネットのこともよく知っているはず・・・ ブルーズの名演のひとつを聴いてください。
ボビー・ブランドが前回来日し、「東京ブルーノート」でそのディープなブルーズ を聞かせてくれた帰りに偶然会った吾妻光良と話をして互いに同じ感想を持ってい たことがわかった。それは「ブランドを聴くとジュニア・パーカーが聴きたくなる 」だった。ボビー・ブランドと「ブルーズ同盟」(Blues Consolidated)というシ ョーの名前を掲げて南部をツアーしていたのが、ブルーズ界の至宝、ジュニア・パ ーカーだ。重厚で、テンションがあるそのなめらかだが、決してブルーズの核を失 わない唱法は後続のブルーズマンの手本となり、シカゴ・ブルーズのマジック・サ ムなどはもろに影響を受けている。ジュニア・パーカーはハープを吹くが、ギター は弾かないのでやはりボビー・ブランドと同じように日本では人気があまりない。 前々から言っていることだが、ブルーズにとって最も重要なことのひとつが「歌詞 」だ。ブルーズの典型的な音楽形式は(1コーラス12小節)なのだが、その曲がブル ーズか否かを決めるのは音楽形式でもリズムでもなく、派手なギター・ソロでもな い。メロディやコード付けはもちろん重要だが、歌詞もブルーズにとって重要項目 だ。歌詞によってブルーズか否か決定されると言った黒人ミュージシャンもいる。 ブルーズは決して難しいことを歌っているわけではない、リスナーの皆さんももっ とブルーズの歌詞に耳を傾け、歌詞カード(間違っていることもあるが)を読んで ほしい。 そうすれば、このジュニア・パーカーやいまのブランドのような歌だけで ブルーズを表現する人のことが理解できると思う。次の大ヒットした曲はこんな意 味です。 【オレと次に会うときは、物事は同じじゃないぜ。もし、それでオマエが 傷ついたならねオマエ自身をせめるんだな。ほら、光るものがすべて金じゃないっ て言うだろう。本にも書いてあるだろう自分で蒔いた種は自分で刈れって。オマエ は嘘をついて、ごまかして、さよなら・・だもんな。ほんとうにひどい女だよ。で もほかの女があんたの代わりになるんだよ。(女王がその王座につく)】
この天才ブルーズ・シンガーは1932年にウエストメンフィスで生まれ、子供の頃は 他の多くのブルーズマンと同じように綿花畑で働いていた。その頃のアイドルはラ ジオから聴こえてくるサニー・ボーイ・ウィリアムスン(ライス・ミラー)だった 。その憧れのブルーズマンの前でハーモニカをプレイしたのは16才の時。気に入ら れたパーカーはすぐにバンドに入れてもらったのだが、それはサニーボ−イが仕事 をサボるためや、もうひとつ別の仕事に行くときの代役だった。 一匹狼で、女癖が 悪くて、大酒飲みで、時にはメンバーにギャラを払わないでどこかへ行ってしまう という悪い男だったサニーボーイを10代のパーカーはどう思ったのだろう。やがて 、彼はハウリン・ウルフのバンドに入ってツアーに出るようになり、52年にアイク ・ターナーのプロデュースでモダーン・レコードに初録音。その後メンフィスのプ レスリーが初レコーディングしたサム・フィリップスの「サン・レコード」に「 Feelin' good」「Mystery Train」などを録音した。 フィリップス(彼が一番好きだ ったのはハウリン・ウルフだった)が好んだアーシーなブルースのサウンドよりモ ダンなホーンを入れたサウンドの方が自分の歌に合っているとジュニア・パーカー 本人は思っていた。いまの「Next Time....」はデューク・レコードでの初期のもの だが、ギターはマディ・ウォーターズの録音にも入っているパット・ヘア、そして ドラムは僕がBBkingとセッションした時の名ドラマー、ソニー・フリーマンだ。
1960年録音のこの曲ではジユニア・パーカーがブルーズ・ハープを吹いている。こ のホーン・セクションが奏でるモダンなサウンドの中から聴こえてくるダウンホー ムなハープの音、このサウンドが彼自身を表わしているように思う。つまり、後に ビートルズのカヴァ−も歌った彼には時代の先端をいく気持ちもあり、難しいバラ ード曲をさらっと歌う歌唱力もあった。でも、彼の心の奥にはずっとブルーズの核 があった人だと僕は思う。 綿花畑で働きながらラジオから流れるブルーズを心で聴 き、10代初めにメンフィスへ出て憧れのサニー・ボーイの元でハープを吹き、享楽 のビール・ストリートで彼は何を見たのだろう。ウルフのバンドに入って南部をツ アーし何を教えてもらったのか。サニー・ボーイとウルフ、この2人のブルーズ魂 とブルーズマンの生きざまが彼の心から消えることはなかったはずだ。71年に脳腫 瘍で39才で亡くなった彼がもし生きていれば・・・ブルーノートでブランドを聴い た夜、僕の気持ちはテキサス、ヒューストンの騒がしいダンス・クラブ にいた。
この素晴らしいバラードを聴く度にこういうブラック・ミュージックを好きになっ て良かったと思う。ジョニ−・オーテイスのオーケストラをバックに過剰でもなく 、不足でもなく、飾り気はないが、想いは深く、大きくて、豊かなR&Bバラードの華 麗さがある。彼は1954年クリスマスの夜、コンサート会場の楽屋でロシアン・ル− レットで遊んでいて亡くなった。しかし、そこには様々な陰謀があったとも言われ ている。翌55年、この曲は10週に渡ってR&Bチャートのトップ1位になった。
デューク・レコードは次第に大きな会社となりその傘下に収めた「バック・ビート 」というレーベルにいたのが、真のソウル・マン、O.V.ライトだった。このO.V の レコーディングはすべてメンフィスの「ハイ・スタジオ」で録音され、ミュージシ ャンもホッジズ兄弟のリズム隊、ウエイン・ジャクソンたちのホーン隊がその中核 となった。スタジオのオーナーはウィリ−・ミッチエル、彼はプロデューサーでも ありいわゆる「ハイ・サウンド」の生みの親であり、ここからアン・ピープルズ、 アル・グリーンなどを送りだしている。 ドン・ロビーは時代の音楽に鋭敏だったの か、ボビー・ブランドの「The touch of soul」をこのハイで作ってヒットしてから 、一挙に制作をメンフィスに移し、ウィリ−・ミッチェルにプロデュースさせてい る。そして、ウィリ−はこのディープなソウルを持ったシンガーに相応しい曲とサ ウンドを提供し、シンガーはそこにありったけのソウルを注ぎ込んだ。真のソウル ・アルバムがここから5枚生まれ、そのすべてが文句のつけようがない。O.V.が日本 公演の最後に歌った曲。
79年初めて来日した彼はすでに病に冒されていたと思う。ステージ衣装のスーツが だぶだぶに見えるほど彼は痩せていたが、澁谷公会堂のステージの中央に立ち、 MCもなくただひたすら歌いつづけるOV. のことを僕は一生忘れることはない。歌手 として真摯であること誠実であること心を込めることの意味を彼は歌い続けること であの夜の観客に伝えたと思う。彼が精一杯のサービスに少しダンスステップして ステージを去り、幕が下りたが、うつむいたまま僕はしばらく席から立てなかった 。誰とも話したくない気分だった。あれから20年近くなるが、いまでもその時感じ た気持ちを僕は言える。そして、ソウル・ミュージックが何かと問われたらこの魂 の原石のようなO.V.ライトの歌をまず僕は聴いてくれと言うだろう。80年11月彼は 心臓発作で亡くなり、天国に召された。 1949年からドン・ロビーが亡くなった70年代中ごろまで「デューク・ピ−コック」 にはこのように素晴らしいミュージシャンが在籍した。どのミュージシャンも自分 のカラーをしっかりもっているが、それを下から持ち上げたレコーディング・ミュ ージシャンやアレンジャー、プロデューサーの力も見逃せない。それらがすべて揃 って不朽の名作はできあがるのだ。社長のドン・ロビーの実体はわからないが、こ れだけのミュージシャンを選ぶのだから音楽を聴き分ける耳はあったのだろう。 |
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